「まあ、そんなモンだ」とゾロは軽く答える。
「ちょっと飲み足りなかったんでな」

(ナミが言ってたベスって、この女か)とゾロはちらりと見た。
なるほど、ロビンが言っていた印象のとおりの女性だと思う。

「あの」とそのベスがリムの隣から遠慮がちに声を掛けてきた。
ゾロとサンジは同時にその方向へと顔を向ける。

「私、この島の長の娘でベス、といいます」
「さっき、ナミさんやロビンさん達にはお会いしたんですが、まだ、麦わらの
船長さんにもご挨拶していなくって、失礼しました」とリムよりも前に出て、
ゾロとサンジに深深と頭を下げた。

「海賊相手にそんなに行儀良くする必要はないですよ、お嬢さん」と
サンジがベスに向かって微笑む。お嬢さん、と言うけれど、明らかにベスは
サンジよりも年上だ。

「サンジさん、ですね」とベスはサンジの笑顔に気が解れたのか、
品の良い笑顔を浮かべた。「海賊のコックって感じじゃないとは伺ってましたが、
本当ですね」
「誰がそんな事を」とサンジも愛想良く尋ね、それに対してベスも
「ナミさんもロビンさんもそう仰ってました」と答える。

リムとベスは信用出来る人間だ。
ゾロはサンジと会話を弾ませるリムとベスを見てそう確信した。
それは理由や理屈ではなく、ゾロの直感だ。
少なからず、自分達に危害を与えようとしている人間にはなんらかの後ろ暗さがあり、
それを隠そうと無駄口を叩いたり、妙に晴れやかな態度だったりするのだが、
リムにもベスにもそんな素振りは全くない。
二人の目の中に必死になって生きている証しの様に、冴え冴えとした綺麗な光りが
宿っている。それが、ゾロには見えるから、自分達は利用されると言う立場なのに、不快さや面倒だと思う気持ちを抱かせないのだろう。

「どうして、こんな夜中に?」と何気ない会話の流れからベスがサンジにそう尋ねる。
「ちょっと、眠れなくて」とサンジは曖昧に笑って答えた。バカ正直に答える気はないが、会話の流れを滑らかにする為に軽薄に聞こえそうな程軽く、サンジはそう言った
だけなのだが、「怖い夢ばかり見るもので」と茶化す様にサンジが笑って言うと、
ベスは「まあ」と心底、気の毒そうな顔をした。
別に深い意味は全くない。いつもの女性の興味を引くようなサンジの話術だと
判っていても、ゾロにはサンジの、その何気ない言葉を聞き流す事が出来なかった。
けれども、やはり口に出す事が出来ずにただ、(やっぱり、あの1件の所為か)と確信するだけだ。

「それなら、これをお貸しします」とベスは真っ白な毛皮の縁取りがついた
黒いコートのボタンを手早く外す。そして、寛げた胸元にぶら下がっていた首飾りを
サンジに手渡した。大ぶりな、銀の縁取りには細かい細工が施され、真ん中には
大きな燃える夕日の様に見事な紅色をした宝石が嵌められている。
「あの、これは」とサンジがベスの行動を訝しく思ってそう尋ねると、
「これは悪夢を吸い取る呪文が篭められている首飾りです」とベスはにっこりと
微笑んだ。「この島の人は眠る前に必ず身につけるモノなんです」
「へえ」とサンジはその首飾りをマジマジと見つめる。
(この島は、そういう類の信仰が根付いているんだな)と思いながら見つめていると、
「お腹の中に赤ちゃんがいる時から、母親が作るんです」
「赤ちゃんが怖い夢を見ても、泣かない様にって」「ベス」
嬉しそうにその首飾りの由来を話すベスにリムが戒めるような声で、
サンジとベスの間の会話に割って入ってきた。「あれは、お母さんの形見だろう」
「そうよ、効果てきめんよ」とリムの言葉に少しも動じる事無く、ベスは笑顔を
浮かべたままで、「きっと、今夜からぐっすり眠れますわ」とサンジに言い、
手持ち無沙汰そうにいつまでもその首飾りを握ったままのサンジに近付いて、
そっと首飾りを首から下げてくれた。

「そんなモンで眠れるワケねえよ」

リムとベスと「また、明日」と言う挨拶を交わして別れた後、ゾロは憮然と
そう言ってふて腐れている。首飾りなんかでサンジの心の傷が塞がるくらいなら、
この島中の首飾りを全部、かっぱらってきてやってもいい、とさえ思うが、
実際、そんな迷信など一切信じる気にもならず、誰に対してなのか、全く自分でも
判らないが、腹を立てることしか出来ない。

「いや、どうかわからねえぞ」とサンジは雪明りの下、庭にある今は凍りついている
噴水の縁に腰掛けているゾロの隣に座って、首からぶら下がったそのどこか
仰々しい首飾りを眺めている。
「大事な形見の品を貸してくれたんだ。初対面の海賊に」
「そんな事、誰にでも出来る事じゃねえよ」と言って、シャツの下へ
その首飾りをしまった。
「俺にも、この島のゴタゴタに首を突っ込む理由が出来たな」
「この首飾りを貸してくれた、お礼だ」

端からサンジはこの首飾りの効果など信じていない。
それはゾロにも判っている。
それでも、なんとなく、不愉快だと思うのは、今の自分の心の中には、
全く矛盾する二つの感情がゴチャゴチャと混ざっている、その所為だ。

サンジがケイの悪夢に魘されなくなり、ぐっすり眠れるようになって欲しい。
だから、ベスの首飾りの効果が少しでもあればいい、と思う。
しかし、それに相反する様に、自分が側にいて何も出来なかったのに、
会ったその日に首飾りを貸してもらった、と言うだけでサンジを縛っている
悪夢の鎖を断ち切る事が出来たとしたら、あまりに自分は無力だとゾロは思い知って、
きっと、物凄く、ミジメな気分になってしまう。
そんな想いをするくらいなら、あんな首飾り、なんの効果もなければいい、とも
思う。

そして、(俺ア、案外肝っ玉が小せえんだな)とゾロは自分自身でも知らなかった自分の
本性に気づく。
サンジが誰かに傷つけられるのは、もちろん、嫌だ。
だが、その傷ついたサンジを自分以外の誰かが癒すのは、それ以上に嫌だ。

サンジは寝床に横にならず、窓辺のソファにシーツを羽織った格好のまま、
腰掛けて、外を見ている。
「まだ、寝ないのか」とゾロは誰も起こさない様にそっとサンジに声を掛ける。
外で、瓶に残った酒を飲んだくらいでは、寝酒にもならなかったのか、
後数時間で夜が明けると言うのに、サンジは眠ろうとさえしない。

「ああ」とサンジは短く答えた。
「眠くなりゃ、ここでも眠れるだろ」
「横なるから熟睡して夢を見る。だったらいっそ、うたた寝程度でいい」

それを聞いて、ゾロは静かに体を起こし、足音を忍ばせてサンジに近付いた。
そして、当たり前の様に隣に腰を下ろす。
少し、体が触れただけでサンジはすっ・・とほんの僅か、体を避ける様にずらしたのが
判った。「あの首飾り、貸せ」「あ?」

ゾロの唐突な言葉に窓の外を眺めていたサンジが訝しげな顔で振り向く。
「あれは俺がベスお嬢さんから貸してもらったモンだ」と言うサンジの言葉を
最後まで聞き終わる前にゾロはもう一度、「貸せ」と言った。

「なんでだよ」とサンジは小声でゾロの理解不能な行動の理由を迷惑そうに
尋ねるが、ゾロは素直に自分の気持ちを口に出せないし、また、サンジに理解出来るように無駄なく、簡素に説明できる自信がないので、強引な理屈を捏ねる。
「なんででも、だ。お前の首飾りがヤキモチを妬くかも知れネエし」
「それに、二つも首飾りをぶら下げてて邪魔だろうが」
当然だが、それを聞いても、サンジは疑わしそうな目を向けるだけだ。
サンジの首にはいつも蒼い「海の雫」がぶら下がっているから、確かにゾロの言う事は
一見理に適っているかの様に聞こえるが、「余計なお世話だ」とボソリとサンジに
言い返されるともう、それ以上の理屈を捏ねられなくなった。
「そんな首飾りがホントに効くとは思えねえし」と、本音を言うしか、サンジから
赤い首飾りを受取る方法が無くて、ゾロは仕方無く、そう呟く。
サンジは黙って、首からベスから借りた方の首飾りを外した。そして黙ったまま、
ゾロの掌に押し付ける。その手はひんやりと感じるほど冷たかった。
「判ってねえなア」とサンジはゾロの手を見つめて、自嘲気味に微笑み、溜息を
つく。
「お前にそんな風にされると今は却って辛エんだよ」
「自分だけがあったかい場所にいるみたいで、居た堪れなくなる」
「慰めて貰って、楽になりたいって本音を押えるのが辛くなるってのに」
「なんにも判らねえままで、俺に気持ち押し付けてくるんだな」

サンジの言葉がゾロの胸に刺さる。
「お前エこそ、なんにも判ってねエ」とゾロはそれでもいい返した。

「お前が望もうと望まなかろうと、俺はお前が痛エと思ったら俺も痛エって感じるんだ」
「お前が悪イ夢見て苦しいんなら俺も苦しい」
「お前が、あのケイって女に対して居た堪れねえって思うのはお前の勝手だ」
「でも、お前の所為で俺も苦しいのは、どう始末つけるんだ」
「え」とサンジは思いも寄らなかったゾロの理屈に唖然として短くそう言って
不思議なモノを見るような目でゾロを見た。
「やりたい事をやってるだけでお前にとやかく言われる筋合いはねえ」
「俺はやりたい事をやれば、気が済むんだ。その所為で辛くなるって言うなら」
「俺のやってる事なんか、気にしなけりゃいい。黙って見過ごしてればいい」
「それくらい、出来るだろ」

そう言いながら、ゾロは自分の首にベスの首飾りをぶら下げた。
サンジはゾロの言葉に応とも否とも言わずに、黙ってソファの上でゆったりと
体の力を抜いて瞳を閉じる。

「どけよ。そんなトコにいたら横になれねえし、朝ナミさん達にヘンに思われる」と
サンジはゾロの腹をじゃれる様に軽く蹴る。
ゾロは床に移動して、サンジの真正面にひざまづく格好になりつつ、ごく自然にサンジの
冷たい手を握った。

息を温めて、両手に包む様に握ったサンジの手に吹きかけ、そして、手の甲を掌で擦る。
少しづつ、自分の体温がサンジの手に沁み込んで行く様にサンジの手が温かくなって来る。
サンジはそのゾロの行動を咎めもせず、手を振り解くこともしなかった。

「湯に浸かってるみてえだ」と呟き、ほどなく、サンジの寝息が聞こえてきた。

優しくしたい、と言う気持ちを行動にするだけでこんなにも回りくどい。
それでも、素直で無い分、自分の気持ちを受け入れてくれた時、理解してくれた時
一際嬉しい。

サンジはどんなに自分が苦しくてもそこから抜け出す為にゾロを頼ろうとは決してしない。
だが、ゾロがお前の所為で苦しい、と訴えたら甘える振りをしてそれを受け入れた。

ほんの束の間の浅い眠りでも、自分の温もりがサンジを穏やかに眠らせる事が出来た事でゾロの抱えてきた、もどかしい苦しさは今だけ消える。

赤い首飾りの効能よりも、胸から吐き出した吐息の様に熱い空気と自分の体温の方が
確かだったに違い無いと思いながら、ゾロは雪明りにぼんやりと照らされたサンジの寝顔を
見つめ、指で少しだけ雪の湿り気で重たそうに額にへばりついていた髪を撫でた。


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