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東條文規『図書館の政治学』青弓社 2006(2006.1.27読了)
 図書館の発展が戦前の天皇制、皇室のイベントと結びついているというのは面白い話だ。もちろんそこからすぐに責任問題が出てくるとは思わないが、指摘としては面白い。現在のように普通に図書館が存在する世の中からはピンとこないが、図書館がほとんど存在しない社会ならば、その発展にさまざまな政治性が結びつくことはよくわかる話である。ある意味、文化が常に中立ではいられないという話だろう。時代の流れの中でどこに寄り添うか。いつの時代でも問題となることなのだろう。
石井研士『結婚式 幸せを創る儀式』NKKブックス 2005(2006.1.30読了)
 石井研士を取り上げるのは2回目。どうしても気になる存在だ。石井研士は宗教学者である。あるいは神道学者と行ってもいいかも知れない。ただし、大きな宗教を語ることはなく、人々の心にある宗教心を常に見つめている。やはりこのスタンスは民俗学である。人生儀礼は民俗学の専門分野であるはずなのになどといった繰言はもうやめておこう。人々の「幸せのむらはどこにあるのか」、それこそ民俗学の本質的な問いだと思う。やはりこの本は民俗学の本だ。
中牧弘允『会社のカミ・ホトケ』講談社選書メチエ 2006(2006.2.27読了)
 会社という世俗的なものと宗教というとすぐに結びつかないと思ってしまうかも知れないが、終身雇用制なども含めた戦後日本の会社のあり方は宗教的な視点が非常に重要なものとなるだろう。会社という社縁共同体には神社があり、社葬を行う。また入社式という共同体への加入儀式で語られる会社精神など考えれば、いろいろと宗教的な側面が見えてくる。そして何より面白いとおもったのが、企業博物館は神殿にあたるという指摘である。ビジネスを神聖化させる装置が企業博物館であるという。確かに企業が博物館をつくる理由として自らの生業を誇るため、すなわち神聖なものとして見せるということがあるだろ。しかし、ポイントはそれだけではないだろう。企業博物館は会社で働くものたちにも機能している。企業博物館は、その会社で働くものにとってある種特別な思いを抱かせる場所であるだろう。すなわち、内に向かっては仕事に対する聖なる思いを増幅させる場所であると言える。内、信者には聖なる思いを抱かし、外、異教徒にはその美しさ荘厳さを誇る。確かに神殿であるとう指摘も納得することが出来る。こうして考えると、日本の会社が宗教的な側面を多く持つこともよくわかると思う。一見、宗教とは無縁に思える日本人の宗教観をとらえていく作業は非常に難しいことだろう。
加藤政洋『花街 異空間の都市史』朝日新聞社 2005(2006.3.8読了)
 サブタイトルに「異空間の都市史」とあるが、全国に600ヶ所もの花街があったという事実から、異空間を抱きかかえてこそはじめて都市であると言えるのではと思う。盛り場とは日常から離れるある種異空間であるが、花街となると空間として制度として明確な形で存在する異空間である。まさしく都市研究の中心に据えるべき課題のひとつであろう。特に色街との違いなど一般に混同されがちな部分をうまく腑分けしながら、遊郭の研究とともに都市形成の一角を担うものとして捕らえていく必要があるのだろう。そしてさらにいうならば、それが現在の盛り場、スナックやキャバレーへと変化していく過程も視野に入れていく必要があるだろう。
矢野敬一『慰霊・追悼・顕彰の近代』吉川弘文館 2006(2006.4.23読了)
 題名からは、生き神信仰などの日本人の宗教感覚が中心の本だと思ってしまうが、そこには収まりきれず、靖国といった政治的問題、さらには郷土といった感覚の形成など、非常に射程距離の遠い本であると思う。いろいろな問題意識が様々なところで感じられるが、逆に言うとまだまだ詰めるべきところは多くあり、ここからがスタートであるといった本である。矢野敬一の今後の仕事をしっかりと見つめていきたいと思える一冊である。
沖浦和光『「悪所」の民俗誌』文春新書 2006(2006.5.31読了)
 沖浦さんの扱うテーマはいつも面白いと思う。幅広い視点からものを眺め、勢いよく文章が走っていく。しかし、同時に違和感を感じてしまうのも正直なところだ。勢いよく進んでいくときに何か置きわすれたものがあるような感覚や、あるいは予想しない方向に進んでいったりして戸惑ってしまう感覚。それでも、この勢いの中から何かが出てくるのも確かだ。この本もまた色町や芝居町から始まり、様々なところへと話は広がっていくのが、なかなか面白い。この勢いに目をくらまされないで、しっかりと消化する必要があるのだろう。
谷川健一『四天王寺の鷹』河出書房新社 2006(2006.6.16読了)
 『青銅の神の足跡』『鍛冶屋の母』『白鳥伝説』に続く4部作の最後の作品。さすがに谷川民俗学と言われるだけあり、その地位を獲得した文章は、非常に面白く読み応えもあると思う。金属というテーマの中で、秦氏、物部氏の足跡を追いかけて、全国駆け巡るその文体は、非常にスリリングで、謎解きの感覚もあり、ある種の文学といえるのではないか。鷹、四天王寺、秦氏、宇佐、そして物部氏。様々なものが思いもかけず絡み合い、深みにはまっていく感覚。これこそが谷川民俗学といった感じで、帯にあるようにまさしくその集大成であろう。
立岩真也『希望について』青土社 2006(2006.7.29読了)
 立岩真也の書く文章は難しすぎる。もう少し読みやすく理解しやすく書けないものかといつも思う。でもまぁ、その分いろいろなことをゆっくりと丁寧に考えていろいろと面白いことを考えているのだろうとも思ってはいたが、実際は、敬遠をしてなかなか読むことができないでいた。しかし、今回の『希望について』は短めの文章を集めたもので、立岩の本でも少しはとっつきやすいのではないかと思う。短い文章ということもあり、難しい論証は省略されていたりと立岩のエッセンスが詰まっている本だと言える。といっても書いているのはやはり立岩。気軽に読んでいると意味がわからなくなるとろもあるが、とりあえず、立岩がどんなことを考えているのかを知るには最適な本だと思う。
佐藤弘夫『神国日本』ちくま新書 2006(2006.8.10読了)
 日本の思想を考えるときに重要なことは、神という概念を考えながらも、そこに力点を置きすぎないことではないかと思う。日本の独自性などを主張すると、もう古い話になってしまうが、某前首相のように思わず「神の国」なんていってしまう。その感覚はわからないではないが、果たして「神国」って何なのかが、まったく考慮されていない。それはおそらくその発言に反発したものも同じだろう。果たして神とは何なのだろうか。宗教的な問いかけから政治的な問題までを含めて、怖がらずに考えていく必要があるだろう。
小川徹太郎『越境と抵抗』新評論 2006(2006.9.29読了)
 小川徹太郎さんが亡くなっていたことを知らなかった。というよりは、その名前自体を忘れていて、本書を手にとって「あの都市のフォークロアの会のひとりか」と納得をとりあえずはしたのだが、小川さんがどのような仕事をしてきたのかをまったく知らないことに気づき、急いで本書を読んだ。一言で感想を言うと、しっかりとした研究をちゃんとしてきた人なんだなぁといった感じ。フィールドに対するしっかりした感覚があり、その映し出す世界はなんだか優しく感じられた。特に第三部はいろいろなことを考えさせられる。固定化されたイメージに対する抗い。権力をしっかりと見つめ、自分の立つ位置に常に意識的であろうとする。非常に強い意志を感じられ、改めて民俗学は歴史を見つめ、今を知り、未来にかかわっていかなければならないのだなぁと感じた。本書の帯に「小川徹太郎の志を継ぐ者へ」とあるように、その志を少しでも継ぐことができればと思う。
渡邉洋之『捕鯨問題の歴史社会学』東信堂 2006(2006.10.29読了)
 自分自身が給食でた鯨の肉懐かしく思う世代だったりすることも影響があるのかも知れないが、捕鯨問題は日本などの捕鯨国が不当非難されていてると考え、その前提として、鯨肉食を均質な日本文化的にとらえてしまってかも知れない。太地などで盛んに鯨漁が行われていたこともよく知っており、鯨を食べることが当たり前のことだと思っていた。しかし、昔から日本中の人が鯨を食べていた筈もなく、鯨肉食が日本中に広がる過程などを考えたことはなかった。その過程を丁寧に見ていくことは非常に価値のある作業で、そういった作業をせずに捕鯨問題を語るのは、おかしいことだろう。鯨肉食普及以前には、鯨を神とみなして鯨を食べなかった地域などもあり、鯨に対する多様な係わり合いを捕らえなおす必要があるのだろう。捕鯨問題は、まだまだ考えるべきことが多くあるようだ。
岩田重則『「お墓」の誕生』岩波新書 2006(2006.11.29読了)
 死者を祀るという行為をもう少し考え直す必要があるのだと思う。墓とは日本人にとってどういう場所なのだろうか。その素朴な疑問が非常に重要な問題を含んでおり、筆者による両墓制や単墓制の検討はその辺りを考えるのにうまく整理されていると思う。また何かと話題の靖国問題もこのあたりから出てくる問題として面白い。なぜ靖国は戦死者を神として祀るのか。靖国は決して墓ではない筈だ。しかし、そのあたりがぼやけてしまっているのが、靖国問題のポイントなのだろう。神としてそこにあるということを果たして日本人は何処まで理解しているのだろうか。よく言われる無宗教の慰霊所を作るというのは、靖国問題から逃げるためのものでしかないだろう(もちろん外交問題としてはそれも悪くないのだが)。死者と神の距離をしっかりと見極める必要がある。墓という空間に関するフォークロアを含め、墓制や儀礼など墓全体の検討が必要なのだろう。墓には決して神がいるわけではない。その当たり前のことも忘れてはならないだろう。
田中宣一『供養のこころと願掛けのかたち』小学館 2006(2006.12.25読了)
 非合理的な思考である供養や願掛が、案外と現在の日本社会に生き残っているということは、日本人の宗教観を考える上で非常に面白い。針供養や筆供養のような伝統的なものだけでなく、カードや写真などに対する供養が行われており、日本人の持つアニミズム的な思考がが何に対して働くかをしっかりと見極める必要があるのだろう。ものが溢れている現代社会の何でもかんでもにその思考が現れるわけではない。民具と呼べるようなものがなくなってきている現代社会で、ものに対する日本人の距離感を考えることは、非常に面白い問題であると思う。
大塚英志『「捨て子」たちの民俗学』角川選書 2006(2006.12.27読了)
 大塚英志をどれだけの人が民俗学者であると認識しているかは判らないが、民俗学という学問の中で決して少なくない仕事をしっかりとしていると思う。学術的な本は確かに少ないのかもしれないが、小説などのその著作の中に民俗学としての重要な問題を示していると思う。本書もそういった既に他の著作で提示している問題に対して、正面から取り組んだものだといえるだろう。日本とは何か、日本人とは誰かを考える民俗学にとって、捨て子というキーワードは確かに重要であろう。常に出自を気にする精神性が、日本民俗学を規定してしまっているということを改めて、考えることは確かに必要なことなのだろう。
 
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