第2章 「正しい選択」
余所者のサンジには、その島の人々が憎しみあい、殺し合う理由を知らない。
その根深さも、その激しさも、理解出来ない。
お互いにとってどれだけ大層な大義名分があるのかなどどうでもいいが、
その禍根の深さが、見境のない破壊活動となっている。
徐々に戦禍が近付いて来る気配を、焦げ臭い突風と明らかに地震ではない断続的な
地響きに感じて、サンジは出来る限り早く走った。
だが。
(・・・くそ、どうなってんだ、この町は)
走れば走る程、自分の位置が分からなくなる。時折、瓦礫と瓦礫の間から
そびえたつ城砦が見えていて、サンジはそれを目印にしていた。
だが、それもどこからから立ち篭めて来た灰色の煙が覆い隠してしまって、本当に方角が分からなくなった。
(・・・落ち着け)
サンジは足元に木っ端微塵に吹き飛んだ石畳の破片を踏みつけて立ち止まった。
深呼吸をするつもりで深く息を吸う。
(焦げ臭エ・・・)と思わず顔を顰めた。
その時、ふと、唐突に胸に嫌な感覚を感じ、サンジは素早く左右を見回す。
誰かが自分を殺そうとしている、殺気に似た、でもそれよりももっと弱い、陰険な感覚。
人ではない何かが自分を殺そうとしている。
そう察した途端、すぐ真横の瓦礫からボウ!と凄まじい勢いでガスが吹き出る音がして、いきなり火柱が
立ち昇った。
(っあっ)と思った瞬間に、その真っ赤な炎はまだ、崩れずに残っていた石造りの
小さな家に向かって走り出す。まるで、なにかに操られている様に、一直線に
その建物に向かっている。
ガスの噴射口がその建物を破壊しようと、その方向へと向けられていて、
近くのブロックが大爆発を起こすドサクサにこのブロックも燃やしてしまおうとでも
目論んだのか、時限装置でもつけていて、その時間に作動するように仕掛けていたのだろう。
誰もいないんだろうな。
そう思って、サンジはやがて炎に包まれるだろうその家の前を駈け抜けながら、
ついなんとなく、窓の中へと目をやってしまった。
「えっ?!」思わず、サンジは目を疑う。
道路に面している部屋に、老婆が車椅子に腰掛けているのが見えてしまった。
石造りだからそう簡単には燃え移らないかも知れないが、そんなところにいて、
誰も手を貸さないままなら、その老婆はまず、助からない。
見てしまった者を見殺しには出来ない。
例え、ガスの匂いがその家の中からも漂っていたとしても。
「おい、バアさん!こんなところにいたら・・・」焼け死ぬぞ、と言い掛けて、
サンジは思わず息を飲んだ。
足元には、初老の女性がうつぶせに倒れている。
自分のこめかみを銃で撃ち抜き、既に事切れていた。
そして、老婆の胸にもその命を絶つ、一発きりの銃弾の痕があった。
「息子と孫を奪った報復を」
「夫と息子を奪った敵に報復を、その為に家を爆破します」
「この炎によって、一人でも多くの敵を殺せますように」
そう走り書きされた紙切れが老婆の力無く垂れた手の下に落ちていた。
生きる事に絶望し、死なばもろとも、とばかりにその憎しみを晴らす為に、
この老婆と女性は家の中にガスを充満させ、引火させ大爆発を起こそうとしている。
おそらく、彼らの事情を察すれば、もうかなり彼らに取っての敵勢力は
この町の大半に侵攻して来ていて、戦況は相当に絶望的らしい。
その戦況をどうにか、覆そうと、兵士だけではなく、こうして家族を亡くした者達も
己の家や命を犠牲にして、なんとか一矢報いようと足掻いている様だ。
だが、そんな自分勝手で、なんの計画性もない自己犠牲の巻き添えを食うのは
(冗談じゃねえ)この島の人間は誰一人、まともじゃない、とサンジはすぐに家を飛出した。
だが。
ガラスを熱と爆風で叩き割った炎は家の中に入りこみ、その途端に
落雷よりも凄まじい大爆発を起こす。
物凄い圧力の熱風の塊がサンジの体を背中から吹き飛ばした。
道を挟んで反対側まで飛ばされ、瓦礫の中に全身余す事無く叩きつけられ、
その衝撃が内臓にも、響き、思わず(・・・っう・・・・っ)と息を詰める。
それから先は鼓膜が破れるかと思う程の爆発が何度も起こった。
その度にバラバラと大小様々な大きさの瓦礫が吹っ飛んでくる。
何度目かの爆発、それは一際大きかった。
破裂音も凄まじい。ガラスと言うガラスが全て割れた様で、
飛んで来るその夥しい瓦礫を避けようと身を縮めたが、唐突に太股に鮮烈な痛みが走った。
「・・・ってっ・・・っ」思わず、その痛みの方を見ると太股に大きなガラスの
破片が突き刺さっている。
右肩にもなにかチリチリする痛みを感じて、目をやると肩口がすっぱりと
シャツの布ごと切れていた。
やけに目に沁みると思った汗にも血が混ざっている。
(こんな奴らばっかりかよ、この町。ヤバすぎる)サンジはどうにか爆発が治まって、
炎だけになった様子を見て、ようやく、どうにかヨロヨロと立ち上がった。
早く、この状況を仲間に知らせないと。
余りにも狂人的な戦略が横行している町に迂闊に近寄ってはいけない、と、
一刻も早く仲間に伝えなければ、とサンジは考えていた。
だが、まだ、サーシャのところへ行かねばならない、と言う気持ちを振り切れない。
誰を守るべきなんだろう、今。
俺は誰を守りたいんだろう
そんな迷いがサンジの足をまた、止める。
一歩、歩くごとに靴まで滴り落ちた血が瓦礫の上にサンジの足跡を片足分だけ
残していたが、数歩歩いては、また立ち止まって考えて、その足は中々先へとは進まない。
痛くて思わず引き抜いてしまったが、どうも、ガラスが食いこんだ傷は
自分が思うよりも深いらしい。迷いながらも歩くうちにだんだんと頭がフラフラしてきて、息が乱れて来た。
少しだけ休もう、とサンジは道端にしゃがみこむ。
(そう言えば、昨夜から一睡もしてねえな)出血の所為もあるのか、
こんな緊迫した町にいて、気持ちも緊迫している筈なのにサンジは座り込んだ途端、
猛烈な眠気に襲われた。
目を閉じる気などない。
こんな危険な町でうっかり寝入ってしまったら、どんな目に遭うかわからない、と
思うのに、勝手に瞼が降りて来て、灰色の町が見えなくなる。
体が揺さ振られたような気がして、サンジはハっと意識を取り戻した。
嫌な汗をかいたのか、体がじっとりと濡れていて気持ちが悪い。
「どこほっつき歩いてたんだよ、昨夜から」
そう言われて、サンジは心臓の辺りにズンと重さを感じた。
「・・・迷子になっちまってた」と曖昧に笑って見せ、何事もない風を咄嗟に装おう。
「らしくもねえ」とゾロは腹立たしげに聞える口調で言うが、それでも、
無傷ではないが、とにかく、無事にサンジを見つけられ、安心した気持ちが
その声に滲んでいる。
船に帰って、すぐにチョッパーが手当てしてくれた。
誰もが、サンジの無事を喜び、傷の具合を心配してくれる。
この船の中は、こんなに温かい。
自分は、こんなに幸せな場所にいる。
いつもは、それが心地良いと思うのに、今日はその優しさも、温かさも
自分には分に過ぎたモノの様に思えてならなかった。
どうしても、今の自分と今のサーシャの境遇を引き比べてしまう。
「頭打ってるし、今日1日は横になっててくれ」とチョッパーに言われて、
正直、少しサンジはホっとした。
皆の前でいつもどおりの態度を装いながら考えて、答えが出るとは思えない。
一人で冷静に、絶対に間違えた答えを出さないように、
自分が出来る事、本当にしたい事を探して見つけなければならない。
今は他の事など何も考えれないくらい、サーシャが語ったたくさんの
言葉が心の中にこびりついて離れない。
いっそ、何もかもが夢で、せめて、嘘で、全て作り話しだったら。
今になってもまだサンジはそんな事を思ってしまう。
サンジは深い溜息をつく。そうやって息を吐き出さなくては、息をするのさえ
忘れそうなくらいに気が滅入っていた。男部屋には誰もいなくて、港に停泊したままの
船はゆるゆると揺れているけれど、とても静かだ。
(こんな事、・・・誰にも言えねえ)
表面だけで気遣う振りをする様な相手ならいっそ、愚痴を吐き出すつもりで
言い散らしてしまえたかも知れない。
けれど、この船には、そんな薄情な人間は誰もいない。
サンジが感じるこのどうしようもないやるせなさを皆にも撒き散らしてしまうだけだ。
お互いが大事な仲間だと思い、お互いの痛みを感じ合える、その絆を
信じているからこそ、何も言えない。
ゾロを怨むな、と言ってサーシャが納得するとはとても思えない。
かと言って、サーシャは本気でゾロを憎み、殺そうとしているのなら、
それをなんとしても止めなければならない。いくら女性とはいえ、本気で自分を
殺そうとして向かっている相手にゾロが黙って見過ごすだろうか。
(・・・俺でさえ、斬った奴だからな)仲間だった自分の利き腕を、
友の為に斬ったゾロなら、命を奪うとまではいかなくても、サーシャを
きっと傷付ける。
ゾロを怨み、殺す事だけが人生じゃない、とサーシャに教えてやれたら。
(だったら、何が彼女の人生なんだ)とサンジは自問自答する。
余りに不幸だった生い立ち。そしてやっと掴んだ幸せ。
そしてそれが奪われた時の怒りと悲憤。
サンジ自身が、ただ、不幸しか知らなかった人間だったら、
あるいは、幸せな日々しか知らない人間だったら、こんなにもサーシャの痛みを
感じずに済んだかもしれない。
幸せはそれがどんなに小さく、ささやかであっても、苦しい事、辛い事を
乗越えて来た者の目には、煌きを放つ、かけがえのない宝物だと
サンジは知っている。
ゾロが側にいる。
なんの苦痛もない日々の中にあっても、それだけの事がふと、輝くような
幸せに感じるのは、今までたくさんの苦難を超えて来たからだ。
それを奪われたなら、(俺だって、あんな風になるかも知れねえ)と
サンジは思う。
もう、二度と間違えたくない。感情だけで突っ走って、仲間もゾロも傷つける様な
愚かな選択を絶対にしない様に、サンジは深く、深く、考える。
「気分、悪くねえか」
そう声を掛けられるまで、男部屋にゾロが入って来たのにサンジは気付かなかった。
ゾロの声を聞くと安心する。そして、感じた事のない痛みを同時に覚える。
幸せに甘んじていてはいけない。
そして、何一つ、ゾロに漏らしてはならない。
心の中で何かにそう咎められているような、そんな重苦しい痛みだ。
「大丈夫だ」そう答えると同時にサンジは起き上がった。
素直に振る舞うのが、一番、ゾロを欺きやすい筈。そう思って、何も考えず、
ただ、言葉だけは一切、封じこめてゾロを真っ直ぐに見つめた。
「どうした?」ゾロはサンジの眼差しを受けとめて、手を伸ばせば触れられる距離に
近付いてそう尋ねてくる。
助けて欲しい、苦しい、そんな眼差しだけは隠さない。
隠そうとするなら、目を逸らすしかない。目を逸らせば、心の中に何かがあるのだと
勘ぐられる。
隠し事をしているのだと疑われる。そうなったら、隠す方も隠される方も
辛くなる。だから、サンジは素直にゾロに助けを求める気持ちを隠さなかった。
ゾロがその眼差しを受け、あてずっぽうに何か言えば、黙って頷けばいい。
その言葉を肯定すれば、それだけでゾロはサンジを疑いはしない。
「なんだか、やけに疲れた面してる」
「まさか迷子になって怖かったとか、戦場を一人で歩いてて心細かったとか言うんじゃネエだろうな?」とゾロはそっとサンジに息が掛りそうな程近寄ってきて、笑った。
その笑顔を見て、心が揺れ、そしてまた痛む。
ゾロを愛しいと想い、愛しいと想われている事がどうしてこんなに苦しいのか、
まるで、そう感じる事さえも罪を犯している様で、気が咎めてしまう所為なのかも
知れない。
「あのまま・・・」
サンジはゾロから目を逸らす為にそっと自分からゾロに体を預ける。
「あのまま、あの場所で一人で死んでたかもな」
「お前が見つけてくれなかったら」
ゾロの胸に凭れ、サンジはそっと目を閉じて素直にゾロを見詰めた眼差しを封じこめた。
ゾロに隠し抜こうと決めて、そしてその為に欺こうと思う心と、
素直に、ありのままに振る舞おうとする態度の矛盾がサンジの心の中で、
複雑に混ざり合う。
凭れたゾロの胸の温もりとそっと労わる様に頭の傷に振れたゾロの掌の感触が
優し過ぎた。そして、サンジは気付く。
(・・・こいつ、もう知ってる)
もう、ゾロはサンジが何かを隠そうとしているのを知っている、と。
沢山言葉を吐けば吐くほど、きっとボロが出る。
サンジは大事な言葉を全て、空気の中にだけ吐き出して、ただ、一つ、
切り札とも言える言葉だけをゾロに囁いた。
俺がこれから先、何をしようと、何を言おうと。
俺はお前だけを想ってる。
それだけは、これから先、何が起ころうと。
「俺を信じてくれ」それだけを言うのが、そしてそれ以外の言葉を言えずに、サンジは唇を閉ざした。
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