臆病な者達

何故、人は生まれて来るのだろう。
必ず、終りは訪れるのに、なんの為に生まれるのだろう。

彼女は、心臓が止まるほんの数分前、ふと、そんな事を考えた。
瞼を開けてみる。うっすらと温かな光、透
ける様に見えた向日葵色の髪、
見なれた蒼い瞳が優しい眼差しで
自分を見下ろしている。

こんなに素直に、人は微笑む事が出来る。
包み込む様に柔らかく手を握ってくれ
るその人は、そんな単純な事を
命懸けで教えてくれた。

愛する事ではなく、ただ、無条件に、
生きている それだけで愛される幸せを
側にいるだけで教えてくれた。

「ありがとう」他に言葉は何も思い浮かばない。


生きて行くだけで苦しい人生だった。
けれども、それもようやく終る。

幸せで、温かな優しい光に包まれて、
彼女はその光を充分に瞳に受け止めて、ゆっくりと瞼を閉じた。



その口元に、美しい笑みが浮かべたまま、彼女は永遠の眠りについた。



彼女が生きた時間は、僅か、20年と少しだけ。
「ついてないわね・・・」とナミは溜息をついた。
「ログのとおりに進むしかないってわかってはいるけど、なるべくなら避けたい島ね」
ロビンも上陸する準備に取りかかりながら、同じ様に肩をそびやかす。

この島は、長い間、島の統治権を巡って、紛争が絶えない。
世界政府と、この島を昔からずっと支配している王族、それ以外にも、
少しでも政治的に不安な事柄が起きればすぐに民衆の中から、でしゃばりな政治家が
出てきて、余計な内戦を仕掛ける。その繰り返しで、この島はもう何十年も戦が
続いている状態だ。

新しい家を建ててもすぐに戦火の前に灰になる。
人は瓦礫の街に身を寄せ合って暮らしていた。
誰もが飢え、それを凌ぐ為に女は外海から訪れる海賊や商人に身を売り、
男はその日の糧、その日の命を繋ぐ為に戦う。
昨日まで味方だと思っていた隣人は、権力の均衡が崩れた途端、敵になる。
それを経験で知っているから、誰もが殺伐としていた。

「・・・嫌な場所だな」とサンジも眉を曇らせて呟く。
麦わらの一味も、懐が寂しいけれど、この島では誰が悪党なのか見分けがつかない。
うっかり手を出した相手が、堅気で、家に飢えた子供が大勢いる、と言う事だって
充分に有り得る。

ゾロとサンジはそれでも、廃墟とさして変わり映えのない町を歩いた。
この島に着いてから、ずっと焦げ臭い空気を吸い続けて、サンジも
煙草を吸うのさえ億劫になって来た。

「こんな場所で生きてりゃ、まともな人間だってまともじゃなくなる」とゾロも
低く呟いた。
物陰から自分達を見詰める子供の目線は、海賊を恐れる子供の目ではない。
何か、食べ物を恵んで欲しいと切望しているか、油断を見澄まして、
自分達の懐の中の金を掠め取ることを狙っている目だ。

そんな街で、サンジは一人の女と出会った。

食料の買い出しをしたくても、碌な食べ物がない。
(買うより、どっかに忍びこんでかっぱらう方が早いか)と思った。
兵隊を動かしている、その一番上の奴らは兵士や島の人間が飢えているのに、
自分達はこの戦下でも充分に美味く、栄養のあるものをたっぷりと食べているに違いない。(少し盗むくらい、どうって事ねえだろ)とサンジは一人で、堅固な城砦へと
歩いていた。
(大剣豪に盗人の真似事はさせられねえからなあ)とゾロは船に置いて来ていて、
サンジは一人きりだ。
とっぷりと夜も更けて、城砦への続く石畳の両側は崩れそうな建物が並び、
どことなく、如何わしい空気が漂っている。

薄明かりが洩れる様に薄く開かれた扉から、肌を露出させた若い女が盛んに
出入し、外の様子を伺っていた。
(・・・ホントに嫌なところだ)サンジはこの街の役割にすぐに気付いて、
建物から目を逸らして、余計なモノを見ないよう、歩く先だけを見る。

「そいつは乗り逃げだ!金を払え、どろぼう!」
女の金切り声が前から聞えて、サンジは足を止める。
真っ正面から、バタバタと男の足音が聞えてくる。
サンジがその若い男の進路に立ち塞がると、男は凄い形相で
「どけ!」と怒鳴った。
着乱れた服装はだらしないが、その身なりを見て、サンジはこの島で戦っている
兵士だと見て取る。
銃も、剣も携えているだろう。だが、それを構える余裕すらなかった。

いきなり、無言でサンジはその男の横っ面に、振り上げた踵を叩きつけ、蹴り飛ばす。
道の端まですっ飛び、男は瓦礫を積み上げた山の中へ頭から突っ込んだ。
そして、失神したのか、そのまま動かない。

「・・・・・」追い駆けて来た女は裸足だった。はあはあと荒い息をし、サンジを
ちらりと一瞥して、何も言わずに瓦礫に突っ込んだ男のポケットをガサガサと
まさぐる。そして、サイフらしきもの引っ張り出して、
その中の札を全て抜きとって、数えもせずに大きく開いた胸元に全部、突っ込んだ。

「・・・あんた・・・海賊?傭兵?」と女はサンジに尋ねて来た。まだ、
息が整わないのか、肩を上下させ、声も切れ切れだ。
首には赤銅色のコイン型のペンダントをぶら下げている。

長い向日葵色の髪を結い上げているが、男との行為の間に乱れて、
その髪型も随分、乱れてしまっている。
「お嬢さんは・・・ひょっとして、北の海の出?」とサンジは彼女の質問に
答えずにそう尋ねた。

やや薄汚れてはいるが青白い程透き通った肌の色、ガラスの様な蒼い瞳、
向日葵色の髪は、北の海で生まれた者に多い特徴だ。
「そうだけど・・・あんたも、そうなの?」と女は首を傾げて嬉しそうに笑った。

何故、生まれた土地の事などをいきなり聞いたのか、サンジには判らない。
浮ついた言葉ではなく、彼女を見た瞬間、今まで経験した事のない感覚を
感じた事だけは分かった。

名前も知らない。
顔も見たこともない。
今、今日、初めて会う女。

でも、サンジは(俺は・・・この女性を知っている)と直感した。

「ここで知り合ったのも何かの縁よ」
「あたしと遊んでいかない?」

彼女は微笑んでいる。けれど、目は笑っていない。真っ直ぐにサンジを見つめ、
その視線の中にはサンジが感じているのと同じ、経験した事のない緊張感が
漂っている。

あなたは誰?と彼女の目がサンジに問いかける。
そして、サンジもその視線から目を逸らさずに無言で問いかけた。

あなたは誰?
恋に落ちる男女の様に、しばし、二人は無言で向かい合う。
お互いの問い掛けに対して、お互い、黙ったままで、だた、じっと探り合うように
見詰め合うばかりだ。

何故、自分達はお互いを知らない筈なのに、知っているような気がするのか。
その答えは、そのまま、二人が交し合うお互いの正体を尋ね合う質問の答えに
なると思うのに、どちらとも答えられない。
そして、サンジはその問いかけを言葉にして、彼女に投げた。
「あなたは・・・誰?」
「あんたこそ・・・誰?」彼女からも同じ問いかけが返って来る。


「ホントの名前は知らないわ」
彼女の家ではなく、二人は道端に並んで座り込んだ。
こんな事は彼女にとって、とても珍しい事に違いない。
一晩に出来る限りたくさんの男の相手をし、金を稼がなくてはならず、
雑談で夜明かしする暇はない筈なのに、彼女はサンジと居る事を嫌がらなかった。

「ホントの名前?」サンジが不思議に思って彼女の言葉を聞き返すと、
彼女は灰だらけの地面に指でくるくると稚拙な船の絵を描いた。

「物心ついた時には、客船のメイドをしてた」
「小さな頃はね、客のシーツを洗ったり、客室の掃除をしたり・・・」
「初潮になる前からもう、客船の中で金持ち相手に夜の相手をしてたわ」

「・・・そっか」とサンジは壮絶な過去をいとも簡単に他人の噂話しをするような
暢気な口調で言う彼女の言葉になんと返答していいのか判らない。
(俺らしくねえな・・・)と思いつつ、曖昧に相槌を打つ。
「あんた、いくつ?」
彼女は話しを変えようと思ったのか、明るい口調でサンジの歳を尋ねる。

「俺ですか?俺はもうすぐ20歳・・・かな、多分」
「多分、ってなに?」サンジの答えに女は小さく笑った。
膝の上で頬杖をつくその手首も薄い布ごしに見える膝頭もとてもか細い。

「俺も物心ついた時には客船のコックだったからホントの誕生日は知らないんです」
「ただ、サンジって呼ばれてたから自分をサンジだと思ってたけど、」
「あなたと同じで、ホントは違う名前だったかもしれない」

そう言うと、彼女は興味深そうにじっとサンジの顔を眺めた。
「あんた、サンジ・・・って言うの・・・」としみじみと呟いた。
「娼婦が自分の歳を言うのもナンだけど、あたしは25よ、多分」
「あんたより、5つ年上ね」サバはよんでないわ、と言って彼女は胸の
コイン型のペンダントをはずし、サンジの目の前に差し出した。
サンジは何気なく、それを受取る。指先に触れて初めて分かったが、それは
薄く細工されたロケットになっていた。
「北の海の人間、ってだけの縁じゃないわ」

娼館から漏れる薄明かりだけの暗い中だったからお互い分からなかった。
けれど、肩が触れるくらい近い距離にしゃがんでいて、お互いの顔を見て、
同じ場所で二人の視線が固定する。

「そんな眉毛してる人間なんてそうたくさんいるものじゃないわ」
「でも、あなたは・・・」サンジが彼女の眉毛を見て、普通の人間と変わらないのを
いい掛けると、
「バカね、剃ってるのよ」
「どんなに綺麗にお化粧したってこの眉毛の所為で台無しになるんだもの」と言い、
長い前髪に隠れて居た反対側の眉毛をサンジに見せた。

「左目は人に見せちゃいけないってなんか子供の頃からずっと思ってて」
「こっちがわの目は・・・好きな人にしか見せた事無かったのよ」
そう言った彼女の眉毛はサンジと同じ形をしていて、その瞳の色もサンジと
全く同じ色をしている。
「神様の・・・ううん、運命のなせる技よ」
サンジの手の中にあるペンダントを彼女はパチン、と器用に使って開く。
色褪せた小さな小さな写真がその中に閉じこめて在った。
「名前も日付もないの。客船に乗ってる時から、ずっと持ってたわ」

ふくよかで活発そうな5歳くらいの少女が本当に愛しげに赤ん坊を
抱える様に抱いて笑っている。
少女にも、赤ん坊にも、見間違う筈もない特長がある。
「これは・・・」サンジは驚いて声も出せない。
こんな偶然、こんな巡り合わせがあるなんて考えた事もなかった。
驚いて声も出せないサンジに彼女も、信じられない、と言った風で静かに呟く。
「その子があたしだとすると・・・歳の頃もちょうどぴったり合うわ」
「サンジって名前がホントかどうかは分からないけど、」
「あたし達はどうやら、生き別れの姉弟みたいね」

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