他の誰も、心に入れる隙間などない。
誰を一番大事に思っているのかを伝える為に、ゾロの背中を抱き締めた。
ゾロの体の熱さを両腕の中に感じ、力一杯抱き寄せて合わせた胸に、ゾロの心臓の鼓動が響く。
お前を愛しているとゾロは訴えかける。それこそ、形振り構わずに。
声にならないその熱い想いに、サンジは息が苦しくなる。
苦しいのは、ゾロが想うのと同じ強さ、同じ熱さで、自分もゾロを想っているからだ。
そうサンジは痛感し、痛感した途端、その心の痛みに身が強張る様に震えた。
自分が傷つけられる事よりも、ゾロを傷付けている事が、こんなにも辛い。
自分にとって、誰が一番大事で、かけがえのない存在なのか、
それを選ぶのは状況や理屈ではなかった。
偽りのない剥き出しの心が、ゾロを傷付けたくないと叫んでいる。
ゾロが誰よりも大切だと慟哭している。
自分自身の心なのに、宥める事すら出来ず、侭ならない苦しさにサンジは思わず、
唇を噛み締めた。
息が詰まるほど強い力でゾロの腕がサンジの体を締め付ける。
どこへも行かせない。身も心も、この腕の中から逃がさない。
そう言いたげに、ゾロの腕にも力が篭った。
「…俺は、お前がどれだけ俺を疑おうと、お前に対して、…やましい事は何一つねえ…」
それだけ言うと、サンジは体から一切の力を抜き、目を閉じた。
様々な事実を語るよりも、心の中に満ち満ちて、溢れそうになるほどの純粋な想いだけを、
ゾロが感じ取れる様に、体も心もゾロに預けて委ねきる。
骨が軋むほどのきつい緊縛が、温もりと労わりに解ける様に柔かな抱擁に変わって行く。
「…一体、…何を隠してる…?」静かにそう問われて、サンジは目を開ける。
ゆっくりと体を起こして、ゾロの翡翠色の綺麗な瞳を真っ直ぐに見据えた。
「…お前が気にする様な事は、何も」
「何も、隠してねえよ」
騙すのでもなく、誤魔化すのでもなく、本心からサンジは「ゾロが気にする事は何もない」と
改めて自分にも言い聞かせながら、そう言った。
労わる様な笑みが、勝手に顔に浮かぶ。
自分から手を伸ばし、掌で少しだけ頬に触れ、それから髪の感触を確かめながら、
そっとその汗ばんだ頭を引き寄せる。
触れ慣れている唇を、優しく、愛しさをありったけ篭めて塞いで、
ゾロがそうしてくれる以上の優しさで、その逞しい体を自分の胸に抱きとめた。
自分を傷つける芝居までして、その本心を探ろうとしたゾロが無性に愛しい。
愛しくて、堪らなかった。
(これ以上、…こいつを不安にさせたくねえ)と心の底からしみじみ思う。
「…何をそんなに不安がってるのかわからねえな」
「俺は、…どこにも行かねえのに」そうサンジが囁くと、ゾロが呻く様に答える。
「…悔しいが、…どうしようもねえんだ」
「怖いモノなんか何にもねえ。何かを怖いと思った事も一度もねえ」
「でも、…。俺は、…お前が」
いなくなる事が、それを考える事が、堪らなく怖い。
体だけでなく、その心が自分の知らない場所に在るだけでも、
置き去りにされた様で不安になる。ただ、それだけが怖くて不安で仕方ない。
そんな言葉をゾロは飲み込み、黙ってサンジを抱き締める腕の力を強める。
「お前が何を考えてるか、…お前の心がどこに在るのか、それさえ分かってりゃ、
何も不安はねえ」そう言うゾロに「…寄り道だって言っただろ?ほんの寄り道なんだ」
「一人の不幸なレディに、出会っちまった。そして、度を越した同情をしちまった」
「…ただ、それだけの事だ」と、笑って見せる。
(こいつが知るべき事だけを話そう。知らないで済む事は省いて…)
サンジは、サーシャの身の上のおおよそを話してしまおうと決意する。
過去に起きてしまった出来事が、どう自分達の縁に繋がろうとゾロが気にする事はない。
事実を知ろうと、知らずにいようと、ゾロの進もうとする道を遮る事はない。
そう思い極めて割り切れば、随分気持ちが楽になり、胸に遣える事は何もなくなった。
嘘は吐かない。ただ、聞かなくてもいい事を言わないだけだ。
「…あんまりにも哀れで…同情が過ぎた。ただ、それだけだ」
「…さっきも言ったが、彼女は北の海の出の女性だ。年は俺より5つ上」
「小さい頃から、親がいなくて一人ぼっちで客船に乗ってて…」
そこでサンジは一度、言葉を切った。
その沈黙の意味をゾロに悟って貰いたくて、わざと煙草に火を着けて、
もったいぶるように一呼吸、置く。
「…年端もいかねえ娘が一人で客船…って、客の相手をさせられた…とかか」
サンジの意図どおり、サンジの告げた短い言葉の中からサーシャの苦労を悟った。
ゾロの言葉に、サンジは肯定も否定もせず、聞き流すような素振りをして見せる。
サーシャが、ずっと長い間娼婦だったと自分の口からはっきりゾロに告げるのは、
少し抵抗があったからだ。
どんなに体を男達の情欲で穢されていても、サーシャの心は完全に汚れきっていない。
それを言葉で言うのは余りにも難しく、却って、嘘臭くなる。
出会った直後ならともかく、サンジと心を通わせた今の素直で優しいサーシャなら、一目会えば、その心の美しさは、自ずと分かる筈だ。
だから、サーシャの人柄については敢えて触れずに、サンジは淡々と話を続ける。
「俺よりずっと苦労して育って、…それでもなんとか結婚も出来たけど、旦那とは死に別れて、…流れ流れてこの島に来て…、偶然、俺と出会った」
「生い立ちを聞いて、…あんまり境遇が似てるモンで、…それで放っておけないって思ったんだ」
「この島にいるより、…アラバスタに行けば、安全だし、いくらでも働ける」
「人生、もう一回、やり直せるんじゃないか…って。そう勧めたら、彼女もその気になってくれた。だから、俺は彼女をアラバスタのビビちゃんとこへ連れて行きてえと思ってる」
「…何で、それだけの事をあんなに必死に隠そうとしたんだ」
憮然とゾロはサンジに尋ねる。
「別に隠そうとしてねえ、うっかり俺も怪我しちまって疲れてたから、言いそびれただけだ。それと、あの時は、まだ彼女の身の振り方について考えも固まってなかった。その上、お前まで勝手にヤキモチ焼いて、勘違いしやがったし」
「訳をキッチリ整理して話す暇なんか全然なかったじゃねえか」
ゾロの尋問めいた質問を軽く返してから、サンジは立ち上がった。
「…賞金首がズラっと並んでるこの船にいきなり素人の彼女を連れてきたら、
びっくりして死んじまう。病状が安定するまで、彼女の家で養生させてえ」
「…だから、ここにはまだ連れて来れない」
下手な嘘なら見抜かれる。だが、本当の事を当たり障りなく話しているだけだ。
何も勘ぐられる事はない。そうサンジは自分に言い聞かせながら、ゾロの表情を密かに伺った。
「…じゃあ、その女の容態が落ち着いたら…。ここに連れて来るのか」と聞いたゾロの表情には、サンジを疑う険しさは欠片も残っていない。
それに安堵して、「…そうだな。ま、彼女次第だが。そうなるように、…説得はする」と澱みなく言い切れた。
「とにかく、チョッパーが帰って来たら、すぐに来てくれる様に伝えてくれ」
「俺の居場所をメモしとくから」
それだけ言うと、サンジは使い慣れた灰皿に煙草を押し付け、火を消してから、ゾロに背を向けた。
(…こいつに会ったら、せっかく落ち着いた彼女の気持ちがどう変わるか…)
それを考えると、まだまだ不安は残る。が、とにかく、ゾロの見当違いの疑念は晴らせたし、不安を拭う事も出来た筈だ。
サンジは、少しだけ食料を船から持ち出し、急いでサーシャのところへと戻った。
* **
瑞々しい、仄かに果物に似た香りがした様な気がして、サーシャはゆっくりと目を開ける。
とても寒くて、その上、横になっているのに、船に酔った様に頭がふらついた。
(…私、…どうしたのかしら…?)
サーシャはぼんやりと、状況を思い出そうとした。
だが、まだ夢を見ている様で、思い出そうとしても頭が上手く動いてくれない。
下腹部の痛みはかなり遠くなっていた。
「…お目覚めですか、お姫様?」
(…パパ…?)
サーシャは声のする方へ顔を向ける。
覚えていないとばかり思っていたけれど、それは、ただ、記憶の底に沈んでいただけだった。
生き別れの弟は、父親と瓜二つだったと、その声を聞き、姿を目で捉えて、サーシャはしみじみとそう思った。
(…五歳の頃に戻れたら…)
そう思いながら、サーシャは記憶の中の父の姿に少女のままの笑みでか細く笑いかける。
「…少し、水分を摂った方がいい。温かい紅茶を煎れたよ」
「ありがとう」
背中をそっと抱き起こしてくれた男の手の温もりと優しさを素直に受け入れている自分の心を、静かにサーシャは見詰めた。
「…生まれ変わったみたいな気がする…」
温かい紅茶が注がれたカップを両手で包む様に持ち、思わずサーシャは呟く。
幸せになろう。まだ、間に合う。
そう思った途端、ずっと分厚い雲に覆われていたかの様に塞ぎっぱなしだった心の中に、光が射した。
気遣うようにサーシャの目の前で優しく微笑む男に心を開いた時から、サーシャは自分の心が浄化されていくのをはっきりと感じる。
何の打算もなく、人に優しくされるとこんなにも心が和み、優しく慣れると、
サーシャは夫を亡くしてからずっと忘れていた。それをこの男は思い出させてくれた。
「…医者を呼んで来てくれたのね?」
そう言った自分の声に思いのほか、張りがある事にサーシャは安心する。
眠っている間に、かなり容態は良くなった様だ。
「うん」とサーシャの問いにサンジは頷く。
だが、よくよくその瞳を見つめてみると、何か言いたげな目をしていた。
サーシャの意識と体力が回復したのは一時的な事、
本当は一刻も早く、安全な場所で根本的な治療をしなければならない事、
そしてその「安全な場所」は、サーシャが憎み続けたロロノア・ゾロのいる麦わらの一味の船しかない、と言う事…
それらたくさんの真実を、サンジはサーシャに言い澱んでいる。
だが、その時のサーシャにはサンジを問い詰める気力も体力もなく、ただ、
訝しく思いながら、サンジの目を見上げるだけだった。
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