「面白い本って、何回も何回も、読み返すけど、」
「最初から最後まで何度も読むんじゃなくって、好きな場面だけを何度も
読んだりするでしょ?私の人生をもし、小説にしたら、」
「その夜から彼と幸せに暮す日までの時間が一番、素敵な場面だと思うわ」

サーシャは奇蹟的に巡り合えた、生き別れの弟にそう言った。
弟の身の上を聞いたら、自分とさして変わりなく、幼い頃から苦労して来たようだ。
それでも、逞しく、美しい青年に育っている。

弟は黙って、サーシャの話しに耳を傾けている。
きっと、そうするしか出来ないのだろう。
5つも年上のサーシャが過去の記憶を辿れない程幼い内に生き別れたのなら、
赤ん坊だった彼には、自分に姉がいた事さえ知らなかった筈だ。
まして、その姉がこんな場所で娼婦に身をやつしていたなど、出会うまで
考えもしなっただろう。
(動揺するのが当たり前よね)普通の心を持っているのなら。
サーシャはそう思った。

「彼は何者だったんだい?」と弟は尋ねる。
「彼はね・・」

サーシャが客船の船底で出会った世間知らずな男は、東の海に浮かぶ島にある
王国の出で、その国の兵士だ、とサーシャに言った。

(見つかったら海に放り込まれるでしょうし・・・)
黙って海に放り込まれるような男では無さそうだが、船の性質が性質だけに、
屈強な用心棒が何人も船に乗っているし、海賊の襲撃に備えて、
様々な武器も備えてある。男がどれだけ腕が立とうが、絶対に無事では済まない。
まして、海の上で逃げ場がないのだ。
(彼を船長に突き出すよりも、・・・なんとか、匿ったほうがいい)
もしも、密航者を匿っている事が露見したとしたら、
後で、相当な折檻は受けるだろうが、それでも、商品価値のあるサーシャを
(誰も殺せとは言わない筈よ)とサーシャは考えた。

(もしも、しくじって彼を匿っている事がバレたとしても、
(彼だけは救える様にどんな手でも使おう)
自分よりもはるかに強い男を何故、守りたいと思ったのかは判らない。
ただ、性欲任せではなく、男に力一杯抱き締められた感触に心が揺さぶられ、
暗がりで見た男の清んだ瞳に見詰められて、サーシャは生まれて来て、
今まで感じた事のない体の火照りを感じた。

下半身にではなく、心臓に熱が篭る。そんな熱を感じたのは本当に初めてで、
サーシャは戸惑いながら、男から目を逸らした。
激しく心臓が鼓動を打つ。体などどこも触れられていないのに、どうしてこんなに
息苦しいのか、判らない。けれど、その胸の高鳴りはいつまでも記憶に残った。

他の客に抱かれている時も、彼が腹を空かせていないか、誰かに見つかっていないか、
気掛かりでならなかった。彼の顔、彼の声を思い出す度、全然似ても似つかぬ男に
体を弄られている最中なのに、甘い胸の高鳴りの記憶がいつでも蘇って来る。

夜と朝の重なる、誰もが寝静まった時間を見計らって、
救命ボートの中に潜んだ男に水と僅かな食料を運ぶ。
何日か経つと、その時間帯には本当に誰もその場所に来る事がなく、
男はボートを覆った布から這い出て来る事も出来ると分かった。

「こんな事がバレたら・・・酷い目に遭うんじゃないですか?」と男は心底、
心配そうにサーシャに尋ねた。
「大丈夫よ。誰も私にそんな事出来ないわ」とサーシャは気楽に笑って見せる。

名前も知らない男、けれど、性欲抜きで、一人の人間として、自分に感謝し、
心配し、気遣ってくれる。そんな事がサーシャは嬉しかった。

「1日中、この中にいて、やる事もなくて・・・だからずっと考えてた」と
男は言う。その先の言葉をサーシャは知っていた。
けれども、目を伏せて尋ねてみる。
「何を?」
男は、サーシャが知っている言葉を真剣な口調で答えた。
「君の事」

こんな境遇でなかったら、恋に落ちる事に躊躇わなかった。
男が、清らかな目をしていなかったなら、迷わずに体だけを与えてやれた。
けれど、男の目はサーシャが知っている男達とは余りに違う。
穢れたモノなど知らない。己を研鑚する事だけを追い求めて来た、
汚らしい性欲や、人が持つ、色んな醜い感情にはなんの興味も持たずに、
ただ、ひたすら、自分の行くべき道を見据えて来ただけの、美しい瞳が
サーシャの体を縛る。身動きどころか、息さえ出来なかった。
誰がいつ、来るかも知れない真夜中の甲板で、二人は立ち竦んで見詰めあった。
サーシャの気持ちを男は知りたがっている。同じ気持ちでいる、と言う幸せを
期待して、じっとサーシャを見詰めている。
一歩踏み出して、手を伸ばせば、感じた事のない優しい温もりと、誠実な力強さに
抱かれると知っていても、サーシャは踏み出せない。

「私もよ」そう言ってサーシャは無理に笑おうとした。
無理に作ろうとしたのは、客に媚びを売る時の笑顔だ。
卑しい男達に見せる、それに相応しい作り笑顔で、男の錯覚を覚ましてやらねば。
そう思った。

恋に落ちて、その先に何があると言うのか。
何もない暗闇へと誰が嬉嬉として歩み出すだろう。
幸せを期待出来る事など、何一つありはしない。
ただの錯覚、思い込みだと、サラリと流した方がお互いの為。

その感情を篭めて、笑ったつもりなのに、サーシャは上手く笑えない。
何故か、目の奥が痛くて熱くなって来た。そして、熱は水滴に変わって、
サーシャの目の前にいる男の姿を霞ませる。

「まだ、君の名前を聞いてなかった」と男はその場に突っ立ったままで
そう言った。
サーシャは髪を直す振りをして、意味不明な涙を指で拭い、
「そうだったかしら?」と空惚けた。
「名前は?」男はもう一度、同じ質問をする。「私の?」とサーシャはからかう様に
言って、顔を男から背けた。
「そうね、じゃあ、王女様って呼んでもらおうかな」
「真面目に聞いてるんだ、私は・・・」男は軽い口調のサーシャに不服そうだ。
「どうせ、この船を降りたらそれでサヨナラなんだもの、名前なんか真面目に
教えてもすぐに忘れるでしょ。だから、教えない」
「私もあなたの名前を聞かないわ、埃まみれの王子様」

生まれてきて、たくさんの人と出会ったとしても、恋に落ちる相手は
その中の数人だ。
何故、その数人と恋に落ちたのか、容姿だったとか、経済力があったとか、
色んな条件があったとしても、結局、本当に幸せな恋だったと死ぬまで言える相手なら、最初から、恋に落ち、愛し合う運命だったと言ってしまうのが一番、
説得力があるのかも知れない。

(私はこの人が好き・・・)理由も理屈もなく、ただ、それだけの言葉、それだけの
感情がサーシャの心の中を満たす。
二人ともが同じ想いを抱いて、ここにいる。サーシャはそう感じた。
だからこそ、出来るだけ早くこの場から走り去りたい。これ以上、苦しくなる前に。
そう思って背を向けた時、男の声がサーシャを呼び止めた。

「王女様・・・」
男の目には力強い光が宿る目でじっとサーシャを見据えている。
その視線の熱が背中に沁み込んでくるような気さえして、思わず、サーシャは足を止めた。けれど、まだ振りかえる勇気はない。
「この船を降りる時、本当の名前を言わせて見せます」

そう言われても、サーシャは怖かった。
泡沫の様に消えてしまうと判っている恋心に溺れて、傷付く事が、
今まで傷だらけで生きて来たのに、ただ、それだけの事に怯えて、胸が詰まる。
「おやすみなさい」とだけ言い残して、サーシャは走った。

本当は幸せになりたい。

待ち望んだ王子様がやっと、目の前に現れたのだと心が騒ぐ。
けれど、それこそが有り得ない夢なのだと大人になってしまったサーシャは知っている。

顔を合わせるのは、ほんの僅かな時間。
離れている時間の方がずっと長いのに、そして、振り切ろうとすればする程、
その分、お互いの想いは募った。
見つかったら折檻されるか、殺される。
その緊張感もお互いの気持ちを昂ぶらせたのかも知れない。

「昼には、港に着くわ」
「それで、お別れね、王子様」
サーシャは最後の夜に、男に食事を運んでそう言った。

やっと、人の目を盗みながら食事を掠め取ったり、客の相手をする合間を見ては、
男の安否を気遣って何度も救命ボートのある場所を見に来る、煩わしさから
解放されるのに、口を利くのも辛いくらいに胸の内には重たい空気が一杯詰まっている。
それでも、サーシャは明るく振る舞って見せた。

君が好きだ、と言う言葉を男は一度も言わないで今日まで来た。
手を繋ぐ事も、唇を重ねる事もない。

幸せを諦め、傷つく事に怯えて、男の恋心から逃げようとしていたサーシャの行動。

そんなサーシャの気持ちを慮って、無理強いする事もせず、
サーシャへの想いを外に漏らさなかった男の行動。

その二つの行動は出口をふさがれたままで、行き場のない想いは、
噴火直前のマグマの様に爆発的なエネルギーにまで成長した。

「ここは私の故郷なんだ。王女様」
「だから、島影を見れば、どのあたりか判る」

サーシャは男の言葉を噛み締める。
救命ボートを固定しているロープを男は腰に携えた刀で断ち切るだろう。
そして、海に落ちたボートに飛び降りて、去って行く。
その光景を思い浮かべると、もう、随分、流した事がなかった涙が込み上げて来た。

もう、二度と会う事はない。でも、束の間でも人を好きになる幸せを感じられた事は
忘れない。
男がサーシャの想像どうりにボートのロープを慣れた刀さばきで断ち切る。
バシャン、とボートが海に着水した音が聞えた。

「さようなら、王子様」そう言い掛けたサーシャを男の力強い腕がふわりと持ち上げる。

「王女様、名前は?」そう聞かれた途端、二人の体が宙に浮く。
(・・あっ!・・・)
咄嗟にサーシャは目を閉じ、男の体にしがみ付いた。
そのサーシャの体を男の手が包み込む様に、壊れやすい宝物を抱く様に
優しく抱き締める。

ガクン、と衝撃を感じて目を明け、思わず男にしがみついたまま、
サーシャは船を見上げた。

(・・・悪い夢が終ったみたい・・・)
長い長い、囚われの悪夢からやっと目覚めた。昇る朝陽が闇をほの明るく照らし、
本当に夢から覚めた朝の風景がサーシャの目の前に広がる。

「王女様、名前は?」男の顔をはじめて、サーシャは光の中で見る。
日に焼けた浅黒い肌、優しい目、今、自分が生まれて来たのは、この男に
こうして出会う為だったと本気で思えた。
頬を包み込む手は大きくて、温かい。息が掛る程顔を近づけてサーシャは答える。
朝陽はこんなにも赤く、その朝陽を映した海はこんなにも美しく煌く事を
サーシャは今日まで知らなかった。
自分が生きている世界の美しさにサーシャの胸が熱くなる。
「私は・・・サーシャよ」
そして、二人は初めて唇を重ねた。

「ホントに小説みたいな話しだね」

サーシャの話しを聞いて、弟はそう言った。
きっと、記憶には残っていないが、自分の父親と似た声なのか、
弟の声は初めて聞くのに、何故か懐かしいとサーシャは思った。

「最後まで聞いてくれる?ハッピーエンドな話しじゃないけど」そう言うと、
弟は黙って頷く。

今のこの境遇を見れば、幸せかそうでないかは一目瞭然だ。
幸せな人生からこんな不幸のどん底へ転がり落ちた経緯を自分から聞きたい、話せ、と
せっつくのは、相当無神経な人間しかいない。

「結婚は大反対されたわ」
「彼、その島の兵隊さんの中では血統のいい家の息子で、」
「その息子達が皆戦争で死んじゃって、唯一残ったのが、彼」
「正妻さんの子供じゃなく、妾の子だったんだけど、一応、跡取って事になって」
「武者修業に出されて、島に私を連れて帰ったの」
「そしたら、娼婦あがりの嫁を連れて帰って来たって大騒ぎよ」

剣を以って、国を守る。それを誉れとしていた家に生まれた男に、
どこの馬とも知れぬ娼婦を嫁に迎えるなど狂気の沙汰。

誰もその島では二人を祝福しなかった。
「娼婦だって事、隠そうとしたんだけど、その彼の親戚が私の顔を知ってて」
「すぐに正体がバレちゃった」

後継ぎも産めない女。ふしだらな女。
どこへ行っても、そんな目で見られた。
それでも、男の側にいられるなら、とサーシャは耐えた。

「この島を出よう」
「家なんかクソくらえだ。私の母にも死ぬまで何もしてくれなかった家に
なんの義理もない」

娼婦だったから、と言う理由で、サーシャはその男の叔父に乱暴されそうになり、
遂に男はサーシャを連れて、出奔する事を決心した。

「でも、ここはあなたの故郷なんでしょう?お母さんがこの家の役に立てって
遺言されたから、この島に戻って来たんでしょう?」とサーシャは男が家族と
故郷を捨てる事を止めたが、男はもう腹を決めていて、
その日のうちにサーシャを連れて、島を飛出した。

「それからは、夢見たいに幸せだった」
「もういつ死んでもいいって言うくらいに・・・」

毎日、朝起きて、男が船着場で荷運びする仕事に送り出し、
美味しい料理を作って、男の帰りを待つ。
目に映る物が全て煌いて見える程、幸せ過ぎて、日が経つのが早く感じて仕方なかった。

二人がそうして暮して、一年程経った時。
サーシャの身体に異変が起こった。
「ずっと微熱が下がらないし、食欲もないし・・・悪い病気かもしれない」
「医者に診てもらおう」
たった、一週間寝こんだだけで、男は本気でサーシャを心配した。
「大袈裟ねえ、ただの風邪よ」と言っても、
「風邪なら私にも伝染る筈だろう。手遅れにならないうちに」と
サーシャの言葉を聞き入れず、医者を家にまで連れて来た。

「奥さん、あんた、月の障りが止まってからどのくらいになる?」
「・・・そんなの・・・もう随分ないですけど?」
「そうかい。かなり、不規則だったんだねえ。だから気付かなかったんだ」

そこまで聞いて、ずっと心配そうに付き添っていた男の顔に急に光が差した。
「・・・それって、それって、先生!」と座っていた椅子がガタン、と床に倒れるくらい、勢い良く立ち上がって医者に駆け寄った。
「もう5ヶ月に入ってるよ。」
「奥さんもダンナさんも暢気だねえ」と医者は呆れつつ、微笑む。

(・・・嘘っ・・・)

何度も堕胎していたし、その所為で、生理など禄に来ない体になっていた。
そんなサーシャの体の事は、夫となった男が知らないでいられた筈もなく、
二人は子供を授かるなど、端から諦めていたから、嬉しさはひとしおだった。

サーシャの人生にとって、最大で最高の幸せが訪れた瞬間だった。
それ以上の幸せは、もう、サーシャには訪れなかった。

幸せな日々は、余りにも突然、終る。
「子供が生まれるって言う予定の2ヶ月前だったわ」

「荷運びの親方にどうしてもって頼まれてね」
「海賊の用心棒をやる事になったんだ」
「2週間だけ、家を空けるけど、それが済んだら、子供が1歳になるまで」
「ずっと仕事をしなくても生活出来るくらいの金が入るから」

産まれた子供が、1歳になるまで片時も離れたくない。
そんな夫の気持ちが全ての運命を暗転させた。

「海賊船の用心棒?大丈夫なの?海軍にでも捕まったら・・・」
「海軍にはなんとでも言い訳出来るから大丈夫だよ」
今はただの荷運びをしているが、夫はもともと、剣の使い手で何度も
戦場に出ていて、下っ端の海賊が束になってかかっても到底敵わないほどの
腕をもっているのは知っていても、やはりサーシャは不安を感じた。だが、夫は
「密輸品を運搬するだけって話しだし、心配する事はないよ」と笑い飛ばした。
「もし、海賊狩りにあったとしても、返り討ちにしてやるさ」

(・・・海賊狩り・・・?っ)

サンジはそこまで話しを聞いて、ゾっと背中に寒気が走るのを感じた。

(まさか)
それ以上の話しを聞くのが怖い。だが、止める訳にも行かない。
(・・・どうか、俺の気の回し過ぎであってくれ)と思わず、心の中で呟いた。

「夫の船は襲われたわ。海賊狩りの」
「ロロノア・ゾロに」

サンジの背中を駈け抜けた寒気が今度はサンジの心臓を凍りつかせる。
凍て付いた氷の塊に喉を塞がれた様に声が出せない。

さっきまで、穏やかで優しげな眼差しだったサーシャの顔つきが見る見るうちに
変わった。
美しいが故に、その厳しい顔付きはサーシャの胸に渦巻く、研ぎすまされた憎悪を
際立せる。
優しく、たおやかな女の仮面の下には、悲憤と恨みだけで生き延びて来た女の顔があった。

「・・・・サンジって言ったわよね」
「あなたは、私の弟で」
「私の夫を殺した、ロロノア・ゾロと同じ船に乗ってる海賊」
「こんな場所で、こんな時に会えるなんて夢にも思わなかった・・・」

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