指が、先端の皮膚から少しづつ、何かに削り取られるかと思う程の痛みは
寒さ故の筈だった。だが、サンジは目の前の灰色一色の石の壁と子供くらいの
背丈の醜い男と、真っ赤に燃える炎の映像を交互に見ていた。

現実の映像と、ずっと心の中に咎めているケイの人生を飲み込んだ炎の映像が
低体温が引き起こす錯乱の最中、サンジにはそれらが交互に映し出されている。

ベスお嬢さんはどうなったんだろう?
ケイは何故、あんな死を選んだのだろう?
自分には何が出来ず、何が足りず、何をすれば良かったのだろう?
何故、ここにゾロがいるのだろう・・と、
支離滅裂な夢を見るように、サンジの頭の中では
たくさんの事項が交錯していて、けれども、それらを何一つ、最後まで考える集中力を保てない。

ただ、そうやってメチャクチャな思考でも途切れない様に意識を必死で保っていないと、
恐ろしいまでの強烈な眠気に飲み込まれそうだった。
それに飲み込まれたら、2度と目を醒ませない、そんな気がして
瞼を持ち上げようとしてはその重さに挫け、眠りの波に乗ってしまいそうになる、
何度もそれを繰り返して、息をする度に胸が痛み、何かに焼かれる様に
体中の皮膚がジリジリと痛んで、辛い。

唐突に、サンジは唇に温もりを感じた。そして、思わず吸い込んだ空気は、
突然、温かく、凍てついた喉を通り、体の中を吹き抜けていく。
頭の中には、ケイを巻き込んで、燃え盛る炎を、為す術もなく眺めていた夜の
映像が蘇った。
あの時、吸い込んだ焼けつく空気とは明らかに違う、心地良い温もりの空気なのに、
冷え切ったサンジの体にはその差を区別する事が瞬時には出来なかったのだ。

ケイを(死なせたくなかった)と言う悔恨が混沌としている筈のサンジの意識、
サンジの心を抉る。閉じている瞼からその雫だけがとても温かい涙が
零れ落ち、口移しに胸の中へと優しく吹き込まれる空気と同じ、温かさを
感じる指先がその雫を拭った。拭われても、柔らかく頬を覆うように
濡れた頬を擦られても、勝手に涙は溢れて来る。

2度と会いたくは無いと思った、
サンジにとっては、ケイに対してそう思う事だけでも罪だった。
そう思わなければ、そして、それを口に出さなければケイを追い詰める事もなく、
自分もどうにかして、ケイを助けようとしていた筈なのに、
くっきりと跡を残すほどの傷の痛みと再び向き合う事から逃げた所為で、
自分を含めて、誰一人救う事が出来なかった。
(もう一度、あの時に戻れるなら)とサンジは叶わない願いを夢の中で想う。

現実では起こりえない事でも夢の中でなら、叶う。
見ている者がそれを現実だと思えば、夢はただの夢では無くなる。
悔恨の涙が枯れた後、穏やかな温もりに抱かれている事さえ自覚出来無いまま、
サンジは過去の記憶の中を漂う。

窓と言う窓から真っ赤な炎がガラスを熱風で突き破り、それぞれが
小さな竜巻のような黒煙をあげながら、渦を巻いて燃えあがり、轟音を立てて、
徐々に崩れて行く屋敷が目の前にある。
炎の輻射熱さえサンジの記憶に焦げ付いていた。

喉が焼けそうな空気に手で顔を翳しながら、サンジは必死でケイの名前を
叫ぶ。炎が立てる熱風が鳴る凄まじい音と家屋が崩壊するバリバリと言う耳触りな
音に邪魔され、自分の声が自分の耳でさえ聞き取れない。
(違う、声が出てねえんだ、)言葉を出せない者の様に、何かに喉を塞がれて
サンジは叫んでいたつもりなのに、声が音になっていない事に気づく。

声が出せないのなら、体を動かすしかない、とサンジは走り出そうとする。
その足もとは重く、不思議な事に雪で埋まっていた。
冷たくも無く、炎にも解けない優しい雪が空から降って来る。
それはサンジの肩に少しづつ、少しづつ、降り積もり、
熱を奪うように、目の前の赤と黒しか見えない、惨状の燃えるケイの館の姿を
サンジの目の前から白く、薄い膜を重ねて覆い隠して行く。
空から舞い落ちて、どんどん積もる雪の中には氷の粒が光っていた。
サンジはまだ、雪が遮った薄膜の向こうにケイを助けに行く事を諦めず、
足を踏み出した。真っ白な霧の中を歩く様に、サンジは数歩歩く。
向こうから、足を引き摺る人影が見えてきた。

(ケイ)だ、とすぐに判った。
身につけた服にはまだ炎が纏わりついている。
髪の先端にも小さく炎が燃えていた。
けれど、サンジに近付くにつれ、その炎は雪が作り出す霧に溶けて、
消えてしまう。一歩、一歩、ケイがサンジに近付く事に、燃え掛けた人形のような姿が
時間を巻き戻す様に艶やかに、瑞々しい姿へと変わって行く。
ただ、何も考えずにその経過をサンジは見つめる。
その時、サンジは自分が夢を見ているとは感じなかった。
全てが現実だと思えた。
心の咎が許されたいと言う願望ゆえの幻想が見せた夢だと思えない、
それほど、リアルに感じられた。何もかも温かく、寒さなのか、熱さなのか、
それから自分を守ろうと強張っていた体から、全ての力が抜け切っていた。

今、目の前に、皮膚に、この体に感じる全ての感覚を信じられる。

ケイの体にも、自分と同じ優しく煌く雪が降り積んで行く。
二人とも、それを払い除ける事もなく、言葉を交わしもせず、温かな雪に
抱かれるに任せて、向きあったまま佇んでいた。

ケイが深く、ゆっくりと瞬きをする。煌く氷に飾られた睫毛がとても美しい、
言葉ではなく、サンジは感覚でそう思った。

私を忘れないで

ケイの唇がそう囁く。
私達の傷を忘れないで、全てを受け入れてくれる人を見失わない様に

(全てを受け入れてくれる人を?)
(見失わない様に?)

初めて聞くケイの言葉をサンジは繰り返す。
誰の事を言っているのか、とケイに聞こうと口を開きかけた時、
ケイの体が透けて輝いた。
まるで、その体に降り積んだ温かな雪と同じに、不思議に温かそうな、触れても
刺すような冷たさではない優しい氷像の様だった。

透けて輝くケイはサンジが問い掛けた、その答えを教える様に黙って空を
空を見上げる。
サンジもその視線に誘われる様に真っ白な空を見上げた。
温かな雪がハラハラと舞い落ちてくるだけだ。
サンジの全てを包み込む様に。

その雪は温かく、ケイの体を包んで何時の間にか溶かしてしまったのか。
それとも、包み込んで氷の粒に変えてしまったのか、サンジが我に返った時には、
見渡す限り、ただ、白い世界に一人きりになっていた。
一人きりなのに、酷く安心している。自分でも不思議な程だった。

さっきまで感じていた、耐え難い痛みも何時の間にか、温かな雪が全て包んで
消し去ってくれた。替わりに、体の隅々まで心地良い温もりが広がっている。

(もう、大丈夫だ)眠っても死なない。悪夢でうなされる事も無い。
全ての苦しみは、この雪に抱かれている間に消えてなくなったのだ。
そう思ってサンジは眼を閉じた。真っ白な夢の中で深い、深い穏やかな眠りに
落ちて行った。


「どうだ?」
「ああ、大分、落ち着いたみてえだな」

ウソップがゾロを背中ごしに覗きこむ。
ゾロはすっぽりと毛布に包って、顔だけを出して床に座っていた。
その胸には、サンジが目を閉じ、体を預けきって眠っている。

「ベスがこの島じゃ危ないって言うから、チョッパーは向こうの島に
行っちまった時はどうなるかと思ったけど、どうにかなるモンだな」と
ウソップは大きな安堵の溜息をついた。
「お前がチョッパーの言った事を全部、覚えててくれたからな」
「俺一人じゃいきなり風呂沸かして、こいつを放り込んでたかも知れねえ」とゾロは
大真面目にそう答える。
「サンジの目が覚めたら、すぐにヌルイ風呂に入れて、指とか足をゆっくり揉め、とか
言ってたから、そろそろ、用意しといた方がいいか?」と
ウソップは、小さな紙切れを見ながらゾロにそう尋ねた。

ゾロはゆっくりと立ちあがり、ズルズルと毛布を床に引き摺りながら、
サンジを横たえる為にウソップが設えた、この城砦にあった布を集めて作った
寝床にサンジを寝かせた。
自分が包っていた毛布でサンジを包み直すと、
まだ急激に温められない所為で、その部屋の気温は低く寒いらしく、
慌てて、自分の服を身につけた。

「この首飾りって結局、なんだったんだ?」

サンジが昏睡している間、ウソップとチョッパーは首飾りを探し出した。
チョッパーの鼻を使えば、他の獣の匂いのない雪の中でサンジの匂いのするモノを
探し出すのは簡単な事だった。
ベスに返すのは、サンジの手からの方がいいだろう、とゾロはそれをとりあえず、
サンジの首に戻したので、ゾロはサンジの側に座って、首もとの首飾りだけを
指で摘んでウソップにそう尋ねた。

「なんか、ロビンが言ってたけど、お前に理解出来るかねえ?」と
ウソップはゾロを完全にバカにしたような目つきをしてそう答える。
「だったら、俺でも理解出来るように言えばいいんじゃねえか?お前、頭いいんだろ」とゾロは皮肉なのか、本気なのか判り難い口調でそうウソップの自尊心を軽くくすぐる。

「まあな」とウソップはふんぞり返って話し始める。
「なんでも、その首飾りの紋様はほら・・・ロビンしか読めねえ字で書かれてある
暗号になってるんだと。その暗号を解読して、あの島の宝とか言う
なんだったっけ・・・」とウソップが自分の記憶が曖昧になった時点で首を捻ると、
ゾロが自分の知り得ている情報からその答えを教える事で相槌を打つ。
「雪の真珠、だ」
「そう、それ。それを使って、暗号の示す物質と暗号の示す方法でその真珠とを
合成させると、物凄い毒素の強エ毒ガスが作れるんだってよ」

「毒ガス?」「その解毒剤の作り方が王冠とティアラのどこかに、それぞれを
一対にして初めて意味が判る様に刻まれてるそうだ」
「だから、首飾りも王冠も、ティアラも、この島にとっては誰にも渡せない、
でも、無くす事も出来無い宝として守らなきゃならなかったって訳だ」

「良く、そんなことを俺達に教えてくれたな」とゾロはウソップの話しを聞いて
溜息をついた。ふと、外を見るともう夜もとっぷりと暮れている。


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