「海賊の用心棒として、雇われたんだもの」
「彼らを守る為に、私の夫は戦ったわ」

サーシャに夫の最期を伝えたのは、その船に乗っていた海賊の生き残りだった。
海賊になって日が浅く、まだ少年とも言える年頃だった彼は、すぐにその
「海賊狩りのロロノア・ゾロ」の恐ろしさに怯えて、空の樽の中に逃げ込み、
じっと息を顰めて、事の一部始終を見ていたのだと言う。

サーシャの夫が剣士などではなかったら、ゾロも本気で相対しなかっただろう。
そして、サーシャの夫もやがて産まれる子供の事、身重の愛する妻の事を省みて、
ゾロに刀を向ける事もなかっただろう。
力加減出来ない相手だったからこそ、お互い、剣士の誇りを賭けて、戦った。
一度剣を抜いて相手に向けてしまったなら、どちらかが倒れるまではその刀を
納める事は出来ない。全力を出しきったその結果が、サーシャの夫の死だった。

(・・・剣士って奴ぁ、ホントにどうしようもねえ・・・)
サンジは胸が苦し過ぎて、溜息を漏らす事さえ出来ない。

「聞かなきゃ良かった、って思ってるでしょうね」そう言ってサーシャは
立ち上がった。
さっきまでなんとも思わなかったサーシャの声が、サンジには酷く冷たく聞える。
何を言われるのか、と怯え、顔を上げる事も出来ず、何をどう答えていいのか、
頭が少しも働かない。

どうか、嘘だと、全て、男の気を引く為の娼婦の作り話だと笑って欲しい。
そんな薄い期待がサンジの心にうっすらと浮かぶ。

「仲間殺しは、海賊の掟でも重罪よね。そんな事、できっこないでしょう」
「いくら血を分けた姉弟って言っても、今しがた会ったばかりで他人も同然なんだもの」
そう言って、サーシャはサンジを見下ろし、冷ややかな笑みを口元に浮べている。
俯いていても、サーシャの表情が手に取る様にサンジには判った。

「何もしてくれなくっていいの」
「私が何をしようと、止めないでいてくれたら」

「何をするつもりなんだ・・・」サーシャの言葉にサンジは思わず顔を上げた。
女性の声に、こんなに怯えた事はない。
サーシャの声には、人のモノとは思えない程の恨みや憎悪が篭められている。
さっきまでたよりなく、なよやかで、儚げだった女とはまるで別人だ。

さっきまでサンジが見ていたそれは、生きて行く為に男に身を売るしかない女が被る仮面。
今、サンジが見ているこの夜叉の様な顔が、
長い年月の間に凝縮した怨みと憎しみと、孤独と悲しみ、およそ、
人が耐えきれずに死さえ望む様々な負の感情がむきだしになった顔こそが
本当のサーシャの顔なのだと、サーシャを見上げて、サンジはハっと息を飲む。
吸い込んだ空気までが胸の中を凍て付かせるかと思うくらいに、サーシャは冷ややかな
空気を纏っていた。

なにもしなくていい。
私が何をしようと止めないでいてくれたら。

口ではそう言いながら、もう、サンジを血を分けた、たった一人の肉親だとも
思ってない冷たい感情がその青い瞳には篭っている。

あなたは、ゾロを殺す為の道具として使える。
サーシャの目はそう言っていた。

「・・・あいつを殺すわ。その為に今日まで生きて来たのよ」
「その為だけに、生きて来たのよ」

そう言って、サーシャは地面に転がっていた小石を拾う。
そして、サンジの目にさえ止まらない早さで、道向こうの建物に向かって投げた。

カッ
乾いた音と、小さな羽虫がその石で弾ける音がする。
「小さなナイフとか、釘なら人を殺せるわ」
「その釘に毒を塗れば、掠っただけで殺せるでしょうね。それに私は、銃だって扱える」
「火薬だって、毒薬だって、たくさん集めたわ」
「この体を使ってね」
たった一人の人間を殺す為にサ―シャは毎日を生きて来た。
圧倒的な強さと、時間が経てば経つ程遠ざかる距離に、諦める事なく、
標的を追い駆けて、ただ、ゾロをその小さく、か細い手で殺す事だけを生きる目的にして。

それは、なんてなんの光明も救いもない人生なのか。
(・・・可哀想だ)としかサンジには思えなかった。

望みを叶えても、誰も救われないと言う生ぬるい説得では、サーシャのゾロへの
憎しみがこびりついた心は、その理屈を理解出来ないに違いない。

「そんなモノじゃあいつは殺せないよ」簡単に諦めるとは思えないが、そう言うしか
言葉が見つからない。
「じゃあ、どうやったら殺せるの?教えてちょうだい」サーシャはからかう様な
口調でサンジに尋ねてくる。「君がどうやったって、あいつは殺せない」

サーシャは相槌を打たずに、サンジをじっと見詰める。
きっと、サンジだけではなく、サーシャの心も今、乱れているのだろう、
険しい感情だけが宿っていた瞳が大きく揺らいだ。
一番哀しかった時の感情が、サーシャの心の中に蘇って、その光景が頭の中に
再現されてその場にいるかのように気持ちが乱れてしまっている。

サーシャを見詰め返すサンジにはそう思えた。
何を言われても、全て聞き終えてから、為すべき事を探そう。
そう心に決めて、サーシャを見詰め返した。

「あいつが殺したのは、夫だけじゃないわ」
「せっかく、授かった子供までも私から奪ったのよ」
「夫が死んだと聞いて私がその場で陣痛を起こした」
「夫が死ななければ、無事に産まれていたわ」
「私は、夫と子供と幸せに暮していたわ」

突き上げる感情を押し殺した静かな静かな、震える声でサーシャはそう言った。
「あいつのせいよ」
「違う」
「何が違うの」
ゾロが犯した罪は罪、でも、違う。
ゾロは、サーシャを不幸にしようとした訳じゃない。
そう言おうとしたサンジの言葉をサーシャが激しい口調で遮った。

「私が話した事は全て事実よ」
「あいつはその罪を償うべきだわ」

「あいつを殺せば、その罪を償った事になるのかっ?」
今度はサンジがサーシャの言葉を激しく遮る。

「そうよ。それで私は死ぬまで笑って暮せるわ」
「例え、自分が手をかけなくても、あいつが死んだって聞いただけで私は幸せよ」

そこからの話しは堂々巡りだった。

(・・・なんでだ)とサンジは当て所なく歩く。
街のあちこちで、銃声や爆発音がひっきりなしに聞えていて、どこまで歩いても、
廃墟に近い町並みで、いつしか、どっちが港で、どっちが最初に目指していた
城砦なのかもわからなくなってしまった。

なんでだ。
なんで、こんな巡り合わせなんだ。

サンジは誰に恨み言を言うでもなく、心の中で何度もそう呟いていた。

今まで、色んな苦しみを乗越えて来た。
体から血を流した事だけでなく、心もボロボロに傷付いて。
その度に、ゾロとの絆を深めて来た。

その苦難も、今、誰よりも深くゾロと繋がっていると思えるまでの絆を二人の間に
築く為に必要な事だったとさえ思える様になっていた。
ここに辿り着くまでにどれだけの躊躇いや、戸惑い、迷い、苦しみがあったか。

これからは、穏やかな愛情を安心して受けとめ、与えられる。
これからは、何があっても、二人でそれを乗り越えていける。
そう思っていた矢先だった。

(なんで、今なんだ)とサンジは思わずにはいられなかった。
もっともっと、苦しくて、辛い時期はいくらでもあったのに、その時に、
サーシャに出会えていれば、自分の事だけにかまけて、それを言い訳に
サーシャを見捨てる事も出来たかも知れない。
それとも、苦しみを抱えるモノ同士、もっと違う形で判り合え、傷を舐め合う様に
寄り添えたかも知れない。

なのに、(なんで、今)
一人で生きていける程自分は強く、なんの疑いもなく、愛し、愛される幸せを
知ってしまった今、人生に光を失い、たった一人泥沼の中で足掻く肉親と出会って、
その肉親を見捨てる事など出来る訳がない。

かと言って、(どうすりゃいいんだ)とも思う。
当座、暮せるだけの金を与えるとか、そんな中途半端な同情などでは、
サーシャが生きている意味と言えるくらいに凝り固まった、ゾロへの怨みを誤魔化せない。

そして、もし、そんな風にサーシャを救いもせずにこの島を去った後、
何食わぬ顔をして、これから先、一生、ゾロにこの秘密を隠し通すのも、きっと
無理だ。

そこまで考えた時、サンジの横を若い男が擦り抜けて行った。
ハっと気付けば、辺りに戦意が満ちている。かなり激しい市街戦が一発触発しようと
していたその場所にサンジは迷い込んでしまったようだ。
空は何時の間にか明けて、どんよりと曇った空から鈍い太陽の光が穴だらけの
地面を照らしている。

銃弾で弾け飛んだ石畳はあちこち焼け焦げていた。
まだ崩れずに残っているそびえたつ石造りの立派な家が数軒あるけれど、
既にガラスが割られて、誰も住んでいる様子はない。
「あんた、余所者ならさっさと逃げな」とサンジに武装した老人が声をかけてきた。
もう腰も曲がっているのに、勇ましく銃を抱え、体には爆弾がいくつもぶら下がっている。
「もうすぐ、ここに敵軍が入って来る」
「全部、迎え入れた所で、このブロックごと爆破するんだ」
「巻きこまれたら、木っ端微塵じゃぞ」
「このブロックごと?って、どこからどこまでの事だよ ジイさん」

かつては、道らしき道や街路樹、標識などもあって町として機能していただろうが、
余所者のサンジにとっては、ただ、どこまでも続く灰色の町にしか見えず、
ブロック、と言われても、その区分がサッパリ判らない。
「港にはどうやっていけば・・・」
そう老人に尋ねようとした時だった。耳障りな警報が灰色の町に響き渡る。
「来たぞ、予定より早い!」と老人の顔色が変わる。
「港には、この道を逆戻りするんだ、それから・・・・」

パン!パン!と乾いた音がして、老人の身体を銃弾がめり込む。
(・・・やべ、早く逃げねえと、マジで爆発に巻きこまれるっ・・・)

港に戻ろう。そう思ったのに、咄嗟に頭に浮かんだのはサーシャの事だった。
爆発する区域は、サーシャがいた町よりは離れている。
だが、ここには敵を殲滅する為に、町一つ、吹き飛ばす事を躊躇しない連中がいる。
そんな島に、このまま一人残してはいけない。

何をどうしていいのか、判らないまま、サンジは走った。
港へではなく、サーシャがゾロを殺す為に蓄えた、たくさんの武器が眠っているその部屋に。



トップページ       次ぎのページ