この町の空気はいつも、どこか煙の匂いが混ざっているような気がする。
サーシャは生まれたばかりの赤ん坊、その亡骸を柔らかな布で包み、胸に抱いている。
母親がどこの誰かなど分からない。
(ママと一緒が良かったかも知れないね。・・・ごめんね)と胸の中の赤ん坊に
サーシャは心の中で詫びた。
自分の隣には、憎み続けたゾロの仲間が歩いている。
けれど、今は彼をどう利用するか、と言う事よりも早くこの冷たい亡骸を、
爆音も爆炎も届かない静かな場所へ弔ってあげたかった。

(勝手にすればいいわ)とサーシャは彼のその横顔を見て思った。
記憶にはない、「パパ」と呼んだ男の面影をこの男は継いでいるのだろうか。
それとも、「ママ」と呼んだ女の面影をこそ、引き継いでいるのか。

お互い、ほんの少しでも両親の事、幼かった日の事を覚えていたなら、もっと素直に
歩み寄れたかもしれない。この男も、(・・・もっと私の気持ちを分かってくれたかも
知れないわ・・・)とサーシャは思った。

「こんな場所、誰も来ないかも知れないね」
そう言って、男が・・・サンジが足を止めた場所は、町から少し離れた丘の上だった。
ただ、風が吹き、その風に青々と茂った雑草が揺れる。
「人が誰もいなくて、何もないから戦火を逃れてるけど・・・いずれはどうなるか
分からないわ」とサーシャは言い返す。
実際、毎日、数えられないくらいの人間がこの島では死んでいく。
飢えて、あるいは燃えて、瓦礫の下敷きになって、爆弾で体を粉々に吹き飛ばされて。
その亡骸を埋めるべき墓地も手一杯になっているはずだ。
「この丘だって、いつ、死人の溜まり場になるか・・・」
痩せて、乾燥した土地、何も育たない場所だから、農地にもならずに野放しにされていたのだろう。

サンジは、なだらかな丘の上に立ち枯れの木の根元に手で穴を掘り出した。
(どうしてここなのかしら)と思いながらも、土の上に赤ん坊を降ろすのが可哀想で、
サーシャはサンジの後ろから穴が深くなって行くのを眺めていた。

爪の先に泥が入っていく。尖った小石をそれと知らずに握りこんだらきっと指先が
痛むだろう。本当はそう思うのに、サーシャは自分に言い聞かせるように、
心の中で呟く。
(手なんかで掘るから、・・・時間が掛かって仕方ないじゃないの)
この男の手が痛かろうと、(私の知った事じゃない)と思いたかった。
そう気強く思っていなければならない。
弟、姉だなどと言う繋がりなど、今の自分にとってなんの意味も価値もない。
あるのは、ただ、(ゾロを殺す為に)と言う目的だけだ。
その目的を達成するためにいかに使うかだけを考えなければ。

そうしなければ、今まで生きてきた意味がなくなる。

「さっさとしてよ。私も暇じゃないの。今夜はちゃんと客を取らなきゃいけないんだから」そう言ってサーシャはそっと地面に赤ん坊を降ろし、自分もサンジの手が穿つ穴に
手を伸ばした。

野に咲く小さな花を髪を結わえるリボンで括り、そっと赤ん坊の胸に乗せた。
そして、二人で一握りづつ土をかけた。

サンジがポケットから小さな包みを出し、それを開いて、中から小さな粒をいくつか
摘み出す。
(何かしら?)と尋ねたかったけれど、会話を交わせば交わすほど、自分の心がぐらつくような気がして、サーシャは顔を背けた。

でも、気になる。
「・・・何よ、それ」とサーシャはさして興味も無さそうな声を装って尋ねた。
(だますつもりなら・・・もっとやり様がある筈なのに)
本当なら、サンジを信頼させ、サンジをだまし、懐柔すべきだ。
今までは、生きていく為に、
目的を果たすのに必要な事を得る為に、
数え切れない男を騙し、時には命さえ奪った事があるのに、どうしてサンジには
それが出来ないのか、サンジの答えを待つ間に自分の気持ちと行動にサーシャは
戸惑いを覚えた。

「種だよ。紫色の甘酸っぱい実をつける木に育つ」
「やせて、枯れた土地だからこそ、育つと思うんだ」
「ホントは、君にあげようと思って持ってきたんだけど」

(どうして、そんなものを?)
「上手く実がなるまでに育てば、小鳥も食べるし、ひょっとしたら人も採りに
来るかも知れないだろ」
「そしたら、少しは寂しくないかも知れない、なんて思ってさ」

そう言いながら、サンジは種をそのあたりに適当に蒔いた。
「・・・結構なことね」サーシャはサンジの言葉をそう鼻でせせら笑って見せる。

偽善者ぶって。
そんな事は自己満足に過ぎない。
この赤ん坊を灰にするまで燃やし、その灰を土に還してやるのが本来、一番、正しいやり方でそれが出来ない臆病者の、自己満足な葬儀だとサーシャは思ったのだ。

「明日もここへ来て、あんたが蒔いた種の上に思い切り塩を撒くわ」
「絶対に芽吹かない様にね」

どうして、そんな事を言う?とサンジは聞かなかった。
好きにすればいい、と投げやりな言葉も返ってこなかった。

ただ、悲しそうな顔をしてサーシャを見つめただけだった。
サーシャの胸に痛みが生まれる。
とてもとても懐かしい痛みだと感じた。

どんなに罵詈雑言を男にぶつけても、誰もこんな顔をしなかった。
逆上し、鬼の様な形相でサーシャを殴りつけた男も多かった。

サーシャの言葉で傷ついて、悲しそうな顔をしたのは、サンジで二人目だ。
愛し、愛されていたあの懐かしい、遠い日々にくだらない事で諍って困らせた
優しい夫の、悲しそうな顔がまざまざとサーシャの胸の中に蘇る。

(・・・私は、この子を傷つけたわ)その所為で胸が痛い。
でも。
こんな胸の痛みに竦んではいけない、と自分を奮い立たせて、サーシャは
サンジに背を向け、丘を下ろうと歩き始めた。
(私は、殺すのよ。ロロノア・ゾロを。それだけの為に生きているのよ)
(邪魔をするつもりなら、たとえ弟でも・・・容赦しないわ)ともう一度、はっきりと
自分に言い聞かせる。

「・・・で、今日は何しに来たの」
家にまで黙って着いてきたサンジを玄関先まできてサーシャは、初めて振り返って
そう尋ねた。

「相談だよ」
「ロロノア・ゾロを殺す為の?それなら聞くわ。それ以外の相談なら帰って」

サンジの表情を禄に見もせずにサーシャは口早にそう言った。

(もう帰って。私に関わらないで)と心の奥で悲鳴を上げそうになっている。
ロロノア・ゾロは憎い、一刻も早く死んでしまえと思っている。
でも、その願いと目的にサンジを巻き込みたくない、と言う気持ちが芽生え始めていた。。
いや、もう芽生えてしまっていると言っていい。

サンジの存在に触発されて、決心がぐらついてしまったら、今まで生きてきた意味が無くなる。これだけは、と信じて来た価値感が根こそぎ崩れてしまったら、明日から何を願って生きて行っていいのか分からなくなる。
例え一日でも、自分の生きる目的や意味を見失ってしまったら、生きて行く気力をも
失ってしまう。
この島で生きていく以上、ゾロを殺したい、殺してやる、と言う執念はどうしても捨てられない。

「先に君の相談に乗るよ。俺の相談を聞いてもらうのは、その後だ」
そう言って、サンジは玄関に立ち塞がるサーシャの体を柔らかく押し、半ば強引に
部屋の中に入って来た。

「・・・私の相談って・・・ゾロを殺すって事よ」
「その相談に乗ってくれるの?」どうせ、本気ではない、とサーシャはバカにした様に肩を竦めて、サンジの言葉をまた鼻で笑った。

「俺一人じゃあいつを殺せない。君一人でもね」
「だまし討ちに乗る相手でもない。じっくり策を練るのに、一ヶ月は掛かる」
「それまで、俺はここにいる」
「・・・そんなに待てないわ」

サンジの言葉をサーシャは一言で遮った。

一月も一緒に暮らしたら、きっと自分の中の何かがサンジに変えられてしまう。
そんな予感がして、サーシャはきっぱりとサンジに
「10日で仕留める方法を考えてちょうだい」と言い切った。

「10日か・・・まあ、食事しながら考えよう。すきっ腹でモノを考えても碌な
考えは浮かばないからね」

自分を適当にあしらおうとしているのは目に見えている。
それでも、不思議と腹が立たないのは何故なのか、サーシャには分からない。
そして、自分のこの狭く、粗末な部屋にずっとサンジがい続ける事を少しも
煩わしいとも思えない事も不思議だった。

(こんな事、受け入れちゃいけない)と思うのに、サンジが勝手に全く使っていない、
汚れた台所で料理を作り出したのを止める気にもなれなかった。

自分の中の怨念をもっと燃え上がらせなければ、サンジの思惑に嵌ってしまう。
台所に立つサンジの後姿を見ながら、サーシャはかつて、自分も夫の為に毎日料理を
作っていた事を思い出そうとした。
幸せな日々を思い出す毎に憎しみは募り、それを重ねてサーシャは生きて来た。

ようやく訪れたあの温かな陽だまりに包まれたような生活を奪ったのは誰か。

人の優しさや温もりに飢えていたとはいえ、こんな下らない、ままごと遊びの様な
やり方にほだされてたまるものか。

サーシャの家にあった、わずかばかりの食べ物で、もう何年も食べていない様な
優しげな香りの料理がお客しか使わない古びたテーブルの上に並んだ。

「こんなもの、作ってる暇があったらさっさと帰りなさい!」
一口も口をつけずに、サーシャはその料理全てを床に投げ散らかした。

「あんたのやってる事はただの自己満足よ!」
「赤ん坊の死体の上に種を蒔くのと同じことよ!」

呆れて、見限ってくれたらいい。
あんたじゃ、どうやったって私を救う事なんて出来ないとさっさと思い知って欲しい。

サーシャは、黙って皿ごと床に散らばった料理を片付けようとしたサンジの手を
細いヒールのミュールを履いた足で踏みつけた。

バリ、と皿がその手の下で割れる音がする。
手の甲にヒールが食い込んでもうつむいたまま、サンジは何も言わなかった。

皿が割れた破片が掌に食い込んだのか、床に押し付けられた料理が少しづつ赤く濡れて行く。

「・・・君が女性じゃなかったら、殺してる」
言葉でたくさん詰ったり、説き伏せたりされても、サーシャは耳を貸す気にはならなかった。
だが、サンジは一言、そう言ったきり、サーシャの罵詈雑言に一言も返さない。

君の悲しみも憤りも孤独も、全て受け止める。
サンジは全身全霊で、言葉一つ使わずにサーシャにそう伝えてくる。
「ああそう。じゃあ、遠慮なく殺したら?私は子供が生めないんだもの、もう女じゃないわ」
「遠慮なく殺しなさい」

自分の言葉が酷く軽くて、滑稽で下手な道化師の寸劇の様だとサーシャは思った。

(・・・この子は・・・やっぱり邪魔だ)

サンジが側にいるだけでこんなに心が揺れる。
今まで、自分の目的を果たすためならなんでもして来た。今更、迷う事などない、と
サーシャは思い極める。

(私、あんたを殺す事に決めたわ)
(あんたを殺して、その死体に爆薬を詰めて、ロロノア・ゾロに見せびらかすの)
(二人とも、木っ端微塵にしてあげるわ)

いざ、殺すとなったらサンジも大人しく殺されはしないだろう。
非力な女でも、男を殺せる方法はある。

まずはサンジを騙し、安心させる様に振舞おう。
そう思ってサーシャはサンジの手から足を退けた。

「・・・ごめんね・・・私が悪かったわ」
「せっかく作ってくれたのに・・・」

サンジの掌も、甲も血が滲んでいるのを見ないようにしてサーシャはしおらしく、
肩をすぼめてサンジにうなだれて見せた。

「・・・いいさ。急に俺を信用しろ、なんて言っても無理なのは分かってたし」と
サンジは笑う。

もうこれ以上、声も聞きたくない。顔も見られない。
もうこれ以上、思い極めた気持ちをかき乱されたくない。

サーシャは耳を塞ぎ、目を瞑りたい気持ちを堪えて、無理にサンジに笑って見せる。

(・・・私は間違っている。誰か・・・私を止めて)

そんな自分の心の叫びにさえサーシャは耳を塞いで、自分に思い出させる。
夫を亡くしてからの日々の辛さ、死んだ方がマシだと思う日々をそれでも生きて行く為に、薄汚い男に組み敷かれ、毎日どんな思いで今日まで生きてきたかを。

(私は被害者なのよ。幸せを奪われたのよ。それを恨んで何が悪いの?)
(その恨みを晴らして何が悪いの?)

そう自問自答して、サーシャははっきりと答えを出した。
(私は何も悪くない)

サンジが料理を作り直し、なんの警戒もない様子で二人でそれを食べた。
「おいしかったわ」と言ったものの、本当は味など全く分からなかった。
今から、殺すと決めた相手が作った料理の味が分かるほどサーシャも図太くはない。
ただ、そんな素振りを見せないようにするのが精一杯だった。

「お茶は私が入れるわ。お客に出すヤツだけど、いいでしょ?」
そう言って、サーシャは立ち上がった。

「ありがとう、じゃ遠慮なく頂くよ」

サンジの屈託ないその言葉を聞いて、サーシャの心臓が大きくドクンと鳴った。


トップページ    次のページ