氷を溶かす夢

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ゴウゴウと灼熱の風が屋敷の中を炎と共に吹き荒れて、壁が、天井が
柱が、絨毯が敷き詰められた床が朱色に染まって少しづつ、黒く焼け落ちて行く。
そして、兄の骸を抱いたケイが何かを呟いて自分を恨めしげに見つめている。

なぜ、助けてくれなかったの
なぜ、あなただけがそこにいるの 
なぜ、私を見捨てるの

燃える蝋人形の様にケイの体はゆっくりと輪郭から崩れ、炎に飲まれて行く。

助けて、お願い

絶叫なのか、悲鳴なのか、その声は耳ではなくサンジの心に直接響いた。

袖をまくったサンジの腕を燃えおちながらケイの腕が掴む。

助けて

向日葵色の髪が熱風で乱れ、もはや焼死体と変わりない姿になりながらもケイはサンジの腕を離さない。

熱風で息が詰まって苦しくなる。そしてサンジはその悪夢から開放される。
目を開けば、まだ、朝は来ていない。
(・・・くそ)戦闘が終ったばかりの様に息が乱れに乱れていた。
誰もいないキッチンの丸い窓から月を見れば、水平線に沈むまでにもう少し
時間が掛りそうだ。(1時間も寝てねえのに)自分の眠りの浅さに半ば呆れながら
サンジは体を起こし煙草に火を着けた。

あれから、何度も同じ様な夢を見る。それはケイと再会したあの島を離れたら
離れるほど回数が増えてきた。今はもう、眠れば必ず見る、と言っても大袈裟では
ない程だ。無意識に触れた煙草を摘んでいる指先がやけに冷たい。
夢の中でケイに掴まれた腕には当たり前だが掴まれた跡もなければ、火傷の跡もない。
けれども、サンジは無意識にそこを擦った。

体が重く、頭が痛い。
それでも、眠ろうと目を閉じた途端、また炎と泣きそうなケイの顔が瞼に映って
悪夢に引き摺りこまれてしまう。長い長い夢の様でも、目を醒ませば
今の様に1時間ほどしか時間が経っていなくて、サンジは酷い睡眠不足で、
相当疲労が溜まっていた。

「ちょっと、いいものを手にいれたの」
夜が明けて、朝食の時ナミが笑顔で皆に一つのログホースを見せようとテーブルの上に置いた。

「なんだ?」と口に食べ物を詰めれるだけ突っ込んだルフィがナミの方に
目だけを向ける。サンジは壁に凭れ、重い瞼を必死に持ち上げながら
皆の食事の進み具合を見ていた。

「昨日、襲った海賊船から貰ったの」とナミはログホースの隣に小さな紙片も
広げる。「海図ね?これがなに?」とロビンはコーヒーをもう一杯欲しそうにチラと
壁に凭れているサンジを見たが、その瞼が完全に閉じられているのを見て、
何事もなかった様にそのカップを両手で包む様に持ちなおしてナミに尋ねた。

「このログホースが示す島にはこの海図がないと無事にたどり着けないのよ」
「ほら、岩礁がたくさんあるでしょ?海図がないと簡単に座礁しちゃう」と
ナミは海図を差してそう言った。
「その島になにかあるのか」とゾロもロビンと同じ様に立ったまま眠っているサンジに
訝しげな視線を向けつつ、ナミの話題にも興味を示す。

「素敵な、いい温泉があるだって。ちょうど気候は冬だし」
「なんだか、すっごく疲れてる人もいるし。理由はなんにも教えてくれないけど」
「気晴らしにどう?お金も昨日の戦利品があればなんとかなるし」
「ならなきゃ、宿代くらい踏み倒せばいいんだし」

その案を船長は快く受け入れ、ゴーイングメリー号の進路が決った。

「この前の島で何があったのか、なんにも言ってくれないのは水臭いと思うの」
雨が降り出しそうな空を見上げながらナミは隣に立っているロビンに
独り言の様な小さな声で同意を求めるようにそう言った。

「なんでも話すのが最上の方法だとは限らないでしょ?」
「判ってるけど。もどかしいじゃない」と素っ気無く答えたロビンにナミが
不服げに言い返し、気圧計に目をやる。
「もどかしいと思う気持ちだけで十分なのよ」とロビンは笑った。
「それ以上の事を根掘り葉掘り聞くのは余計なお世話っていうもの」
「あなたの行動はとってもエレガントだったわ、航海士さん」
「ホントの優しさは優しくされてるって気付かないくらいさり気ないモノが
心地良いのよ、多分」

そうロビンが言った途端、甲板にポツリ、と一つ雨の雫が落ちてきた。
「この風を掴めば、明日の朝には温泉よ!」
「皆、張り切って働くのよ〜〜!!」
ナミは心の中の曇がロビンの一言で晴れたのか、曇り空の下、伸びやかな大声で
男連中に激を飛ばした。

その雨と風、それに煽られた波から立つ水飛沫に怯む事無く、麦わらの一味は
一丸となって船を操る。

そして、風が少し、穏やかになった。
「順に一時間づつ、休憩をとって。サンジ君、今のうちに軽いもの・・」
軽い物を用意してくれる、と言い掛けてナミは口をつぐんだ。

波も穏やかになり、風も帆はしっかりととらえている。
けれど、冬島が近くなって気温の低い雪になりそうな冷たい雨は
体を冷やすだけだ。

サンジはキッチンへと上がる階段に腰掛けて、顔を伏せている。
連日の不眠の所為で疲れきっているのが、そこにいる誰の目にも明かだった。

(こんなにも冷たい雨に濡れたままで寝ちまうなんて)と誰もが思った。

身軽に動く為なのか、他の者よりも多少、着替えを多く持っているからか、
サンジはいつも雨の中でも雨具を羽織らない。マストに登る時、風を孕んで
バランスを崩しやすいと言うのも、理由の一つなのだが、この時もサンジは
普段と変わらない格好で雨に濡れながら眠っている。

多分、本人は自分が眠っていると言う自覚さえない、浅く短い眠りの中に
ほんの数秒で落ちていったに違いない。
おもむろにゾロはサンジに近付きながら自分が身につけていた雨具を脱いだ。

「このまま、船を進ませる」とルフィは短く言って、ナミに目だけで指示を仰ぐ。
「判った。じゃあ、サンジ君が目を醒ますまでこのまま進むわ」

ナミがそう答えた時、ゾロは自分の雨具をふわりとサンジの体に被せた。
雨が無駄にサンジの体を濡らさないか、を一瞥して確認してからまたもとの
持ち場に戻った。

それから、また、きっかり1時間過ぎる。
船は追風に乗り、ナミが当初言っていたよりもはるかに早い速度で
目指す豊かな湯量の温泉が有名な冬島へと順調に進んでいた。

「サンジ!おい、サンジ!」とウソップが階段に腰掛けて眠っている筈の
サンジをけたたましく揺り起こす声が、全員の注意をその場所に一気に
引きつけた。

「起こすなよ、サンジ折角寝てるのに」と珍しくルフィがフィギアヘッドの上から
ウソップの行動を咎めた。腹が減って死にそうだが、サンジが人の話しを
聞きもしないで居眠りするのはあまりにも異常な事だとルフィにも判っていた。
疲労困憊しきって倒れてしまったり、疲労の上の戦闘で大怪我をしたり、
また海に落ちたりしたら、ますます美味い食事が期待出来なくなる。なにより、
乗組員の全員の無事こそが船長の最も優先させるべき重要事項だと言う事も、
色々な航海と冒険の末、ルフィは学んで来た。

「ああ、悪イ」とウソップの怒鳴り声に目を醒ましたのか、サンジが
掠れた声で答え、目を擦っている。

「うなされてたから起こしたんだが・・もう少し、寝てた方がいいんじゃねえか」と
ウソップは申し訳なさそうにそう言った。
「ああ、いや、」サンジは顔を上げ、何度か瞬きをして「十分寝た」とウソップに言うが、顔色はあまり良くはない。

「これはマリモ剣士のか」とサンジは自分の体に被さっていた雨具に気付いて
独り言の様に呟く。
「サンジ、目が醒めたんならメシ!」とルフィが喚いた。

「ああ、判った。すぐ作る」と答えて、サンジは階段を昇る。
クルクルとゾロの雨具を荒くたたんで、小脇に抱えた。

(いつのまに寝ちまってたんだか、全く)ズボンのポケットに入れていた
煙草は全部湿っていた。口に咥えて火をつけても燻るばかりで火が着かない。
(夢なんか見ないくらいに深く寝れりゃいいのに)と悪夢に苛まれる自分の心の
弱さが忌々しくて、火が着かないと判っているのに、忙しくなく
凍えた指でライターを弾きながら、キッチンで舵を操っていたゾロに
「これ、」と丸めた雨具を突き出した。

「おお」その礼も感謝もなにもない、素っ気無さ過ぎるサンジの態度をゾロは責めずに
その雨具を受取った。
その顔に渇いたタオルが投げつけられる。「頭ぐらい拭けよ」
「少しは眠れたか」ぶっきらぼうにタオルを投げてきたサンジにゾロは
尋ねる。

「暢気に温泉に浸かって美味エもん食って酒飲んでゆっくりすりゃ眠れるだろ」
「それでまだ酷くなるようなら、チョッパーに薬を貰う」
「時間が経てば治るだろうし、それに」サンジはそこまで言ってシンクの前に立った。

「生きる、死ぬの場面に遭遇してねえから、こんな夢くらいで眠れなくなるんだ」
「いっそ、そんなヤバイ事に巻きこまれた方がぐっすり眠れるかもな」とほんの少し、
自嘲の混じった声で言い、エプロンを体に巻きつける。

「島が見えて来たわ!」とナミがキッチンに駈け込んできた。
「やっぱり風をつかまえたから速かったわね。ここからが難しいわ」
「サンジ君、食事は後でいいわ。よろしく」と口早に言い、また外に飛出して行く。

サンジがエプロンを慌てて外したその時。
ヒュルルル・・・・と細い口笛の様な音が空気を震わせた。

「前方に船が!」
「凄いスピードでこっちに向かってくる、ゾロ、舵を切って!」とナミの金切り声が
聞こえ、「どっちに切るんだよ、面舵か、取り舵か!」と怒鳴り返すゾロの声が
砲弾が船体を破壊する耳を劈くような大音響に掻き消される。


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