「・・・目が腫れたね」
サンジはサーシャを見て、そう言って微笑んだ。
「失礼な男ね」
サーシャは少し鼻をすすり、上目遣いにサンジを睨む。
「そういうのは、見ても見ない振りをするモノなんじゃないの?」
「いや・・・。目が腫れてても、綺麗だよ。それが言いたくて」
サンジの背中の向こうの窓から、オレンジ色の光が薄い布越しに
部屋の中に差し込んでくる。
自分と同じ色の髪なのに、その優しい光に照らされて、サンジの髪がキラキラと光って見えた。
逆光の所為でサンジの表情は翳り、あまりはっきりと見えない。
けれども、サンジは微笑んでいる。
とても温かいまなざしで自分を見ている。
どこも触れていないのに、この部屋の中の空気に優しいぬくもりが溶けていて、
その温もりに体が包み込まれて行く。
ただ、サンジは穏やかに微笑み、サーシャを見つめている。
それだけなのに、サーシャは、また泣きたいくらいの、優しい温度を体の中に
感じた。
「・・・ありがとう」
綺麗だよ。
そんな浮ついた言葉の筈なのに、どういうわけか、サンジのその言葉はサーシャの心の中に沁み込んで行く。
君はなんて、艶かしい肌の色をしているんだろう。
君の髪はなんて美しい髪の色なんだろう。
美しい顔立ち、世界一、美しい海色の瞳。
そんな風に、サーシャの容姿を賛美した者もたくさんいた。
最初はそんな言葉も、嬉しかった。
けれども、そんな風に誉めそやされても、結局は、誰も自分を幸せにはしてくれなかった。サーシャの肉体を欲しがるばかりで、サーシャの望むモノは何一つ、
与えてくれはしなかった。
むしろ、そんな言葉を吐く者達は汚い欲望を満たす為にサーシャの心を操ろうと
しているのだけだ。そう見抜いてから、綺麗な言葉を並べ立てる奴ほど信用出来ないと
思っていた。
なのに、今は、サンジの言葉を素直に受け入れられる。
まるで、さっき飲んだ温かい紅茶の温度が体の中に沁み込んで行ったのと同じ様に、
サンジの言葉も同じ様にサーシャの心の中に優しく、穏やかに沁み込んで行く。
「・・・どうして、海賊に?」
サンジと言う名前も、サーシャと言う名前もきっと本当の名前ではない。
だからと言って、けれど、いつも名も知らぬ客を呼びつけるように、
サンジを あんた、とはサーシャはもう呼べなかった。
本当の弟として、名前を呼びたくてもその名前が分からない。
サンジ、と呼び捨てるのも、本当の名前ではないと分かっているからなのか、
どうしても違和感がある。
かといって、自分の周りにいた男達と、サンジを一括りにするもの嫌だと思った。
唯一、心から愛し合った夫と同じくらいに、自分を大事に思ってくれている男。
サーシャはサンジをそう、位置づける。
だから、ただ、泣きはらした顔を上げ、名前を呼ばないまま、
サンジにそう尋ねた。
ここには自分とサンジしかいない。
同じ色の瞳を見据えて話しかければ、名前を呼ばなくても、
サンジは答えてくれるだろう。
そうやって目を逸らさずにまっすぐにサンジの顔を見たのは、
知り合って今が初めてのような気がした。
「海賊に育てられたから・・かな」
サンジはそう言ってポツリ、ポツリと自分の生い立ちを話してくれた。
幼いサンジを助け、育てた海賊の事、一緒にレストランを築き上げた事、
幸せだった時の事も、そして、
きっと、他の誰にも話さずにいた幼い頃の辛い事も、何もかも全て、
サーシャに話してくれた。
人よりも美しく生まれたが故に、そして人よりも優しい心を持ってしまった故に、
人よりもたくさん傷ついた。
それはサンジもサーシャも同じだった。
違うのは、サンジには戦える肉体があり、それがそのまま、
自分で幸せを勝ち取る力となった。サーシャにはそのどちらもない。
人を恨む事をエネルギーにしなければ、サーシャは生きていけなかった。
「私は、・・・これから、1人で生きていけるかしら」
ゾロを殺す事だけを目的にしてがむしゃらに、なりふり構わず生きてきた。
人が傷つこうが、自分が傷つこうが、その目的を果たす為ならどんな事でも出来た。
どんな孤独も痛みも苦しみも全て、幸せを奪ったロロノア・ゾロの所為なのだと、
憎しみをただ、募らせて生きて来た。
その凄まじいエネルギーを失ってしまって、この見境のない殺し合いの真っ只中の島で、
1人で生きていく自信はサーシャにはない。
サンジはサーシャの言葉に頷く事もなく、首を振ることもしないで、
静かに、じっと、サーシャの言葉に耳を傾け、その目でただ、見つめているだけだ。
その青い瞳の中に、弱音の様に問い掛けた答えがある。
そんな気がして、サーシャはサンジの目をじっと見つめた。
今、サーシャはサンジに心を開いた。
誰にも吐かなかった弱音を吐き、サンジがそれを黙って聞いている。
それだけなのに、静かに向かい合って座る二人の心の距離は急速に近づいて行く。
心を開くと、少し前までは何を考えているのか、全く分からなかった筈のサンジの
心全てが見える様な気がした。
温かな労わりと、優しさ。
それ以外の感情が何も見えない。
その感情を素直にサーシャは受け入れる。
すると、その心の中に、自分自身の力で幸せになりたい、と願う力が生まれて来た。
その瞬間をサンジは待っていたかの様に、口を開いた。
「君に似合う、綺麗で平和な国がある」
昔、少女だった頃憧れた。
王子様が現れて、不幸のどん底に沈んだお姫様を抱き上げてお城へと連れて行ってくれるおとぎ話。
その時のときめきがサーシャの胸を掠める。
夫の腕に抱き締められ、船から飛び降りて逃げた時に一度叶った夢が、
再び、叶うかもしれない。そんな期待がサーシャの顔を輝かせた。
サンジがとても嬉しそうに笑う。
まるで、心と心が繋がっていて、サーシャのときめきや喜びがそのまま
サンジの胸にまで届いて、サンジを喜ばせているのかと思えるくらいに、
サンジは嬉しそうに笑っている。
笑ったサンジの顔を見て、サーシャはハっとした。
(・・・似てるわ。私達・・・)
笑ったサンジの顔は、鏡で映した自分の顔を見ているかのようだった
愛しく、優しい夫と一緒に暮らして幸せだった頃の自分の顔を、
サーシャは久しぶりに思い出す。
「この島にいたんじゃ、誰だっておかしくなっちまう」
「それはどこ?」
「ちょっと熱い国だけど、王女サマは可愛いし、王様は立派だ」
「きっと気に入るよ」サンジはサーシャを焦らす様にそう言った。
「だから、どこよ。どんな国?」サーシャはじゃれる様にそう尋ねる。
まだ、サンジはサーシャを連れて行く、とは言ってない。言ってはいないが、きっとサンジは自分をそこへ連れて行ってくれるつもりだともう、わざわざ尋ねなくてもサーシャには確信できた。
「その国の名前は、アラバ・・・」とサンジが言い掛けた時だった。
「おい!サーシャ!いるだろう、開けろ!」
扉が外側から割れるのではないか、と思うくらいの強さでドンドンドンと
何度も乱暴に叩かれる音と、男の怒鳴り声がけたたましく響いた。
(・・・誰・・・?)
聞いた事のある声だが、誰の声なのか、一体なんの用なのか、
サーシャは分からない。
自分を買いに来たにしては、時間が早すぎる。
それに、怒鳴っている声も人に憚る事もないくらいの大声だ。
娼婦を買いに来て、一目も憚らず高圧的にその娼婦を呼びつける男などいない。
いたとしたら、とんでもない恥知らずだ。
男が、自分の体を買いに来たのではないとすると、一体用はなんなのか。
サーシャは椅子から立ち上がった。
サンジも同じ様に立ち上がる。
「開いてるわよ。ドアを壊すつもり?」
サーシャはドア越しにそう怒鳴り返した。
すると、武装した男が1人、物凄い勢いでドアを押し開き、入って来た。
「あら。生きてたの」
ほんの二週間ほど前、サーシャを買った男だ。
背中がやたらと毛深くて、吐きかけられる息が生臭くて何もかもがヘタクソな男だった。
武器の管理が仕事らしく、自分が整備した武器で、この戦争でどれだけの人間を
どうやって殺したかの自慢話ばかりを終わった後にしつこく聞かされてうんざりした事を覚えている。
「お前・・・俺がお前に横流しした火薬や弾薬を敵に売ったな?」
「あんたが私にくれたモノを私が誰にどうしようと私の勝手じゃない」
男の言い草にサーシャはそう言い返した。
実際は、その火薬も武器もこの家の中に隠してある。
この島の人間を殺すつもりで武器や弾薬を集めていたのではなく、
ロロノア・ゾロを殺すつもりで集めていたのだから、
誰にも売ったりするワケがない。
だが、素直にそう言ったところで、信用して貰えないのもサーシャは経験で
知っている。
だから、反抗的な態度を取った。
その男と口論が始まってすぐ、男はサーシャの腹を蹴った。
すると、サンジがその男を一瞬で蹴り倒し、外へ叩き出してくれた。
夜になって、サンジがまた勝手に食事を作り始める。
その頃から、サーシャは脂汗が出るほどの痛みを下腹部に感じ始めた。
(・・・お腹をあいつに蹴られたからかしら・・・)
でたらめに出血するからといって、さして気にもとめずにいた。
娼婦なのだから、相手次第で体が傷つき、思いがけない時に体から血が流れ出す事くらい、慣れている。
だが、最近のこの類の痛み、出血はその回数を重ねるごとに酷くなっていた。
自分の血溜まりの中で倒れて、気を失ってしまったことさえサーシャは
サンジに抱き起こされて、名前を呼ばれるまで気が付かなかった。
「女の体なんだもの、・・・どうってことないわ」と言ってみたけれど、
腹の中を小さな刃物で切り刻まれるような痛みに体が強張る。
「さっきの男に腹を蹴られたからだったら大変だ」
「医者に見せなきゃ」
「娼婦の出血なんか、この島の医者は見てくれないわ」
サンジの言葉をサーシャは途中で遮った。
「俺の仲間に診て貰おう。すぐに呼んで来る」
サーシャを仲間の待つ船へ連れて行く、と言う選択ではなく、
医者の方を連れてくる、と言ったのは、あまりの出血の多さと、
その原因がはっきりと分からない以上、迂闊にサーシャの体を動かせない、と
思ったからだろう。
「・・・待って」
こんな風に出血して、痛みにのた打ち回るのは初めてではない。
1人でいても平気な筈だ。
それなのに、今、サーシャは1人きりでこの家に取り残される事がたまらなく怖い。
生きる力、幸せになりたいと願う力を与えてくれたサンジが側にいないと、
また、暗い穴をただただ、這い回って人を恨む事しか考えられない人間に逆戻りしてしまう。
もう、灰色一色しかないような世界で生きて、そして死んで行くのは嫌だ。
だから、サンジから離れたくない。離れたら、今度こそ、心が死んでしまう。
それがサーシャは怖かった。
「ほんとに一時の事なの・・・薬を飲めば痛みも血も止るわ」
頭がぼんやりして、意識がまた薄れて行く。
はっきりと言葉を言えているのか、いないのかも分からない。
「ここにいて」
「私を一人にしないで」
それだけ言うのが必死だった。
やがて、サーシャの意識は現実と、夢の判断がつかなくなるほどあやふやになる。
優しく柔らかく、男の腕に包まれている。父親に抱かれている様な、
夫に抱かれている様な安らぎの中にいる。
それなのに、涙がこみ上げてくる。
(・・・これは夢なのよ)
この幸せは、夢でしかない。
だから、心の中は悲しさで埋め尽くされている。
ずっとこのままこうして抱いていて欲しいと思うのに、それは幻だと
夢の中でもサーシャは知っているから、涙が止らないのだ。
「ここにいるから」
「もう、泣かなくていいよ」
「どこにもいかないから」
(本当に?)
どこからか聞こえてくる声にサーシャは聞き返す。
でも、きっと声は出ていない。
優しく、サーシャを慰める声は、忘れた筈の(パパの声だ)とサーシャはそう思った。
サンジは、サーシャの体を温めるように抱き抱えたまま一晩明かした。
(・・・なんとか、チョッパーに見せねえと・・・)
(いくらなんでもこの血の出方は変だ)
けれども、今、ゾロとサーシャを会わせたとして、
何も波風を立てずに事を上手く運べるだろうか。
(・・・だめだ。まだ、会わせらねえ・・・)
やっと、サーシャの顔から翳りが消えたのだ。
もうゾロの事など忘れて、これから本当に幸せに生きて行こうという気持ちに
なりかけているとはいえ、まだそれも完全に固まっているといえる状態では
ないに決まっている。
積年の恨みがそう簡単に解けるとは思えない。
だが、それと医者に診せる、診せないは別問題だ。
この島の医者がアテにならないのなら、チョッパーに診せるしかない。
(命に関わるような病気じゃなきゃいいが)
血の気が薄いサーシャの寝顔を見て、サンジは胸に何かが痞えたような
息苦しさを感じた。その重い空気の塊を体から吐き出すように、大きなため息を
一つつく。
薄いカーテン越しに今朝は鈍い光しか差込んでは来ない。
きっと外はどんよりと曇っている。
夜が明けた途端、また今日も、どこか遠くで砲弾かなにかが爆発する音が聞こえた。
戻る
★ 次へ
★