(・・・聞かなきゃ、良かった・・・)
長い、長い話しだった。
最後まで聞いて、サンジは心からそう思った。
(・・・なんて、巡り合わせだ)
大きく波打つ気持ちを隠すには、彼女の前でただ、沈黙を決めこむしか出来ない。
彼女に掛ける言葉を何も思いつけない。まるで心が麻痺してしまったかの様だ。

第一章 「幸せな日々」


物心ついた時から、客船に乗っていた。
客が荒らした部屋を片付け、常に清潔に保ち、客の要望に応える。

「カワイイ顔をしてるねえ。ちょっと服を脱いで見せてごらん」と言われて、
ただ、「客の言うことはなんでも はい、と答えて従わねばならない」と言う
教育しかなされていなかった彼女は、素直に客の前で生まれたままの姿になった。

もしも、彼女が美しく生まれてついていなかったら、例え、客船の中で
身寄りのない少女として成長しても、そんな辛い目には合わずに済んでいたかも
知れない。

向日葵色の髪と、滑らかで、清らかで、それでいてどこか艶めかしい独特の肌の色、
宝石の様に清んだ瞳を持っていた故に、彼女は幼い頃から男の慰み者となって育った。

そんな辛い境遇でも、「サーシャ」いつの頃からか、そう呼ばれる様になった
その美しい少女の目は濁らなかった。
「私は、どこかのくにのプリンセスなの。悪い奴に浚われて、客船にいるけど、」
「いつかは、・・・素敵な王子様が私を助けに来てくれるの」

古びたペンダントだけが、サーシャのたった一つの持ちものだ。
男に体を弄られ、固い肉棒をまだ育ちきっていない体に捻じ込まれた夜、
その痛みに身を丸めてじっと耐えながら、サーシャは掌の中でペンダントを開いて、
それを眺めて自分を慰めた。

これは夢、私は悪い夢を見続けているお姫様なの。
素敵な王子様のキスを受ければ、こんな悪い夢は覚めてしまうの。
そう思うと、今、目の前にある現実がなにもかも夢の様に思えて、
自分は劇の中の役を演じているような気になってくる。

(このペンダントさえあれば、いつかは幸せになれるの)
そう信じて、サーシャは日々を生きて来た。
(私はどこかの国のプリンセスなんだから・・・)
夢が覚めた時、プリンセスらしくある為に、いつだって人に優しく出来る心を
失っちゃいけない。誰かを恨みそうになれば、またそっと物陰でペンダントを開く。

この子が愛しい、と言う言葉が聞こえそうなくらいに、写真の中の幼い少女は
小さな赤ん坊を抱いて、微笑んでいる。
それを見る度、その微笑みを無理に自分の頬にも浮かべてみる。
いつだって、どんな時だって、こんな風に笑えなければ、幸せになんかなれない。
そう自分に言い聞かせて、サーシャは笑い方を忘れそうになる度に、
そのペンダントを開いた。

やがて、何年か経つうちに、どんな境遇になっているのか、
サーシャは自分でも分からなくなった。

「次ぎの港であんたは船を降りるんだよ」といきなり、客室係の女を
娼婦に仕立て上げていた客室長に言われたのは、やっと、華奢なサーシャの体が
女性としての丸みを帯び始めていた頃だった。
「・・・どうして?」辛い事ばかりだったけれど、似たような境遇の者も
多い船の中は、サーシャにとっては家族の住んでいる家と変わりない。
そこからいきなり放り出されるのは、やはり不安だ。

「あんたの客があんたを買い取ったのさ」と初老の客室長の女は憮然と
サーシャにそう言った。サーシャが客から稼いでくる、客室係としてではない、
特別な奉仕をして得た金の殆どはこの女が掠めとっていた。
サーシャが船を降りたら、その副収入が無くなる。それで、女は
長年、ずっと飼っていたサーシャが自分の元から去っていくと言うのに、
寂しいなどと感じる事もなく、金づるがいなくなることが惜しいだけで
不機嫌な顔をしているのだ。
「買い取ったって・・・だって、あのお客様は・・・」
サーシャは男の脂ぎった顔を思い出して絶句する。
サーシャを買い取った客は、娼館を営んでいる実業家で金はある。
だが、もちろん、妻や愛人にする為ではなく、商品としてサーシャを買いとったのだと言う。
「あんたが可愛いと思うから言うけど、あの男から逃げたら殺されるよ」
客室長の女はサーシャに捨て台詞の様にそう言った。

それが最初で、娼婦として、何度も売買され、色んな場所で男に抱かれた。
(顔とか、年齢は違けど、男は、皆同じだわ。同じ事しかしないのね)と
心は男を人間として見れ無くなってきたけれど、その分、男を騙す事も
覚えていく。
けれど、サーシャは、甘えた声で強請れば、高価なモノでも買い与えてくれる、と覚えても、そんなモノで自分を飾る気にはなれなかった。
男達の欲望と引き換えに得た宝石で自分を飾れば飾るほど、
自分自身の輝きが失われてしまう。
何より、男達が贈ってくるきらびやかで派手な宝飾品はサーシャは好きになれなかった。
(全然、似合わないわ、こんなの)といつも思う。

プリンセスに相応しい、上品で上質なモノを娼婦に贈る男はいない。
(こんな下品な安物を身につけるくらいなら、何もつけない方がマシね)と
男達から贈られたモノを身につけた姿を鏡に写しては、不思議な笑いが込み上げてくる。

自分の不幸な現実からどんなに目を逸らそうとしても、男達はこんなモノしか
自分に贈って来ないのは、男達の目にはこんな宝飾品しか似合わない女だと
言う事だ。
自分は、本当はプリンセスなのだと思っていても、誰もそうは思っていない。
それなのに、まだ、自分はプリンセスなのだと信じたい、信じる事で
誰にも踏みつけられまいと心を守ろうとしている、自分の行動がサーシャは
滑稽に思えてくる。
だから、サーシャはどんな宝飾品も身につけたいとは思わなかった。
貰ったモノは、そっと孤児達を育てている尼僧院の扉の前に置いたり、
まだ、幼いうちに浚われてきた少女を慰める為に使ったりする。
客に買わせたモノで、手元に残したのは、1冊の本だけだ。

「この本を読んで」とサーシャは馴染みの男達に何度も同じ本を読ませる。
そして、それを耳で覚えて、自分で字を覚えた。
難しい本が読みたかったからではない。たくさんのお伽話が読みたかった。

いつか、きっと。
いつか、きっと、誰かが私を助けてくれる。
その日を信じよう、信じていよう。
どんなに体を汚されても、この写真の中の自分の微笑みを忘れないでいれば、
いつか、きっと、誰かが私を救ってくれる。

サーシャは毎日、そう祈り続け、信じ続けた。
客の子供を身篭り、そして、何人かの赤ん坊は、腹の中から勝手に雇い主に
引きずり出され、サーシャの体は20歳を過ぎた頃には、もうボロボロになった。

それなのに、不思議とサーシャの美しさは損なわれる事はなかった。

なんとなく歳を数える様になり、サーシャは20歳を少し越え、
女性として最も美しくなる時期に転機は訪れた。

サーシャはまた、客船に客室係として乗る事になった。
客船、と言う事になっているが、この船は東の海のとある島から、別の島へと
単純に航行する船で、本当の姿は毎日日替りで、違う遊行に更ける事が出来る、
「海の歓楽街」とも言うべき船だった。

大きな船の中には、色んな性癖の人間に対応出来る様に、様々な人間が乗っている。
サーシャの様な若い女は勿論、少年もいれば、少女もいるし、青年もいた。

海に出れば、逃げ場はない。一度、命じられたら、どんな客の嗜好にも
答えなければならない。

(・・・もううんざり)
サーシャの白い体を嘗め回し、さんざん汚して、その挙句に一人で高鼾をかいて
眠ったヒキガエルの様な客を残し、サーシャは鬱々とした気持ちを抱えて、
一人、船底の自分の部屋に帰ろうと狭く、薄暗い階段を用心深く降りていた時。

階段の下に何かが潜んでいるような気配がした。衣擦れのような音がした様な気もする。
(・・・何?ネズミでもいるのかしら・・・?)
サーシャは手に持っていたカンテラで暗闇にそっと光を投げた。

「・・・あ・・・っ!」
暗闇には、真っ黒なマントで体を覆った、若い男がうずくまっていて、
サーシャとはっきり目があった。
「だ、誰っ?」と声をあげようとした途端、目にも止まらない早さで
その男はサーシャの口を手で塞ぎ、空いている方の手で、指を自分の
唇に押し当てて、「・・シッ・・・」とサーシャを黙らせた。

声を出せない様に、と男はサーシャを抱すくめる。
男に抱かれ慣れている筈なのに、その力強さにサ―シャは心臓が高鳴る。
それは恋に落ちる動揺だったのか、得体の知れない者への恐怖なのか、
その時のサーシャには判らない。
「驚かせてすまない」
「乗る船を間違えた見たいで・・・実は密航させてもらってる者だ」

男はサーシャの耳元でそう囁いた。
相手も緊張しているのか、耳に吹きつけられる息がとても熱い。

「私を見た事は誰にも言わずに・・・見逃してくれ」
そう言われて、サーシャはコクン、コクン、と数回頷いた。
そうすると、やっと男はサーシャの口を押さえつけていた手を離す。

「・・・見逃すって言っても、次の島まで一月もかかるわ」
「食事とかはどうなさる気?」

サーシャは思わず、小声でそう尋ねる。

カンテラの薄い光の中で見た若い男は、目が涼やかで、精悍な顔立ちをしている。
(海兵さんかしら?それとも、海賊?それとも・・・賞金稼ぎ?)
体つきもがっしりしていて、たくさん男を見てきたサーシャには、
男が相当な運動能力の持ち主だろうと、一目で見て取れた。

「そんなに掛るんですか!?」サーシャの言葉に男は本気で驚いている。
「だって、高速船じゃないもの、この船」とサーシャが答えると、
「そうでなくても、一月も掛るなんて・・・せいぜい、一週間くらいだと」と
呆然としている。
「この船がなんの船か知らないの?」と今度はサーシャが呆れた。
それが、サーシャと、その夫となる男の出会いだった。


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