サーシャは「客に出す為の茶」をごく、自然な動作で用意する。

食器棚として設えられた棚に、なんの不自然さも無くその「紅茶」の葉が詰まった
缶が並べてある。

柑橘類の匂いの紅茶の缶。
芳しい花の香りの紅茶の缶。
さまざまな果物の香りの紅茶の缶。

実はそれぞれの底には、違う効能を持つ薬の瓶を潜ませている。
呼吸を止める薬、体の自由を奪う薬、昏睡に陥る薬と用途は様々だ。

(・・・どれを使おう)とサーシャは缶に手を伸ばす前に考える。

呼吸を止める薬は以前、サーシャの稼ぎを亭主面して奪い、あげく暴力を振るっては
サーシャを犯し続けたこの家の家主を殺すのに使った。
白目をむき、泡を吹いて悶絶し、酷く醜い死に様だったのを
サーシャは思い出し、そして伸ばしかけた手を一度、下ろした。

(・・・あの子にこれは使えない)
間違いなく殺せる薬だと分かっていても、サンジには、出来るだけ苦しい思いはさせたくない。そう思ったから、サーシャはその薬を使うのを思いとどまった。

隣の缶は、体の自由を奪う薬、意識は留めたまま体の自由だけを奪う薬だ。
自分が手を下すのも億劫だと思う、面倒な客を追っ払うのによく使った。
金の払いの悪い客の身包みを剥いで、この薬を飲ませてから、外に放り出す。
運の良い者は薬の効果が切れたらそのまま姿を消すけれど、悪い者は
身動きできないまま、戦闘に巻き込まれて死んでしまう事もあった。

殺すのが目的なのだから、この缶の中の紅茶も使えない。

(これなら・・・)とサーシャが手に取ったのは、表向きは果物の香りをつけた
甘い香りの紅茶だった。

これを飲めば、叩いても、揺すっても起きないくらいに深く眠る。
騒がれる事もなく、眠ったままこめかみに銃弾を撃ちこめば、簡単に人は死んだ。
そして、その死体も町のどこかに転がしておけば、誰も娼婦が殺したとは思わない。
(これなら、静かに死ねるわ)

そう思って、サーシャはその紅茶を注いだカップをサンジの前に差し出した。
「変わった香りの紅茶だね」サンジは鼻を少し蠢かして匂いをかぐ。
「フレーバーが果物なの。美味しいわよ。さめないうちにどうぞ」
何食わぬ顔でそう答え、安心させる為に、サーシャは自分の分も一口、啜った。
サンジのカップにだけ、紅茶の缶の底から出した薬を溶かしてあり、
自分の分はただの紅茶だ。

(早く飲んで)サーシャは目を伏せ、サンジの様子を見ない振りをしながら
そっと伺う。心臓が強く鼓動を打つ、その振動でカップの中の紅茶に波紋が立った。

こんなに人を殺める時間を苦痛に思った事は一度も無い様な気がする。
一刻も早く、戸惑いも迷いもサンジの命とともに葬り去ってしまいたい。

眠ってしまったサンジの体に爆薬を詰め込む。
そして、サンジを預かっている、無事に返して欲しかったらここへこいと、
その旨を書いた手紙をロロノア・ゾロが乗っている船へ届ける。

仕掛けた爆薬が爆発する時間を指定して。
この家ごと、ロロノア・ゾロが木っ端微塵になるのを、少し離れた場所で見届けて。

(・・・見届けて・・・それから・・・)
それから、一体、自分はどう生きていけばいいのか、とサーシャの心の中に
一瞬、稲妻の様にそんな考えが走った。けれども、またその言葉をすぐに打ち消す。
(それから後の事なんて、その時考えれば良いわ)

自分の気持ちを切り替える為に反射的にサーシャは目を開けた。
サンジの蒼い目がじっと、自分を見ている。
その静かで、穏やかな、とても温かい眼差しから目を逸らせず、
サーシャの心臓が一際、大きくドクンと波打った。

「何?」と何も感じない振りをして首をかしげてサンジのその眼差しの訳を
普通の客と変わりない態度を装い、尋ねて見せる。
乱れている気持ちがどうか、サンジに伝わっていませんように。
ただ、そう願った。

「いや・・・美味しいよ」
「でも、俺が入れてあげたらもっと美味しかったかも知れない」

サンジはきっと、その言葉を言い終わってすぐにテーブルに突っ伏して
眠ってしまった、と言う自覚はないだろう。
それほど、その薬は唐突に急激に効き目を発揮する。
心臓の悪い人間ならそのまま昏睡に陥って、死んでしまう事さえある。

「苦しい思いはさせないわ。眠っている間に何もかもが終わるだけ」
「ここで私と出会った、あなたの運が悪いのよ」

サーシャはサンジの体を抱えるようにして自分の寝床に運ぶ。
(男なのに、・・・軽いのね)もっと、重労働かと思ったが、思いのほかサンジは
軽くて、狭い部屋の中を移動させるのにさほどの労力は掛からなかった。

(さっさとしないと)いけないと思うのに、サーシャはサンジの眠っている顔を
突っ立ったまま見下ろす。

幼い頃の記憶など殆ど無い。
古びた写真だけがサンジと自分を姉と弟だと言う証拠の筈だ。
だが、自分でも自覚できないくらいに深い場所に眠っていた記憶が、
サンジの寝顔に呼び覚まされていくような気がして、サーシャはその場から
動けない。

温かな部屋、優しい温もりに抱かれて、揺れる小さなベッドを覗き込んだ。
柔らかなピンク色の頬、向日葵色の髪、天使の様な赤ん坊がその中にいて、
抱かせてくれと誰かに頼んだ。
その優しい誰かが・・・さっき、サンジが紅茶を飲みながら自分に向けていた、
あの眼差しとそっくりな眼差しをした男が、ベッドからそっと赤ん坊を抱き上げて、
サーシャの腕の中にその赤ん坊を抱かせてくれた。

「優しく抱くんだよ。お姉さんなんだからね」
「お姉さんじゃないわ。ママが元気になるまで、私、このコの小さなママだもん」

(そうだわ・・・あれがパパの顔よ)

サーシャは、自分の記憶の中に幼い日、「パパ」と呼んでいた父親と交わした会話を
まざまざと思い出す。
自分の顔を見上げ、ニッコリと笑った小さな赤ん坊の顔も思い出した。

(・・・この子なのよ、私が抱いてた赤ちゃんは・・・)

瞼の奥ではっきりと思い出した父親の顔と、サンジの顔は良く似ている。
それよりも、消えてしまったとばかり思っていた記憶は、まるで重い蓋を外されたかの
様に次々とサーシャの心の中に蘇ってくる。

ミルクを飲ませた事も、覚えたばかりの字を辿って絵本を読み聞かせた事も。
「パパ」と「ママ」が愛しいと思う、この赤ん坊を自分もどれだけ愛しいと思ったかと
言う事も、サーシャは思い出した。

「どうしたら・・・いいの」
誰に言うともなく、サーシャは呟いていた。
自分が踏みしめて、傷つけたサンジの掌をサーシャはそっと手に取る。

人が感じる痛みなど、思い遣った事など、夫が死んでから一度も無かった。
そんな感覚など、もう自分には必要ない。自分の痛みを抱えているだけで精一杯だった。
(痛かったでしょうね)そう思う自分が切なかった。

ロロノア・ゾロは憎い。
でも、サンジはそのロロノア・ゾロの仲間だ。
仲間が死ねば、きっと悲しいに決まっている。
悲しい思いをさせてしまうに決まっている。

だが、だからと言って今まで積み重ねてきた殺意と恨みを水に流せるほど
お人よしではない。

サンジを死なせないで、悲しませないで、ゾロを殺す方法、
そんな都合の良い方法がある訳もない。

「どうしたらいいの・・・」何も答えてくれない夫に問いかける様にサーシャは
もう一度呟いた。
水で湿らせた布で綺麗に傷口を拭う。

記憶の中、セピア色に思い出した父親と同じ眼差しでサンジは自分を見つめていた。
優しく、温かく、愛しそうげに、自分の何もかもを包み込んでしまいそうな眼差しに
見つめられて、幸せを感じるよりも先にサーシャの心は苦しみと悲しみで一杯になる。

(そんな目で見られる価値もないのよ)
生きる為に人を恨み、その恨みを晴らす為に生き、日々を生きる糧を得るために
どんどん魂も体も穢れていった。今、自分の所為で傷ついたサンジの手に触れて、
その醜さをサーシャはイヤと言うほど思い知らされている。
なのに、その手を離す勇気も出せない。

少女の頃の温かで優しい愛に包まれた、幸せな日々に帰りたい。
誰を恨む事無く、日の光を浴びて、思い切り誰かを愛し、愛されたい。
そう出来たら、どんなに幸せだろう。

(もう・・・遅いわ。遅すぎる)
そんな言葉が自然に心の中にわき上がってくる。
ずっと触れていたかった、懐かしい温もりを宿した手を、何かを思い切る様に
サーシャは手放した。

(ロロノア・ゾロは殺すわ。どんなにあなたが悲しんでも)
(その為に生きてきたんだもの。その後、あなたが私を恨んで殺してくれるなら)
(そうすれば、こんな なんの救いも無い人生を終われるわ)

いずれにしろ、自分ひとりの力ではゾロは殺せない。
サンジをどう利用するかは、じっくりと考えよう、とサーシャは思った。
ゾロを殺す為の道具として利用されたとあっては、きっと、サンジはサーシャを
憎む。その憎しみをぶつけられて死ぬのが、罪を犯し続けた自分には相応しい死に様だ。

これ以上無いほど自分勝手なのは、分かっている。でも、人の気持ちを慮って、自分の行動を制御する事など、今のサーシャには到底出来ない。
そんな事が出来る人間なら、今、こうして生きてはいない。
身勝手で、自己中心的で、なりふり構ってはいられなかった。
何もかもが自分の為だけ、それだけだった。
「あなたは、・・・その為に生かしておいてあげる」
そう静かに囁いて、眠っているサンジの体が冷えない様にそっとサーシャは薄いブランケットをかけた。


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