舞い上がった水飛沫さえ一瞬で氷の粒となるほどの寒さ、
そして肌にチリチリとした痛みを感じさせるほどの冷たい風が吹き狂う
夜と朝の間の暗い海を船は進む。

(やっぱ、こいつは凄エ女だ)とゾロはその指示に従いながら、ナミの航海技術と
決断の早さ、指示の確かさに改めて驚いた。
港からこの船が荒波を超えて進んでくるのを見ていた時、
今にも波に飲まれるか、風に横倒しになるか、とても危なっかしかったのに、
今、自分達は同じ船に乗っているのに、安定し、速度も倍は出ている。
航海士の腕一つでこんなにも船の性能が上がるモノだとは、今までゾロは
知らなかった。ナミでなければ、こんな荒れた海をこんなに早い速度で船を
間違いなく目的地へと進ませる事は出来なかったかもしれない。

(早く、早く)と皆の気が急いている。その気持ちはナミも同じだろう。
その気持ちと冷静に風と波、潮の流れを確実に計算すると言う冷静さが、ナミの
頭の中では同居しているのだ。

「オッサン、島に着いたら、チョッパーに乗って一番前を走れ」
「雪の中じゃ、チョッパーが一番足が早い、サンジがいるところまでチョッパーと
ゾロを連れて行ってくれ」

真っ暗な翳しか見えなかった、対岸の島の輪郭が徐々に弱い光に浮き彫りにされてきた。
それを見据えながら、ルフィは初老の男にそう言う。男と、チョッパーが
しっかりと力強く頷いた。
朝が近い。風も雪もまだ少しも勢いを弱めないけれど、うっすらと紺色の夜の向こうに
見える雲はさほど分厚くは無さそうだ。

「カタが着く頃、きっと止むわ」とナミは空を見上げて、そう言った。
「まさか、すぐに取って返してくるとは思ってなかったのかしら」

船は着岸する為に船足を落とした。ロビンが舳先から港の様子を眺めて
ナミを振りかえる。「警備はとても手薄よ」
「じゃ、ロビン、チャチャ、とその手薄な警備を片付けてちょうだい」
ロビンは言われたとおり、港に残っていた数人の海賊達の頭や鳩尾を殴りつけ、
静かにさせておく。
そして、船はなんの問題もなく、上陸した。
「こっちだ、トナカイの先生!」獣に姿を変えたチョッパーの背にまたがり、
初老の男は真っ直ぐに雪の降り積んだ道の先を迷いなく、指し示す。
「わかった!」とその指し示す方角へとまず、チョッパーが雪を蹴って走り出す。
その先導のおかげで迷う事なく、目指す敵の城砦へと辿り着ける筈だ。
麦わらの一味とリムは雪の降り積んだ道を駆け出した。

「ん?」一面、真っ白な雪が、灰色の薄い雲を透かして照らされてきた、
柔らかな朝陽の中で、ウソップは冬枯れした木立の黒と白しかない筈の景色の中、
ほんの少しだけ、鮮やかな色を目の端に見たような気がして足を止めた。

それを見つけられたのは、本当に偶然だった。ウソップの目でなければ、
見えなかっただろう。冬枯れしているとは言え、樹の枝は複雑に重なり合っていて、
その枝に降り積んでいた雪が微妙なバランスを崩し、崩れ落ちた衝撃で、
たわんだ樹の枝、それがゆらゆらと動いたから、その向こうの枝が見えた。

赤く細い布キレが凍てついて、枝に結わえられている。
(なんだ、あれ)と思った途端、ウソップの頭の中でその赤紫がかった、赤い布を
一体、自分はどこで見たのか、の答えを弾き出した。
「待て、ルフィ!チョッパー!」と大声で先頭の二人を呼び止める。

「なんだよ、ウソップ、急いでんだゾ、いつもの病気は聞かないぞ!」と
顔だけを振り向いて、チョッパーがそう怒鳴り返してきた。
「違う、違う、あれ!」ウソップは雪を掻き、ズブズブと新雪に足を飲み込まれながら、
森の中へと入り、そして、自分が見つけた布を指差した。
「あれ、サンジのバンダナの布じゃねえか!?」
「あれってどこにあるのよ、そんなもの」偶然に見つけたそんな小さなモノを
すぐに他の者が見つけられる訳もなく、ナミがウソップの指し示した方向に
目を凝らしながら、口を尖らせた。
「私が見るわ、」そう言って、ロビンが目を閉じる。そしてすぐに目を開いた。
「そうだわ、確かにコックさんのバンダナの布よ」
「なんで、あんなところに・・・」

「あいつ、なにかを隠したんだ。その目印だ。」皆が首を傾げる間もなく、
ゾロがいきなり口を開いた。
サンジが隠さねばならなかったもの。(それはなんだ)とゾロは考える。
「何かって何?」「・・・失したくねえモンだ、失したら困るモノ・・・」
ナミに尋ねられ、ゾロは言葉を詰まらせた。
その時、自分を真剣な眼差しで見つめるリムの視線に気づく。
リムはサンジの残したこんな布キレの事などよりも、早くベスを助け出しに行きたい筈だ。けれども、それを一言も言わず、自分達がサンジを案じている気持ちをしっかりと
汲んで、自分達を信じて、逸る気持ちをぐっと押えている。
そのリムの誠実な眼差しと目線を交し合い、二人は同時に答えを見つける。
「「首飾りだ。ベスの」」ゾロとリムの声が重なる。

「やっぱり、あのバンダナの人が持ってたんだね」と初老の男が口を開いた。
「ベスお嬢さんが持ってる筈だってヒュダインはお嬢さんからとりあげようとしたんだ」「けど、あのバンダナの人がベスお嬢さんの安全を確保しなきゃ渡せないって言って突っぱねたから、ヒュダインの野郎に責められて・・・」

「首飾りは後だ、まず、二人を助ける!」
男の言葉を聞いて、ルフィがいきなりその男を担ぎ上げた。
「案内しろ、そんな卑怯なヤツ、俺がぶっ倒してやる!」そう言って、
もう、森の向こうに少しだけ見えてきた城砦へ向かって、凄い早さで走り出した。

「しぶとい男だな、全く」能力を使いすぎたのか、サンジが意識を失った後、
ヒュダインは肩でゼイゼイと息をしながら苦々しい顔付きでサンジを見下ろしそう
言い吐いた。
「でも、これ以上、体を冷やすと死んでしまいますぜ」とサンジに水を
ぶっかけていた男が恐々、ヒュダインにそう言うと、「フン」とヒュダインは鼻を鳴らした。
「手足が壊死しようと、頭さえ生きてりゃそれでいいんだ」
「首飾りさえ手に入れば、麦わらだろうが、リムだろうが、海軍の戦艦だろうが」
「怖いモノはなにもなくなるんだからな」
ヒュダインがそうつぶやいた時だった。

「大変です!麦わら、麦わらの一味とリムが!」
「何イ!」牢屋の中に駈け込んできた手下の言葉にヒュダインの顔色が変わった。

「おい、そいつを連れて逃げるぞ!」ヒュダインは血相を変えて、傍らにいる大きな
体躯の男にそう怒鳴った。
「え、ベスお嬢さんじゃないんで?」と男はキョトンとしている。
「リムを脅すより、麦わらを脅した方がいい。それに首飾りの隠し場所はこの
男しか知らないんだ。俺は、最初からベスなんてあんな鼻っ柱の強い女になんか、
興味は無い、あの赤い首飾りだけが必要なんだ!」と喚いた。
「さっさとその男を担げ、このデクのボーが!」

「待て、サンジを動かすな〜〜!!」と牢の中に聞き慣れない、大声が響いた。
ドドッドドっドドっと階段を何かが駆け下りてくる。
真っ黒な塊が凄い勢いでヒュダインが「デクのボー」と呼んだ、男に体当たりを
食らわせた。
「なんだ、貴様!」「お、俺はトナカイだ!」

ヒュダインの注意力は、一気にその喋るトナカイに奪われた。
すぐさま、その後に続いて、トナカイが駆け下りてきた階段を数人が同じ様に
駆け下りてくる足音が聞こえる。慌てて、床に倒れ込んだサンジに視線を走らせた。

「う、動くなトナカイ!動くと、この男の心臓を凍りつかせるぞ!」
自分の能力をフル稼動させれば、出来るかも知れない。だが、ここでサンジを
本当に殺してしまったら、首飾りの場所どころか、麦わらのルフィに殴り殺されてしまう。いくら、物質の温度を下げる事が出来たとしても、大勢の人間の体温や血液を
一気に、一度に下げる事など、いずれは出来たかもしれないが、今は出来ない。
(この窮地をなんとか、なんとか切り抜けないと・・・)と必死に頭を動かそうと
するが、既に目の前にずらりと並んだ、麦わらのルフィ、剣豪ロロノア・ゾロ、
僅か8歳にして賞金首となった伝説の女、ニコ・ロビンがいては、
こずるい頭では何も思い浮かばない。

「お前、表へ出ろ」麦わらのルフィはこぶしをバキリ、バキリ、と鳴らしながら、
ヒュダインに挑む様に鋭い視線を投げ、そう言った。
「ここでお前をぶっ飛ばしてえが、そんなに腰抜かした面してたんじゃ、」
「ただの弱い者イジメになっちまう」
「俺はお前をぶん殴らなきゃ、気がすまねえ」
「でも弱い者イジメは嫌だ」
「だから、お前の得意な寒い場所で相手になってやる」
「それとも、ネズミみたいにコソコソ、逃げるか」

寒い場所であろうと、絶対的な力の差は明確で、麦わらのルフィに勝てる訳がない。
だが、逃げるチャンスは作れるかも知れない。
ここで逃げる、と土下座をしたとしても、麦わらのルフィは許しても、リムも、
島の者も許さないだろう。
なんとか、逃げて、生き延びねば。その唯一のチャンスが「外で戦う」と言う
選択肢しかないのなら、それに縋る。
「判った」と精一杯の虚勢を張って答えた。

ヒュダインと、ルフィ、そして万が一、ヒュダインが遁走した時に備えて、
ロビン、ナミも一緒に外へと出て行く。牢屋には、ゾロとウソップ、チョッパーだけが残った。初老と男とリムは既にベスのところへ向かっている。

「サンジ・・・!サンジ・・・、聞こえるか?」

チョッパーはゆっくり、静かに静かにサンジに話し掛ける。
サンジの唇が僅かに動いた。

すぐにチョッパーは耳をサンジの唇に寄せる。
「大丈夫、ベスのところにはすぐに行くから」と答えたところ見ると、
サンジは「ベスお嬢さんのところへ行け」とでも言ったのだろう、とゾロは思った。
朦朧としながらも、ベスの事がよほど気掛かりだったに違い無い。

「ウソップ、ゾロ、良く聞いてくれよ」
「絶対に乱暴に揺すったり、体を擦ったりしちゃだめだ」
「静かに、静かに、呼び掛けて、内臓からゆっくりゆっくり温めるんだ」
「内臓から?どうやって?!」
チョッパーはベスのところへ様子を見に行こう、と立ち上がり、一番早く動ける
姿に変化して、二人にサンジへの処置の仕方を口早に説明し始めたが、すぐに
ウソップが遮ってしまった。
「肺と気道をまず、暖めて、この牢屋を出たところの小さな部屋に静かに
移すんだ。濡れた服を脱がせて、毛布に包んでから、部屋を暖めるんだよ、
絶対に急に温めたらダメだからね、やり方間違えたら死ぬんだから!」と言うや、
「頼んだよ、すぐに戻ってくるから!」と階段を駆け登って行く。

「ガチガチだ・・おい、サンジ、サンジ」と仕方なくウソップがサンジを
揺り起こそうと声をかける。「揺すんなっつってだろ!俺がやる、どけ!」と
ゾロはウソップを押し退けた。

「毛布取って来てくれ」そう言って、ゾロはサンジの凍りついて硬くなった
上着を剥がす様に脱がせた。そして、一瞬、上半身の皮膚のあちこちに傷があり、血が滲んでいるのを見て、息を飲む。
体の奥からヒュダインに対して、溶岩の様な熱い怒りが込み上げてくるが、
今はそれに飲み込まれている場合ではない。
ゾロは、傷の上にこびり付いた血を拭う事もしないまま、
冷た過ぎる素肌からこれ以上、体温を冷気に奪われない様に、
自分が着ていた上着で、サンジの体を包んだ。

血色の悪い頬を見ているとそれを擦って温めてやりたくなる。
だが、チョッパーは
「絶対に急に温めたらダメだからね、やり方間違えたら死ぬんだから!」と言っていた。

サンジの呼吸は細く、今にも途切れそうで、そして、自分の顔を近づけて
ゾロは初めてその息までがとてつもなく冷たい事に気付いた。

(だから、肺と気道か)詳しい事はよく判らない。
判らないが、ゾロはサンジの唇にそっと自分の唇を押しつけた。

(・・・この野郎っ・・・)自分が唇を押しつけるまでは薄く開いていた
サンジの唇が小刻みに震えて、閉じようとしている。
それは、ゾロに温められている、と判っている上での反応だとすぐに判った。
今、自分を抱いているのはゾロで、冷え切った
唇に心地良い温度の唇もゾロだと判っている。なのになぜ、その唇を拒むような素振りを見せたのか。深い眠りと、浅い覚醒と、低体温の進行が原因の錯乱でサンジの意識は
混沌としている。
だから、周りに誰がいて、誰がいないのか、どんな状況で何故、
今ここにゾロがいるのかなど何も判らないのだ。

ゾロには理屈にも状況分析にも頼らなくても、抱かかえているだけでサンジのそんな
複雑な行動とその理由も、まさに手に取るように、判る。

「俺一人しかいねえ。誰もいねえ、誰もみてねえから、口開けろ」
そうゾロは囁いて、今度はサンジが口を閉ざさない様に、唇の端を指で
押えてから、自分の唇を薄く開いたそこへ押しつけた。



ゾロは深く鼻から息を吸い、出来るだけ自分の体温で吸い込んだ息を出来る限り
温めてから、サンジの体の中へと吹き込む。

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