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原淳一郎+中山和久+筒井裕+西海賢二『寺社参詣と庶民文化』岩田書院 2009(2010.01.25読了)
 人は、何ゆえ巡るのだろうかと素朴に考えてしまう。信仰心という言葉で済まされるものではないだろうし、そもそもそんなな信仰心があるのかも疑問だ。自分自身の感覚で言うならば、信仰心があるから参詣するのではなく、その場所に行くことによって、何かを信じるという思いに少し触れれるような気がする。場所が持つ何かがあるのだろうとは思う。あるいは、移動すること自体にも確かに快楽がある。周りの空間が変化し続ける感覚、そんな感覚を時折求めたくなる。巡ることはある種本能が求めることなのだろうか。逆に、一つの場所に居続けることは、困難なことなのだろうか。巡る意味を考えるのに巡らない人を考えることが必要なのかも知れないとふと思った。
加藤政洋『神戸の花街・盛り場考』神戸新聞総合出版センター 2009(2010.02.17読了)
 まちがどのようにして成立していくのかを見ていくのはなかなか面白い。現在の風景を見ながら過去の風景を考える面白さ。さらにはここからどのように変化していくのかを考える面白さもある。都市の風景とは、まさしく変化する風景で、今の風景すらどんどんと変化する固定されない風景である。問題は、そんな時間の流れを、如何に文章で表現するかだろう。特に歩いたことのない風景を文章だけでイメージをするのは難しいし、地図があれば、それでいいわけでもない。こういって研究を上手くもっと上手く表現する方法があればいいのにと思ってしまう。
小杉泰・長岡慎介『イスラーム銀行』山川出版社 2010(2010.03.16読了)
 イスラームは、相変わらず日本ではなじみが薄く、ただ単に過激派が怖いというイメージしかないが、やはりもっと冷静に見つめる必要があるだろう。そういった意味で無利子銀行について知ることは、確かにイスラーム思想の根本を知ることの助けになるだろう。日本人からすると宗教と経済は全く違う次元の話に思えるが、それはやはり日本人が宗教音痴なだけなのだろう。経済のあり方も当然、信念・信条に影響される。日本人には理解しがたい無利子というあり方は、少し違う視点から眺めてみれば、何か可能性のある面白いものとして見えてくるのではないだろうか。
高橋真名子『近江古事風物誌』河出書房新社 2009(2010.03.26読了)
 近江という国は、真ん中に琵琶湖がある性だろうか、どうも一つの決まったイメージで捉えることが出来ない。自分の中の近江のイメージはなんだかいつもぼやけているような気がする。というか、焦点をあわせようとすると結局琵琶湖だけになってしまうような気がする。もちろん、すぐ近くなのに、自分が、実際あまり歩きにいっていないだけだとは言えるのだが、こうした近江の風景を描く書物に出会うと、そこでは様々なイメージが交錯していき、もっともっとこの国をこのまちの風景を知りたいと思う。琵琶湖に流れ込む以前の様々なイメージのかけらがそこにはあるのだろう。
川上未映子『六つの星星』文藝春秋 2010(2010.04.22読了)
 川上未映子の文体というかリズムは、刺激的で面白いのだが、それ以上に、描き出す世界も刺激的だと思う。不思議な感じと共感できるような思いが入り乱れ、その世界をどう語ればいいのかと思ってしまう。学者などとの対談集ということもあり、上手く捉え切れなかったところを上手く表現してくれていて、なかなか面白く読むことが出来る。ただ、小説だけでは捉え難い川上未映子を少しわかった気になるが、それはそれで川上の書く文学とはまた違った話なのかも知れない。
飯田道夫『猿まわしの系図』人間社 2010(2010.04.24読了)
 最近では、テレビでもよく見られる芸ということもあり、猿まわしが一時期途絶えていたということを聞くと驚いてしまう。あまりその出自を考えはしなかったが、なんとなく古くから伝わるしっかりとした芸のように思っていたが、やはり他の伝統芸能と同じように衰退の中から新しく作り出されていったものも多いのだろう。問題は、それが新しいかどうかではなく、何を背景に持っているかだろう。解説で中沢新一は「はじまりの哲学」と表現しているが、サルと人との関係性、あるいは、差別の問題など、そこにあり続けた精神性は常に問題となるだろう。たぶん、もっとその精神性を積極的に描き出していく必要があるのだろう。
櫻井義秀『死者の結婚』北海道大学出版会 2010(2010.05.31読了)
 人は死者の幸せを願わずにいられない。ただそれだけのことなのだろうと思ってしまう。そう考えると、少なくとも以前の社会では、結婚が幸せの大前提にあったと言えるだろう。逆に結婚が人の幸せを保証してくれない社会では、人々は死者に何を願うのだろうか。
澤宮優『昭和の仕事』弦書房 2010(2010.06.30読了)
 職人がいなくなったということは、よく言われる話であり、プライドを持った職人が減っていく現状は、確かに悲しむべきことで、ある意味日本文化が薄っぺらくなっているのかも知れない。しかし、減ったのは職人だけではない。様々な昭和時代にあった仕事が、なくなっているようだ。特別な技術がいるわけではないありふれた仕事。そんな仕事すらどんどんと減っていき、仕事のあり方自体の幅が、どんどんと狭くなっている。果たして仕事とは、何なのだろう。人は生きていくために何をしなければならないのだろうか。豊かさとは何かということも含めて、失われた仕事のああり方をもう一度見つめなおす必要があるのだろう。
畔柳昭雄『海水浴と日本人』中央公論新社 2010(2010.07.31読了)
 島国である日本に明治以前に、海水浴などなかったということは、本当に驚きだ。海水浴を「うみみずゆあみ」と読んだという単純な事実などからも、当たり前のことを考えなおすことが、どれだけ重要なことか改めて思ってしまう。「うみみずゆあみ」と読んだことからも、海水浴が単なるレジャーではなかったことが、わかるが、そもそもレジャーの多くが、医学的な問題から派生していると言えるのかも知れない。メディアの問題も含め、一つのある種のブームが変容し、落ち着いていくき様を丹念に見ていくことが、民俗学に求められているのだろうと思う。
早川タダノリ『神国日本のトンデモ決戦日記』合同出版 2010(2010.08.31読了)
 戦中の日本のあり方をトンデモ本としていとして紹介するというわかりやすいスタンスなので、ある意味、面白みにかけるという面があるが、そこに示された資料を見るだけでも十分に面白いといえるだろう。漠然とした戦中日本のイメージを覆させるだけのものは十分にある。いっその事、文章はなくてもいいから、もっと多くの資料を載せてもらいたいと思ってしまう。
高原至・・・写真め/横手和彦・・・文『長崎 旧浦上天主堂』岩波書店 2010(2010.09.30読了)
 こんな言い方をしたら失礼だと思うが、広島は原爆のまちであり、広島から原爆を取り除けば何が残るのだろうかと思ってしまうほど、広島は平和のまちである。それに対し同じ原爆のまちである長崎は、原爆以外にも、出島といった鎖国日本の貿易港といったイメージや、中華街を華僑のイメージ、あるいはキリシタンのイメージなど様々なイメージが存在する。初めて長崎を訪れたときも、いろいろとまちを見た中で、平和公園に少しよったぐらいであまり、原爆まちしてのイメージは残らなかった。原爆以外にもいろいろと見るところのある谷間のまちである長崎は、素敵なまちだと思い、長崎のまちを大好きになったが、やはり原爆のまちであるという事実は忘れてはならないのだということを、この本は改めて思い知らせてくれる。旧浦上天主堂、「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリシタンの悲劇の舞台が、原爆という悲劇によって崩れ去ったことを映し出すこの写真は、まさしく人々が忘れてはならない写真であろう。浦上天主堂が残されていたならば、確かに広島の原爆ドームに匹敵するシンボルになっていただろう。いまさら、それが取り壊されたことにどうこう言うつもりはないが、次に長崎のまちを訪れたときは、「浦上五番崩れ」とも呼ばれた原爆の悲劇の中で、宿命を感じそれを背負って生きる人々の姿が、このまちにあったということをかみ締めながら、このまちを歩いてみたいと思う。
服部昭『印籠と薬』風詠社 2010(2010.10.31読了)
 印籠は薬を入れて持ち運ぶものと当たり前のように思っていたが、確かに印鑑の籠という言葉の意味を考えると不思議なものだ。人は何故薬を持ち運ぶようになったのだろうかと素朴に思う。旅行に薬を持っていくという感覚は、現在の日本人もに共有できる感覚かもしれないが、自分自身は薬を携帯したりしないので、あまり良くわからないが、問題は薬との距離感覚にあるのかも知れない。服用したときの薬理作用という話は横に置いておいて、単純にどのように扱うかは非常に面白い問題だろう。印籠のようなある種の装飾品に入れて携行したり、あるいは常備薬として保管したり、と様々なあり方が薬によってある。どの距離にどのような薬をどう配置するかは案外大切な問題なのかも知れない。そういった意味でも印籠と薬の結びつきはなかなか面白いと思う。もっといろいろと薬と人間の関係を改めて問い直す必要があると思う。
大澤真幸『生きるための自由論』河出ブックス 2010(2010.11.30読了)
 当たり前のことだが、単純な疑問ほど答えることは難しい。自由はどこにあるのだろうか。自由であるということは、どういうことなのであろうか。
 自由を最重要の価値と考える民主主義社会の中で自由に生きていて、それでも更なる自由を渇望する。果たして自分が自由なのかもわからなく、ただなんとなく自由に生きている。
 日本語の可能と受身の表現が同じ形をとることは確かに示唆的だ。自分が何かを出来るすなわち自由に振舞えることには、他者性が含まれる。自分の存在が他者の問題なのだ。その意味でまたキリストの隣人愛の逸話も示唆的だ。
 人を愛することが自由であるための条件。もしかしたらそんな単純な話なのかも知れない。
塚田孝『近世身分社会の捉え方』部落問題研究所 2010(2010.12.31読了)
 副題に「山川出版社高校日本史教科書を通して」とあり、この20年で部落問題の捉え方が、どのように変化したかを説明するのが本書のテーマだが、教科書の内容が変化するほどのものの見方の変化が、あまり話題にならないのはどうしてだろうかと思う。部落問題を過去のものとする若い世代が増えたことも原因だろうが、部落問題は、いうまでもなく決して過去のものではなし、日本の歴史を通して、きちんと議論されなければならない問題をまだまだ多く含んでいる筈だ。それに教科書が変わるということは、世代によるものの見方が変わることであり、差別観が変化することでもある筈で、もっと話題になるべきことだと思う。ある種のはやりともいえるかもしれないが、江戸時代の自由さをもって考えていく必要があるのだろう。あるいは逆に不自由さを考える必要がある。「身分とはその本質において局地的であり、かつ特殊的なものである」という見方かが紹介されているが、結局、イデオロギー的な差別問題の固定的なものの見方は近代的なものなのだろう。その意味で、近代こそが強固な身分社会であり、差別的な社会であったといえるのだろう。そして、その近代を乗り越えることが出来ず、身分社会の感性を引きずりながら生きているというのが、現代社会のあり方なのかもしれない。
 
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