狂った様に雪の粒が混じった潮風が吹く夜の海を船は大きく揺さ振られながら
進んでいる。「このままじゃ、マストが折れるぞ!帆をおろせ!」と誰かが怒鳴った。
だが、すぐに別の男が怒鳴る。
「港までもちゃあいい!帆を降ろせば、船足が落ちる、マストがへし折れようが、出来る限り早く船を進ませるんだ!」一旦、帆を降ろそう、と準備をはじめた漁師が
その声に大きく頷く。自分達を逃がしてくれた一人の海賊と、そして自分達の島の
誇りとも言える、可憐な一人の娘を助ける為に男達は、彼らが奪った船の最大速度で
自分達の島を目指した。

船が傾いで被る波の冷たさは、動き回って汗ばむほどの体に降りかかって、ほどなく
それは汗と混じって湯気になる。
「信号弾がどこかにある筈だ、探せ!」出来るだけ早く船を進ませる、と指揮を取っているのは、牢屋の中でずっとベスの事を気にしていた初老の男だ。
サンジがどことなく、ゼフの面影を見出した、ただ、年齢が近く、髪の色と恰幅が
似ているから、どうしても助けたいと思った、あの男だった。
そして、自分達の船が味方である事を示す合図として信号弾を空に向かって打ち上げる。

「今、爆発音がしなかった?」

夜だから、船が出せないから、と言って落ちついて眠ってなどいられない。
麦わらの一味も、体が動かせる状態のリムの仲間達も皆、港から動かずにいる。
ぴゅうぴゅうと甲高く哭く様な声で吹く海風の中にかすかにチョッパーの耳は
確かに微かな爆発音を拾った。

「爆発音?」チョッパーにそう言われて、ナミが真っ暗な沖合いに目をやる。

じっと目を凝らすと、花火のように真っ赤で、細い閃光が漆黒の闇の中に一筋
光った。僅かな時差の後、ナミも爆発音を聞く。

「あれは、・・・船だわ。こっちに向かってくる」
救助を求めているのではなく、降伏を示しているのでもない。
自分達は敵ではない、と言う印の信号弾だった。

「サンジ君達かもしれない」そう言ってナミはすぐに双眼鏡を構えた。
「あの船がここに着いたら、すぐに行くぞ、ゾロ」

ナミがその船の中の様子を探り、そして判断を下す前にルフィは
毅然とした口調でそう言った。

「おう」向こうの戦力がどのくらいなのか、などゾロとルフィにとってどうでも
良かった。船の1隻さえあれば、敵地に踏み込める、それが出来ないもどかしさに
これ以上、手をこまねいてはいられない。
ゾロは短く答えて、まるで風に揉まれる落ち葉の様に頼りなく、それでもまっすぐに
進む船を目に捉えてからその船から目を逸らさずに短く答えた。

(あの船にあいつは)乗っているのか、いないのか、一刻も早く知りたかった。
自分達が攻め込んで来ないのに痺れを切らしてさっさと脱出して来たのなら、
それでいい。だが、もしも乗っていなかったら・・・と言う不安が。
何故か、ゾロの胸の中で浮かんで消えない。船が近付いて来るに連れ、その不安は強くなる。船は逃げて来たのだ。こんな夜、危険な荒い風と波の中、危険を犯してまで
突っ走ってこなければならないほど、切羽詰まっていたに違いない。
もしも、敵をサンジが叩き伏せて、人質の安全を確保出来ていたら、波と風がおさまり、
潮の流れも最も安定した時間に安全に帰ってくればいい。
わざわざこんな危険な海に船を出す必要性などない筈だ。
その事を考え合わせれば、今、港を目指して速度を緩めた船は明らかに
逃げてきたと見ていい。

ゾロが頭の中でその答えを弾き出した時、探さなくてもその船の中には
絶対にサンジはいない、と気づいた。
ふと、ルフィの横顔を見ると、目に力が入り、キュ、と口元を引き締めている。
(敵に後を見せて逃げてくるヤツじゃない)とルフィも知っている。
さっきからゾロの胸に中にあった不安は、思ったとおり敵中していた。

港にその船が着くと一斉にその船の周りにそこにいた誰もが駆け寄った。
「親父、親父はいるか?!」だの、「あんた、無事なのかい!」と人質を案じていた
者達が口々に叫ぶ声、そして無事に生還出来た事を一刻も早く家族に伝えようと
船で帰ってきた男達も一斉に口々にわめき始める。

「ちょ、ちょっとサンジ君とベスがいないわ!」「ナミ、」

どうにか現状を把握しようと必死でナミが人を掻き分け、掻き分け、船に近付いて
なんとか人質だった男達に話しを聞こうとするも、皆、自分の事や家族の事で
頭が一杯で誰もナミの質問になど耳を貸さない。
ヒステリックな声でナミがルフィに顔を歪めて叫ぶと、そんなナミとは対照的に
ルフィは落ち着き払った声で静かにそうナミに声をかけた。

「すぐに船を出す。準備をしろ。この船を動かすのに俺達だけで足りるか」

そう言われてナミはサンジが奪った船を素早く見回す。
舵、マストの本数からすぐに答えを弾き出す。「二人、足りないわ」

「じゃあ、リム、あと一人は」ルフィが冷静な声でリムを名指しし、それから
周りをぐるりと見渡した。
「麦わらの船長、」初老の男がルフィの視線を引き寄せよう、と大声でルフィを呼ぶ。

「俺が案内する。すぐに船を出すんだろ?」
「親父さん、あんたは今、逃げてきたばかりじゃないか、体を休めないと」

リムがそう言って初老の男の無茶だとも思える申し出を嗜めた。
だが、男はリムに向き直る。必死の形相だった。
「あの男は俺達を逃がして、ベスお嬢さんを守る為に盾になってくれたんだ。今頃どんな酷い目にあってるかを考えるとじっとなんてしてられないんだ、若頭」
「どこに閉じ込められてるか迷ってる間に取り返しのつかないことになったら」
「後悔してもしきれない」

「行くぞ、船に乗れ!」最後まで話しを聞かずにルフィはそう怒鳴った。
「ゾロ、碇をあげて、ロビン、ウソップ、チョッパー、帆を張って!」
「もうすぐ風が変わるわ、その風をつかんで一気に進むから早く!」
「リムは舵をお願い!」ルフィの決断の言葉を聞いてすぐにナミが指示を出す。
船はものの10分と経たない内に再び、少し白み始めた空の下、だがまだ今尚暗い
海に漕ぎ出した。

「仲間に氷づけの死体を見せたくないなら、さっさと吐いてしまえ」と言うヒュダインの言葉をサンジは鼻で笑った。
「俺の氷づけの死体なんか見せてお前が無事でいられるとでも思ってるのかよ」
だが、息を吐き、そして吸えば喉の粘膜が凍て付く。思わずサンジは軽く咳込んだ。

「フン」サンジの体から体温がどんどん奪われて行くのを見てヒュダインは楽しげに
目を細めた。
「どっちにしろ、麦わらがここに攻めて来たところで」
「お前とベスお嬢さんがこちらの手の内にあるうちは圧倒的に我々が有利だと言う事が
わからないようだね」と言い、ニタリと薄気味悪くサンジの顔を見て笑う。

「能力者になったのは最近だからまだ有効な使い方を研究中なんだ」
「色々試すいい機会だよ」
そう言って、ヒュダインは常にヒュダインの側にいる大男に目配せをした。
男は黙って頷き、いくつか牢の外に用意してある樽をおもむろに持ち上げる。

「床に向かって叩き付けろ」ヒュダインはそう言って顎で床を示す。
「ふん!」大男の気合の篭った声をあげ、頭上に高だかと持ち上げられた樽を渾身の
力で床に叩き付ける。バキ!ともグシャ!ともいい難い、耳障りな騒音がして、
中味の水を飛散させ、樽は木っ端微塵に粉砕される。

小さな水飛沫が瞬時に硬く、鋭利な氷の粒になった。
飛散のスピードと普通の氷とは比べ物にならないほどの硬度に結晶した氷の粒が
サンジが放り込まれた牢屋の中で爆発したかの様に弾け飛ぶ。

(・・・くっ!)

冷えて体が上手く動かない、が、避けないと目を潰される。
そう思ってサンジは自由になる足で氷の粒を払い落とした。
だが、想像以上に硬く、鋭い破片となった氷の粒はサンジの足に食いこみ、そして体温で溶け、血液の熱さに混ざって白い湯気を立てた。


「こんなショボイ拷問で海賊を締め上げようなんて甘エんじゃねえか、チビスケ」
サンジはそう言ってせせら笑おうとした。だが唇が震えて言葉が出せない。
こんな怪我など痛くも何ともない。
それよりも指先、肌蹴た胸の皮膚がキリキリと痛み、サンジにとっては
体が穴だらけになるよりも手が凍傷で腐り落ちてしまう方が恐ろしかった。
けれどもそれを口にも態度にも絶対に出せない。こんな格下の田舎海賊相手に
そんな怖れを抱く事自体、自分でも腹立たしい。

「こんなのは能力のごく一部だよ、コックのサンジ」
「水を凍らせるだけが能力じゃない。この能力の本当の力は、物質の温度を下げる事が出来る事だ」
「例えば、人間の体温を下げる事だってやれる」
「凍傷を負わせずに人を凍死させる事なんて簡単だ」

(なんだと)サンジがヒュダインの言葉を理解するより先、また樽を大男が
持ち上げるのが見えた。
咄嗟に氷を粒を警戒してサンジが身を硬くする。
ヒュダインはそんな様子を面白そうに口元を歪めてニタニタと笑っていた。

「バシャ!」
サンジは頭から冷水をぶっ掛けられ、全身ずぶぬれになる。
途端、サンジの意志と関わりなく、肩先の筋肉が硬直しブルブルと震えた。
唇も勝手に戦慄き、歯がカチカチと鳴った。

前髪に伝って滴り落ちる雫が瞬く間に凍りつく。

氷の粒、水、・・と不規則な繰り返しでヒュダインはじわじわとサンジの体に穴を
あけ、そして冷やし、氷つかせ、また水をかけて溶かした。

極端な寒さが全身に痛みとして伝わる。
その痛みにサンジはだんだんワケが判らなくなった。
寒イ、冷てえ、手が痛い、指の1本1本に針金が突き刺さるような痛みに
歯を食いしばっても、正気を保てなくなってきた。

熱いのか、寒いのかも判らない。
自分がナニを見ているのか、ナニを見るべきなのか、視線が定められない。
牢の外にいる二つの人間の影がボンヤリと見えて、揺れている。

いつしか震えも止まっていた。

炎に巻かれた時の様に息が苦しくて、目を閉じる。
苦しいでしょう?死ぬのは苦しい事でしょう?と囁く声が耳を過った。

誰の声だろう、とサンジは思い出そうとする、そうしてでも意識を止めないと
本当になにがなんだか判らない内に死ぬかも知れないと、思った。


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