サーシャは、眠りたいだけ眠った。
そして、何か食べたいと思った時は、自分の為だけに作られる料理をほんの少しだけ口に運んだ。

人心地もつかず、医者の診立てを聞く気にはまだならない。
聞いたところで、どうせ、いつも通っていた医者と大差ない事しか言わないだろう。

自分の人生なのに、サーシャはその人生を自分の為に生きた事がない。
その所為か、生への執着もさして強くもないし、だから自分が死ぬかもしれないという怯えも薄い。
(…お腹が痛いのなんて、いつもの事よ…。堕ろす時の方がよっぽど辛いもの…あの惨めな痛さに比べれば、なんて事ない痛さだったわ…)と思い、まさか自分の体が死病に冒されているとは夢にも思っていなかった。

自分がいつ死ぬかと陰鬱に気を病むより、今は、誰かに守られて、温かな食事で腹を満たし、この穏やかな時間の中で親鳥の羽根の下でうずくまる雛鳥の様に、心地良い温もりに抱かれて、思うまま まどろんでいる方がいい。

サーシャの心は、凪いだ海の様に穏やかだった。

大量に体から血が流れ、痛みに悶えていたのが、まるで嘘の様だ。
まだ少し頭がぼうっと重く、いつまでも手足の先が温まらないだけで、腹の痛みはない。
いつもなら、この程度まで体調が回復すると無理に体を動かし、客を取っていた。

こんな狂気に染まった町では、いつどんな危険が自分の身に振りかかるかわからない。
死ぬのが怖いとは思わないけれど、あまりにも無残な死に方をするのは真っ平だった。

肉欲にまみれた男達の手で体をもみしだかれ、体がクタクタに疲れていれば、どうにか尖っていた神経も麻痺し、浅くても、眠りに付く事が出来る。
食うに困る事よりも、サーシャは眠れない事の方がずっと辛かった。
夜は、月が出ていても、星が空に輝いていても、それを見上げない者には、夜はただ暗い。その暗さが作り出す闇は、人の孤独と不幸を浮き彫りにする。
自分がどれだけ孤独か、どれほど不幸か。
それを思い知らされる夜がサーシャは大嫌いだった。

眠れば、何も考えなくて済む。孤独と寂しさに心が震える事もない。
目的を遂げる為に生き延びる事と泥の様に眠る事、それだけの為に、サーシャはずっと無理を重ねて来た。

だから今は、もう少し、この穏やかな時間の中にゆったりと体を預けていたい。
そうして、サンジが連れて行ってくれるといった、砂漠の国を心の中に思い浮かべ、その砂漠の国の衣装に身を包んで、幸せに暮らす未来の自分の姿を空想して遊んでいたい。
夫の恨みを晴らそうと、あんなにも猛っていた気持ちも、体を貫いた痛みと共に消え去ってしまったのか、今はサーシャの心の中から失せてしまっていた。

ロロノア・ゾロを殺す事、それだけを願い、目的にし、生き甲斐にして来たのを忘れた訳ではない。もちろん、挫けたつもりも諦めたつもりもない。
それなのに、何故、そしていつの間に、こんなにもその気持ちが萎んでしまったのだろう。

「…あなたの作る料理には、…何かの魔法でもかかっているみたい」
ようやくベットの上で体を起こし、食事を摂れる様になった時、サーシャはふとそう呟いた。

「…魔法?なんの?」鸚鵡返しにそう言って、サンジが、埋もれていた記憶の中から蘇えった優しい父の面影をそっくり受け継いだ血を分けた弟が、サーシャに優しく微笑む。

その他愛ない問いに答えず、サーシャは食べかけの食事に目を落す。
「…私、食事が楽しみだなんて、一度も思った事ないの」
「生きる為に必要だから食べる。食事って言うものだと思ってた」

何かを食べて美味しいと思った事もない。特別に好きな食べ物もない。
だが、どれだけサーシャが食に執着がなかろうと、サンジはサーシャの事だけを考え、サーシャの為だけに、温かな食事を用意してくれる。

「…だから、こんな食事は初めてなの。ほら、こうやって、」
サーシャは優しい温もりのスープを一さじ掬って、小鳥の様にそっと唇を尖らせ、その琥珀色の露を口の中に流し込む。
心地良い温かさが喉を撫でて、その露はサーシャの体の中に流れ込んでいくのをサーシャは味わう。
そのさざ波の様な静かな感動と感謝を、上手く言葉に出来るだろうか。
そんな戸惑いを感じながら、サーシャの心から言葉が溢れていく。
「…こうやって飲み込むと、体が温かくなる」
「…そしたら、ここがね…」
スプーンを置き、サーシャは自分の胸に両手を重ねて、目を閉じる。
「…ここにあった棘とか…憎しみとか寂しさとかが、ゆっくり溶けていくみたいな気がするの…」
「母親が病気の子供に食べさせる為に作った食事って、…こんな味なのかも知れない…」

戦時下で、新鮮な野菜や果物など殆ど手に入らないのに、それでも心を砕いて作られた食事を口に運ぶごとに、凍えていた心が温もり、体の奥底から力が染み出してくる。

「…美味しいわ。…ホントに美味しい」と心から素直に言葉が出て行く。
「…ホントに?」サーシャの何気ないそんな言葉に、サンジが本当に嬉しそうに微笑む。

そして、その笑顔を見ると、サーシャも嬉しくなる。
心の中に小さな青空を抱いた様なその感覚をサーシャはしっかりと噛み締める。
誰かの表情の動き一つで、心が動く。生まれ変わったかのように、自分の心が躍動し始めている。
その自分の変化にサーシャ自身が驚いた。

そして、(…早く、良くならなきゃ…)とサンジの顔を見て思う。
自分の顔色が冴えて来た、体温が安定した、そんな事でサンジが安心し、笑ってくれるのなら、早く良くなりたい。ごく自然にそう思えた。

目が覚めて三日目の夜。
その真っ黒な夜も、いつもどおり遠くで砲撃の音が聞えていたが、サーシャの心はやはり穏やかなままだ。

「…手足が冷たくてかじかんでるみたい…」
痛い程の手足の冷えに、サーシャは誰に言うともなくそう呟いた。
その小さな独り言を聞き、サンジは、寝入るまでずっとサーシャの手を温める様に包んで摩ってくれた。

(人って、優しくされると、…自分も優しくなるものなのかしら…)
その時、夢心地にサーシャはそんな事を思った。
(…きっと、違うわ…)
娼婦としてサーシャを扱った男達の中にも、優しげな男は大勢いた。
だが、どれほど男達に優しくされても、サーシャは彼らに優しくしたいとは思わなかった。
性欲むき出しの自らの生殖器をサーシャの体にねじ込み、
「優しくしてやったんだから、その分、サービスしろよ」などと下卑た事を言い、優しさの代価を肉体の快楽にのみ求めるそんな男達にどうして優しく出来るだろう。

だが、サーシャは生きていく為に、目的を遂げるその日まで生き続けるために、
その浅ましい優しさに応えた振りをして、男達を繋ぎとめておかねばならなかった。

優しくされた分、その代償はきっちりと払わなければならない。そうしなければ、薄情者と呼ばれ、いずれは客に見放され、やがては野垂れ死にするだけだ。
浅ましい優しさに対して、嘘の優しさを重ね、やがて、サーシャは人の優しさを信じなくなった。

だが、サンジの優しさは信じられる。
何故なら、サンジはサーシャにその優しさの代価を何も求めていないからだ。
だから、一片のよどみも曇りもない純粋な、宝石の様な優しさだと信じられる。

サンジがサーシャに何かを求めているとすれば、それはサーシャが幸せになる事だけだ。その愛情に、サーシャはただ甘えていればいい。

「…あなたって、誰にでもこんな風に優しいの…?」

どんな答えが返ってくるのか、少し意地悪な興味が頭をもたげ、サーシャはそっと目を開け、じゃれる様にサンジにそう尋ねてみる。

「…そうだよ。俺はどんな女性にも優しいよ」
困りもせず、サンジはサーシャの心を見透かした様に悪戯っぽく笑って答える。

その顔立ちも髪の色も、女性なら誰でも心惹かれてしまうだろうと言うくらいに美しい。
そう思うのに、サンジを男性として認識出来ていないのは、やはり、姉と弟と言う血のつながりの所為だろうか。

「嘘」目を閉じながら、サーシャは笑った。この美しく優しい男が、自分一人だけの、一人きりの弟だと思う事が突然、嬉しくなる。
「…ホントだよ。どうして嘘だなんて思うんだい?」
サンジの声は、穏やかな子守唄の様だ。
こんなに耳障りの良い声を持った男を、夫以外にサーシャは知らない。

「…わかるもの…」
そう呟いて、サーシャの意識が夢と現の間に彷徨い始める。

どんなに肉体を繋いでも心が通わない相手がいる。
けれど、肉体など繋げたいなどと思ってもいないのに、サンジになら、心をさらけ出せる。
なんの根拠も確かな言葉もないのに、そんな事を何故、はっきりと確信出来るのだろう。

そして、サンジの心の中がどう動いているのか、何故こんなにも見透かせて、またその逆に、自分がどう嘘をつこうともサンジには見抜かれてしまうのか、まるでお互いの心をガラス越しに見ている様なのに、どうして、不安を感じる事無く、そんな事が嬉しいのだろう。

「私達、…姉弟なんだもの…」
ぼんやりした自分の声を聞きながら、サーシャはまたその答えをまた(…違うわ…)と、否定する。

ずっと一緒に育って来たならいざ知らず、つい最近まで生きている事すら知らなかったのだから、見ず知らずの他人に等しい。

ただ、分かる事が一つだけある。今は、ロロノア・ゾロを殺す事よりも大事な事がある。

「…あなたで、本当に良かった…」

死んだ夫の復讐の為に生きるのではなく、幸せを望んでくれるサンジの為に生きたい。
サンジを思い遣って、サンジの笑顔を見たいから、今はサンジがそう望んでいるから、
サンジの為に、なんでもする。きっと、なんでも出来る。どんな事でも耐えられる。

まるで、サーシャに対してサンジが思っている事をそのまま、転写したかの様な想いが、
サーシャの心の中に込み上げてくる。

だから、何かを警戒する事無く、心を全部、さらけ出せる。

(…あの子の為に…)自分の為ではなく、サンジの為に。
サーシャは、まるで本能の様にごく自然にそう思えた。

長い年月、万年雪の様に決して溶けはしないと思っていた凍えて荒んだサーシャの心が、サンジの優しさに触れて溶け出した。
その凍土の下に、自分よりも常に、人を思い遣る美しい心が眠っていた。

それは、サンジとサーシャの血に脈々と受け継がれて来た、美しき資質だった。

「…俺もだよ。サーシャ、…あなたで良かった」
「あなたとここで出会えて…本当に良かった」

あなたの姉で良かった。サーシャはそう思っている。
あなたの弟で良かった。サンジもそう思っている。
二人共、心の底からそう思い、運命の巡り合わせに感謝し、感動すらしていた。

もしも、自分達が全くの他人だったなら、心の底から憎しみ合っていたかも知れない。

サーシャがサンジを殺していたかも知れないし、仲間を守る為に、サンジがサーシャを傷つけていたかもしれない。

そんな惨い事にならずに、本当に良かったと二人ともが思っている。

こうして、今、肉欲を一切伴わない、ただ純粋な労わりと優しさだけの愛で、想い合っている事が幸福だった。

「…明日、あなたの船に連れて行って」
「…もう、誰も憎んだりしないで、幸せになるわ…あなたの為に」

そう言ったサーシャの手を、優しく摩っていたサンジの手が止まる。

「…ありがとう、サーシャ」

そのサンジの声を聞き、サーシャは自分が微笑んでいる事を自覚しながら、
ゆっくりと心地良いまどろみの中に落ちて行った。


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