この世の中の風景は、どんな風に彼女の目に映っているのだろう。

サンジは、赤ん坊の亡骸をそっと優しく抱いて、まるで穏やかな眠りを覚まさぬように、
そっと歩くサーシャの姿を見て、ふと、そんな事を思った。

(・・・優しい人だ)と思う。
そして、素直にその姿は美しいと思う。
だから余計に、サーシャがこんなに辛い生き方しか出来ない事が切ない。

不幸の底に沈んでいる時には、自分の周りの風景などに目をやる余裕はない。
うつむく目には、足元の地面と、その上を覆う自分の影しか見えない。

ただ、前を向いて歩く、それすら出来なくなる。
闇雲に一歩、一歩、足を前に出すだけだ。
その先に光があるのか、闇が待ち構えているのか、何も分からない。
そんな時、人は空の色も海の色も、花の色も風の匂いも忘れてしまう。

赤ん坊を弔った、その丘の上に立つと、吹き渡る風を全身で感じられた。
どこかでまた、誰かが誰かを殺す為の煙が上がっていて、頬を撫でるように吹く風に
その匂いが混じる。
その風が、サーシャの長く、細い髪をなびかせる。
太陽の温もりを孕んで、頬を撫でていく。
そして、赤ん坊を根元に抱いた木の葉をざわめかせる。

木漏れ日の優しさ、緑の薫り。
それを感じられる事がどれほど幸福か、サーシャは知っているのだろうか。

同じ場所に立って同じ風景の中にいても、きっと、サンジとサーシャでは
感じる事は違う。

名前も知らない赤ん坊にサーシャは花を摘んで、手向けていた。
そして、サンジが実をつける種を蒔いた事をなじった。
「明日もここへ来て、あんたが蒔いた種の上に思い切り塩を撒くわ」
「絶対に芽吹かない様にね」、と。

サンジは何も言えなかった。
自分の心が傷ついたから、何も言えなかったのではない。
本当のサーシャが、どれだけ傷つきやすく柔らかで優しいかが、側にいる時間を
重ねれば重ねるほど、そして酷い言葉をぶつけられればぶつけられるほど、
分かって来る。そして、それが悲しくて何もいえなくなる。

心が枯れて、死んでしまっていた方がまだずっと楽に違いない。
傷つけられても、それを痛いと感じないでいられるなら。
けれども、サーシャの心は生きている。

生れ落ちて、何の喜びも悲しみも幸せも感じないままで死んだ赤ん坊の死を悲しみ、
例え、野に咲く小さな花でも、その手で摘み、それを自分の髪を結わえるリボンで
花束にして手向け、冥福を祈り、
そして、サンジの独り善がりの慰めを憎々しげに罵った。

こんな不幸の中に生きていても、サーシャの心は枯れ切っていない、そして、
腐ってもいない。

ゾロを殺す為に、(俺を利用しようとしてる、)とサンジは当然、サーシャの気持ちを
見抜いていた。

そして、それを見抜いているからこそ、その心がどれほど激しく揺れているのかも
分かっていた。

さすがに、自分の手を足で踏みつけられた時は、頭に来て、
引っぱたいてやりたいと思ったが、それでも、サンジはサーシャの心から
一瞬たりとも注意を逸らさなかった。

決心してはぐらつき、憎しみを燃え立たせては、躊躇いと迷いに心が揺れる。
言葉一つ、上手く装いすぎる眼差しを見ているだけでも、サンジには
サーシャの揺れ動く心をはっきりと感じることが出来た。

(これだけ迷っているなら、この人は絶対に俺を殺せない)と、
自分の理屈と、サーシャの心を信じた。

サンジが目を覚ますと、割れた食器の破片で傷ついた手に包帯が巻いてあった。
薬か何かを飲まされたのだろう、体が弱くしびれていて、体を起こすと
それが骨に響くような、鈍い痛みに変わった。
「・・・う・・・」と思わず、小さく呻く。

「・・・相談に乗ってくれるって言ってたわよね」
さっき、二人で向き合って座っていたテーブルにサーシャは片肘をついて
腰掛け、退屈そうにサンジを見てそう言った。

「その為に?すぐに俺を・・・殺さなかった?」
サンジは肩を竦め、そう言って苦笑いを浮かべて見せる。
「そうよ」
「君はどうやって俺を使って、ゾロを殺そうと考えたんだい?」
冷たく、表情を押し隠したサーシャの抑揚のない声を気にも留めない風を装い、
サンジはそう尋ねた。

「・・・そんな事、聞いてどうするのよ」
サンジの質問にサーシャは高圧的な口調でありながら、語尾を濁す。
本心を悟られたくない、悟られてはならない、とサーシャの心が頑なになっていくのが、
サンジには手に取るように分かる。

心ではなく、サーシャの魂がサンジに助けを求めているから、だから
こんなに心を見透かせる様にサンジには思えた。

「参考までに聞いておこうと思って」サンジはあっさりとそう答えながら、
ベッドから完全に起き上がり、さっきサーシャが入れた紅茶の缶が
入っている棚へと歩いた。

「ちょっと・・・勝手に触らないで!」とサーシャは椅子から立ち上がったが、
「今更、慌てる事もないだろ?」とサンジはサーシャの険しい気持ちを宥める様に
出来るだけ穏やかに微笑む。

「ホントに美味しい紅茶をご馳走するよ」

何度、ひっくり返されても、その度に手を踏まれても構わない。
紅茶がいかに美しい色をしているか、芳しい薫りを立てるかをサーシャに教える。

言葉や行動ではなく、口に入れ、体に取り込んでそこから、自分の気持ちを
感じて欲しい。そう思って、サンジはさっき自分が飲まされたのと全く同じ
紅茶を、普段、自分がしている方法でカップに注ぎ、サーシャの前に置いた。

「どうぞ、召し上がれ」

この一杯の紅茶が、痩せてか細い、あなたの体を温められますように。
この薫りが、ほんの一瞬でもあなたの心に優しさを思い出させてくれますように。
あなたのために入れた紅茶を、あなたが美味しいといってくれますように。

その紅茶には、サンジのそんな気持ちが篭っている。
サーシャはその紅茶を前に、表情をこわばらせたまま動かない。

(早く飲んで、)と、サンジは急かさない。
一方通行ではなく、本気で心と心を通わせたいと思うのなら、焦りは禁物だ。

伝わるまで何度でも、何杯でも、ずっと同じ気持ちを篭めて、サーシャが口に含み、
その体の中にサンジの心が染み込むまで諦めずに、
サーシャの前に温かな紅茶を入れたカップを差し出す覚悟でいる。

「紅茶なんて・・・そんなに味が変わる訳ないじゃない」と吐き捨てるように
言って、サーシャはカップを手に取った。

きっと、サーシャもサンジの思いなど見抜いているに違いない。
そこに付け込むか、甘えるか、サーシャは何も決められずにいる。

紅茶を手に取ったのも、サンジの策がいかに愚かで無駄かを思い知らせる為だろう。
きっと、一口含んだら罵声を浴びせる気だ。

けれど、表情を見ればその罵声が本気かそうでないか、サンジはもう判断出来る。

サーシャは一口、紅茶を啜った。
口に含んでゆっくりと飲み下す。
驚いた様に何度か瞬きをし、そして一旦離した唇をまたカップに寄せた。

そして、目を閉じ、一口啜る。コクン、と小さく喉がなった。

「どうだい?」思わず、サンジはサーシャに感想を求めた。
サーシャは体から力を抜いたような声で答える。
「・・・美味しいわ」
「とても・・・あったかい」

そう言った途端、閉じられたサーシャの瞼から水晶の玉の様な雫が頬を伝って
一筋、流れ落ちた。

「もう、私に優しくしないで」
「・・・お願いだから、・・・・」
「優しくされると、・・・優しくされる資格なんかないって思い知らされて辛いだけ
なの」

「俺は、君に紅茶を入れただけだ」

サンジはサーシャの側に近寄らず、目を開き、目を上げなければ見えない場所に立って、
うつむき、涙を流すサーシャを見つめていた。

薄汚れたカーテン越しに、一日が終わりつつある事を告げる、オレンジ色の光が柔かく
差し込んでいた。

内戦中で、毎日たくさんの人が死んでいくこの島でも、夕暮れの太陽は穏やかで
優しい光を誰にでも投げかけてくる。

うつむいていては、何も目に入らない。
だから、顔を上げて、今、目に映るものの色に気付いて欲しい。

抱き締めて、温めると言う方法では、サーシャの心を救う事など出来ない。
この世に生きているのなら、人を愛そうとする気持ちを思い出して欲しいと
思う。
それが無理なら、
せめて、自分が生きているこの世界の、ほんの一瞬、それがどんなちっぽけで
些細な事でも、構わないから、この世界の美しさ、それを見つける事の幸せを
思い出して欲しい。
そう思うからこそ、サンジはサーシャに触れない場所でただ、見守っている。


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