最終章
「やっと、戻って来たな」
そう言って、ルフィはサーシャを伴って帰って来たサンジを温かく迎えてくれた。
港からでも、甲板に立っているルフィの姿はずっと見えていた。
(…こいつ、何時から舳先に立ってたんだ…?)
船に乗り込み、サンジは久し振りにルフィの顔を間近に見る。
黒い髪が僅かにしっとりと湿り気を帯び、額に張り付いていた。
それを見て、サンジは気付く。
(もしかしたら、朝靄が出る時分から…舳先に突っ立って俺が帰ってくるのを待っててくれたのか…?)
そんな気持ちでルフィの顔をまじまじと見詰めると、黙ってルフィは、ニ、と白い歯を見せて笑った。
「ようやく、…戻って来れた…」
重たい荷物を引き摺って歩き、やっと帰るべき場所に辿り着いて、その荷物を背中から下ろせた様な安心感に、思わずサンジは独り言を呟き、甲板から空を振り仰ぐ。
海賊旗の向うに広がる空はどんよりと鈍く曇っていて、それでも少し眩しかった。
湿っぽく吹いている海風には今日も火薬の匂いが微かに混ざっている。
戦火の気配は全く薄れてはいないのに、メリー号に辿り着いた時、(…これで、安心だ)と心が緩んだ。
サーシャの家を一人で訪れたチョッパーと同様に、サンジも仲間の元に無事に帰りつくまで、ずっと緊張し通しだった。
もちろん、戦場と化した街が恐ろしかった訳ではない。
ただ、体が弱っていて、足元もおぼつかないサーシャを庇い、気遣いながら歩くのは、
一人で歩くよりもずっと神経を使わなければならず、自分でも自覚出来る程、気が張っていた。
支える様に抱き寄せて歩いて来たから、サンジがどれ程気を張り詰めていたか、サーシャにも伝わっていたかも知れない。
その緊張が、ルフィの顔を見、見慣れた船内の様子が目に映り、船の中の空気に体を晒しているうちに、ゆっくりと解けて行く。
「…心配かけた。…ルフィ、チョッパーからどこまで話を聞いてる?」
サンジは、サーシャがさり気なく自分の手を解いて、自分の力で立とうとしているのを腕に感じながら、ルフィにそう尋ねた。
「…サンジが病人を連れてくるから、船に乗せてやってくれって」
「チョッパーからは、そう聞いてる」
まっすぐにサンジを見据えてルフィは澱みなくそう答える。
「…構わないか?」
聞くまでもない事だ。そう思いながらも、サンジはそう尋ねた。
「…チョッパーの患者だからな。チョッパーが診るって言ったら俺が何を言ったって
聞かねエし。それに、俺の船医が診るって言った患者なら、俺に取ったら…」
そこまで言うと、ルフィは一度、首を捻った。
適当な言葉が咄嗟に思いつかないらしい。
結局、思いつかなかったのか、「…ま、客?…みたいなモンだ」と曖昧な言葉で言い、朗らかにサーシャに笑いかけた。
「…よろしく、…船長さん」
そう言って、サーシャも遠慮がちに微笑み、高貴な淑女が会釈する様に、膝を折り、ルフィに頭を下げる。
それを聞いた後、ルフィは港中に響く様な大声で、
「おおい!皆、サンジが帰って来たぞ!」と仲間を呼んだ。
ルフィのその言葉を聞いた途端、今解れたばかりなのに、再びサンジの心がドクン、と不気味に慟哭する様に戦慄き、そして、強張った。
心臓の鼓動が、突然、何かに怯える様に早くなる。
動揺する自分の心を鎮める為に、サンジは船べりに縋るように立つサーシャを振り向いた。
もう一度、サーシャの言葉が聞きたい。
「…もう、誰も憎んだりしないで、幸せになるわ…あなたの為に」
その言葉を聞けたら安心出来る。
そんな祈りにも似た気持ちで、サンジはサーシャを見詰めた。
「…あなたが、いてくれるなら…、…私は、大丈夫…」
サンジの不安を察したのか、そう言って、サーシャは微かに微笑んでは、いる。
けれど、救いを求める様な眼差しを浮かべて、サーシャもサンジを見詰めている。
ずっと、憎しみ続けたゾロを目の前にして、サーシャの心はどう動くのだろう。
サーシャの言葉を100パーセント信じてここに連れて来た訳ではない。
どんな事があろうと、ようやく蘇えったサーシャの優しく、美しい心を守り抜く。
サンジは、その覚悟を決めて、サーシャを連れて戻って来た。
だから、何があろうと、最善を尽すつもりだ。
何があろうと、何が起ろうと、怖れる事はない。
そう思っていた筈なのに、その瞬間が近付いている今、呼吸すら意識しなければ止まってしまいそうなほど、サンジは緊張した。
だが、今はそれを仲間に気取られてはならない。
サーシャと時分との繋がり、その不幸な人生のきっかけなど、自分が知っている真実を、真実として仲間に全て明かすべきなのか、それとも隠し通せるものなら、隠すべきなのか。
それをサンジは未だに決めかねている。
余計な詮索や憶測をされない為に、隠さなければならない事は、隠し通さなければ。
ナミ、ウソップ、ロビンが、それぞれ自分の名前をサーシャに告げる。
気もそぞろになってしまい、誰がどんな言葉をサーシャにかけているのか、そして、
サーシャがどう答えているのか、そんな事をサンジは気を留めていられない。
ただ、心臓のドクッ…ドクッ…と言う低い音だけが聞えて、サンジの視線は、ロビンの後ろに突っ立っているゾロにだけ注がれていた。
ゾロが、黙ってサンジの後ろに立つサーシャを見ている。
名乗らなくても、サーシャは、この緑の髪をした男が、ロロノア・ゾロだと言う事を知っている。
サーシャがどんな表情を浮かべて、ゾロの姿を見つめているのか、それすら確認するのがサンジは恐ろしかった。
「…お世話になります」
抑揚のないサーシャの声だけが聞こえ、ゾロはそれに黙って、不信感を一切隠さない目つきながら、僅かに頷いた。
「…皆に言っといたけど、サーシャさんは病気なんだ。詳しく体を診たいから、とりあえず、こっちへ」
チョッパーのその声に、サンジはハっと我に返る。
「詳しい自己紹介は、その後でいいね、ルフィ?」と言いながら、チョッパーは、
サーシャの手を引いて歩き始める。
サーシャの為に設えた病室は、どうやらナミとロビンが使っている女部屋らしい。
* **
「…サンジ君。あれ、…誰?」
ラウンジに入った途端、ナミが口火を切った。
(…これだけ似てるんだ。ここは隠したって…バレちまうのが普通だな)
サンジは、シンクに凭れて、落ち着いて話す為に新しい煙草を咥え直し、ゆっくりと火を着ける。
「…サンジ君の身内だってチョッパーから聞いたけど…。確かなの?」
露骨に不信感を持った聞き方ではなく、ナミの質問は、自分の確信を再確認したい為に尋ねたような口調だった。
「…小さなペンダントの中の写真しか証拠はないけどね。…それだって、ホントに俺と彼女の写真かどうか…?」と答えつつも、サンジは仲間にその答えの正誤を委ねた。
「身内なら身内って、なんで最初から言わねえんだ」
露骨に不満げな顔をして、ゾロがそう詰め寄る。
その言葉を、サンジは一番、恐れていた。
(…なんで、お前がそれを聞くんだよ…)と、思わずゾロを恨めしく睨んだが、仕方がない。
サンジが見知らぬ女性に心を奪われたと勘違いし、強姦を装ってまで、その本心を暴こうとする程、ゾロも苦しんだのだ。
その嫉妬の相手が、まさか、血を分けた身内だなどと知ったのだから、自分のその行動がまるで間抜けで滑稽で、無意味だと気恥ずかしくなるのも、無理はない。
(…今、言っちまって良い事か…)サンジは迷った。
今は、出来るなら、その質問を聞き流してしまいたい。
他にもっと色んな質問を浴びせてくれたら、今だけは、言わなくて済む。
「言えない理由があるから…。そうだろうが」
ズバリとゾロに言い当てられ、サンジは押し黙る。
ゾロは、サンジをじっと見据えている。
どんな事を聞いても、決して揺るがない、傷一つつかない、鋼鉄の様に信念が、
翡翠色のその瞳の中で光っていた。
その強い眼差しを受けて、サンジはたじろぎ、明らかに気圧されてしまう。
(…誰も傷つけずに、…真実を隠し通す事なんか、出来ねえのかも知れない…)
そんな弱音をサンジは心の中に吐く。
これから先、ゾロといつまで共に同じ道を歩いていけるか、分からない。
苦しみと戸惑いの日々の中、築いて来たゾロとの絆は、命の終わりか、夢へと続いていくその道が別れる時か、いつ断ち切られるか分からない。
だからこそ、サンジはその頼りなくも強固な大切な絆を守りたかった。
取り返しのつかない過去の負い目が、小さな亀裂や、僅かな曇りになり、ゾロのとの絆をか細くしていくかも知れない。
ゾロの強い意志の力に勇気付けられ、そんな事に臆病になっていた自分にサンジは気付く。
(これを乗り越えれば、…また一つ、俺は、…強くなれるかも知れない)
「…ああ、そうだ」
もしも、ゾロが自分のはなした真実で、傷つき、動揺する事があっても、
(その傷の痛みも、苦しみも、一緒に背負って、乗り越えてやろうじゃねえか)
(いや…。絶対に、乗り越えて見せる)
サンジは腹を括った。
真っ直ぐにゾロを見据えて、そして、真実を告げる。
「彼女が、俺の寄り道で…、彼女が、俺の身内で、…」
「それ以外の事を話せなかったのは、…お前の言うとおり、理由があったからだ」
「…彼女の夫と…その時、生まれるべきだった彼女の子供を奪ったのが、ゾロ、」
「お前じゃなきゃ、…最初から何も隠すさずに、何もかも、…全部、話せたんだよ」
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