過去の読書(2003年)
ホーム
読書トップ
読書リスト
2010
2009
2008
2007
2006
2005
2004
2003
2002

一括表示
2010
2009
2008
2007
2006
2005
2004
2003
2002
仁木宏編『都市 前近代都市論の射程』青木書店 2002(2003.01.15読了)
  歴史学の本であり、中世の都市空間の均一なイメージから脱却するために、様々な都市のあり方をとらえようとしている本である。もちろん問題は中世だけでなく、歴史過程としての都市の成立などにも関心が注がれ、都城を例に挙げ、権力側からの理念としての都市を考えるなど、全体としては都市を権力から捉えようとしているようである。都市のとらえかたとしては、面白い視点が多く含まれているように思う。
佐々木信夫『市町村合併』ちくま新書 2002(2003.01.22読了)
  平成の大合併時代。どれだけの民俗学者が市町村合併について発言をしているのだろうか。確かに合併は、役所や地方議会の統合、あるいは財源の確保といった政治的なことが問題となる。しかし、より重要なのはやはり地域に住む人々の生活である筈だ。合併に伴い、生活基盤は変化し、生活のあり方も少しずつ変化していくだろう。経世済民。変容する民俗文化の前で、民俗学者は立ちすくむのではなく、積極的に街づくりにかかわっていくべきではないか。未来にありうる民俗を考える必要もあるのではないだろうか。
小松和彦『日本魔界案内』光文社知恵の森文庫 2002(2003.01.24読了)
  小松和彦は良くも悪しくも民俗学の伝道師である。『京都魔界案内』に続き、「魔界」をキーワードに、一般の観光客が見落としそうなスポットを採りあげて、解説していくわけだが、やはり気になるのはこの「魔界」という言葉。闇を持った聖地としてその必然を主張してるが、単に「異界」でもいいのではと思ってしまう。必要以上に恐ろしさを強調しているのではと。しかし、逆に光が当たらない場所だからこそ、これぐらいの言葉が必要なのかもしれないとも思う。小松は、「私」を発見する、あるいは形成するために「他者」「他界」が必要であると説く。そのために闇に光を当てるのはよく理解できる行為である。
尾本恵市編『日本文化としての将棋』三元社 2002(2003.01.29読了)
  将棋に関して、この本が何か新しいことを主張しているというわけではないが、各執筆者の将棋に対する愛情が感じられ非常に面白い本に仕上がっていると思う。編者である尾本恵市が前書きで主張しているように、この本がインターディシプリンとして成功しているかはさておき、将棋だけでなく、日本文化全体へ視点を持った多くの可能性を含む本であると思う。
赤坂憲雄・中村生雄・原田信男・三浦祐之編『いくつもの日本W さまざまな生業』岩波書店 2002(2003.02.24読了)
  いくつもの日本という限り、農業以外の様々な生活に焦点が当てられるのは当然だが、特に示唆的なのがサンカの項目だろう。いったい農民ですらない都市人である私たちが、農業民の目を通して、さまざまな生業に携わる人々をみるのはどうしてだろうか。そして何故そこには過剰なイメージの付加があるのだろうか。マタギにしろ木地師にしろ、そこにあるイメージはいったいどこからくるのだろうか。さまざまな生業に焦点を当てることは、その実態を解明することと同時に、それに対するまなざしの解明であると思う。さらにはそのまなざしすら忘れようとしている都市人と農業民との距離もあぶりだされてくるのではないだろうか。
鳥越晧之『花をたずねて吉野山』集英社新書 2003(2003.02.26読了)
  「政治的アジールである吉野が何故桜で満たされるのか?」という問いかけが、単純に面白いと思う。吉野は確かに仙境であり、異界であり、そこに奉げられる花の意味は確かに検証する価値があるだろう。そしてこの問いが、環境問題に民俗学者として取り組む鳥越から発せられること自体が、ある意味、人間と桜の関係を示しているといえるのかもしれない。ただ、少し疑問に思うのは、吉野が政治的な水の管理に携わっていたことはそのとおりだが、吉野川はあくまでも紀ノ川水系なので、水の流れとしては直接大和には関係ないのではといこと。やはり農業用水としての水以上に、金属の問題が重要なのではと思う。ただし鳥越の関心はあくまでも環境なので、焦点はやはり桜である。そこに込められた、また今後込められていく意味をこそやはり考えていくべきなのだろう。まさに鳥越らしい一冊だろう。
伊藤毅『都市の空間史』吉川弘文館 2003(2003.03.10読了)
  都市史のなかで中世は非常に弱い分野であったそうだが、本書は中世の都市空間をうまく捉えていると思う。「境内」と「寺内」という考え方は、都市空間を理解する上では非常に重要であろう。また2章の「都市の写し」や5章の「都市のライフサイクル」といった考え方は非常に魅力的で、そこからは都市の精神史なども見えてくると思う。直接、人を扱っているわけではないが、都市空間を描くことで、そこに生活する人々が浮き上がってくる。非常に興味深い一冊である。
橋爪大三郎『「心」はあるのか』ちくま新書 2003(2003.03.23読了)
  「心」が問題なのではなく、何故「心」を問題とするのかが問題なんだろう。極論として「心」はないという言い方を橋爪は採用するが、「心」の対称性と非対称性を踏まえた上で、言語ゲームとして捉える必要があるというのである。非常にわかりやすい議論だと思う。「心」にすべてを押し込めてしまうよりは、そこに至る社会的文脈を問題とする。非常に重要な指摘であろう。
橋本裕之『演技の精神史』岩波書店 2003(2003.03.25読了)
  橋本は、民俗芸能に残された身体性から、芸能の形がどのように解釈され変形したかを読み取ることが必要だという。そしてそこから、芸能がいかなるイメージと共に観念させたかを探ることができるという。芸能の精神史を問題としているのだ。橋本はおそらくここから、現代社会のさまざまな問題を見つめようとしているのだろう。中央から地方へさまざまな文化が受容される過程で、何が問題となるのか。どう解釈され変形されるのか。民俗芸能で埋め尽くされた本書を、現代の問題として読む必要があるのだろう。
かつきせつこ『鉄と火と技と 土佐打刃物のいま』未来社 2002(2003.04.23読了)
  ステキな絵本である。鍛冶屋をめぐる風景が絵を交えてわかり易く紹介されており、現代人にはなじみの薄い鍛冶理解のためにはちょうどよい入門書であると思う。こういった本が他の多くの職業に就いても必要なのではないかと思う。職業によって持っている風景は違っている。職人たちが何をみて何をもとめて来たのか。そういった多様性を見つめるべきでないかと思う。
六車由実『神、人を喰う』新曜社 2003(2003.04.27読了)
  単に人が殺されるのではなく、人が食べられることの嫌悪感・拒絶感を、六車は、「毒抜き」するのではなくそのまま描き出そうとしている。神の暴力性。犯す神に喰らう神。神と人の距離感が問題である。そしてさらに大事だと思われるのは、人が神を食べることにより、神と合一するという観念、そして逆に神に喰われることにより、神に取り込まれるということ。人から離脱する欲望が隠されているようである。
小松和彦編『日本妖怪学大全』小学館 2003(2003.04.28読了)
  妖怪というキーワードのもとに様々な論考が収められているが、当然重要となるのは、妖怪の定義である。序論で小松は「妖怪を定義するのは難しい」とした上で、妖怪は「怪異」であると理解するとしている。すなわちここでは河童やろくろ首といったキャラクターに限定するのではなく、「現象」として広く理解しているのである。この定義は一般的な感覚からはずれている。しかし、こう定義することには十分意味がある。妖怪の周辺部というよりは、妖怪へ向かう様々なものが、考察の対象となり、人が妖怪に何を見てるいるのかを捉えて行くことができるようになるのだろう。
加藤尚武『戦争倫理学』ちくま新書 2003(2003.05.19読了)
  忘れてしまっていたこと、知らなかったことが多く書かれている。国連憲章にパリ不戦条約。巷で語られる戦争に関する議論は相当多くのことが抜け落ちてしまっているのではないだろうか。過去に積み重ねられてきた議論。それを時代が変わったといって切り捨てることをしていいのだろうか。
印南敏秀『共同浴の世界』あるむ 2003(2003.05.19読了)
  温泉ブームは相変わらずで、またスーパー銭湯といったものが増えて来ているが、昔ながらの銭湯はどんどんと減っているのだろう。銭湯で育ったものとしては、湯舟に浸かっているとき以上に、風呂上りの脱衣場の雰囲気が好きだったりする。町の人たちが集まる場所としての銭湯は、大浴場とはおそらく雰囲気が違う。この東三河地方の「共同浴」というあり方も、大都市ではなく、マチのあり方を考える上では非常に面白いだろう。銭湯とはまた違った趣のある世界を、単に失われていくものに対するノスタルジーではなく、共同体のあり方という辺りから、考えて行くべきなんだろう。
鷲巣力『自動販売機の文化史』集英社新書 2003(2003.05.28読了)
  現代の日本では当たり前のように自動販売機はあり、それがない社会は既に考えがたくなっているように思う。小さい頃、自分でお菓子を買うといえば、近所の駄菓子屋だった。でも、そこにはジュースは売っていなくて、コカコーラの赤い自動販売機でジュースを買うのが少し嬉しかった。いつの間にか駄菓子屋は無くなり、コンビニがすべてをまかなってくれるようになった。自動販売機は未だに使うが、あの赤い自販機の輝かしさは少し薄れてしまった。おそらく自動販売機は商品と同時に昔は夢を売っていたのだろう。本書を読みながらそんな気がした。昔あった様々な自動販売機を見ていくと、当時の人との関係が見えてくる。人々が何を考え、何を望んでいるか。そしてそれは時代だけでなく、空間軸を移動させれば、国による文化のあり方まで話が及ぶ。そうなると最後は未来。環境問題を含め自動販売機を通して社会が抱える問題を見ていくことも非常に面白いように思う。文明のあり方と文化のあり方。自動販売機はそのどちらも考えるヒントになるのではないだろうか。
篠原徹編『現代民俗誌の地平1 越境』朝倉書店 2003(2003.06.26読了)
  過去、失われたものについて考えていく必要もあるのだろうけど、同時に「現在学」としての民俗学を考えていくべきなんだろう。現代社会はスピードが違うといわれる。ほんの少し前とですら変化している現在の生活をどのように民俗として捉えるか。本巻では「越境」というキーワードでといていこうとしているが、少し無理があるような気もする。単に変容でいいのではと思ってしまう。編者は民俗概念を「近代教育システム以外の方法で伝達される生きる方法として知識の総体」と表現しているが、今までに聞いた民俗の説明の中でも非常にすっきりとしたいいものであると思う。世代間の伝承にこだわらない変化のスピードを視野に入れた概念規定だと思うが、問題はマスメディアなどによる知識であろう。それが民俗ではないといいきるつもりはないのが、近代教育をはずしているぶん、マスメディアのような近代的な放送媒体に少し違和感を感じてしまう。いずれにしても民俗概念という基礎的な部分で悩みを抱えてしまう民俗学とは一体何なんだろうと悩んでしまう。
アダム・カバット『江戸滑稽化物尽くし』講談社選書メチエ 2003(2003.07.15読了)
  江戸時代の妖怪は確かに滑稽だ。妖怪のキャラクター化がおこり、親しみやすくなるのだろうけど、しかし、恐ろしい妖怪は何処に行ったのかと思ってしまう。決して最初から滑稽であったのではないだろう。河童などには確かに滑稽さはあったのだろうが、ここまで滑稽さに重点がおかれるのは、やはり江戸期の安定が推し進めたのではないだろうか。滑稽さと恐ろしさ、その境目辺りをもう少し見てみたい気がする。
脇田晴子『天皇と中世文化』吉川弘文館 2003(2003.07.18読了)
  差別や女性の問題を扱ってきた脇田がおそらくこの10年以上の間考えつづけてきた問題が天皇であろう。何故、権力を無くした天皇が、権威を持つようになるのかと。この本がおそらくそのとりあえずのまとめ。脇田は中世において文化統合が行われることに注目する。応仁の乱などによる文化の地方への流出、逆に民衆から出た能・狂言といったものが貴族文化によって修飾されることで洗練されていくことなど、現代人の感じる日本的なものが成立をし、広がりをみせる時代。そしてその統合の役割を担うのが、天皇である。天皇の名のもとに文化が管理され、継承される。天皇の権威はおそらくその辺りにあると脇田は見て取る。天皇が日本文化の象徴(シンボル)になっていくのは、紛れもない真実だろう。非常に脇田らしいいい本だと思う。先走らないで、様々な事例をもとに地道に進んでいく。すばらしいと思う。また、表紙の脇田自身が能を舞う姿にも思わず魅力を感じてしまう。
斎藤英喜編『呪術の知とテクネー』森話社 2003(2003.07.26読了)
  確かに、呪術をいかがわしいものとしてではなく、知や技術として位置付けていく必要があると思う。シャーマニズムは決して過去のものでなく、現代の都市や、インターネットの中でもしっかりと生きていることを忘れてはいけない。呪術における言葉をいろいろな言葉に変換をして語るべきなのだろう。身近に呪術を感じることが出来ないからと言って、それを違う世界のものとしてしまうことはいけないだろう。新たに生まれるシャーマニズムも含めまだまだ多くの研究の可能性があると思う。
永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』紀伊国屋書店 2003(2003.08.25読了)
  都市を見る視点は様々にありうると思うが、特定のスポーツチームが、都市といかにかかわりをもち、都市生成に影響しているかに焦点を当てている本は、おそらくほとんどないだろう。戦後復興のまさしく都市が成長していくその時期に、南海ホークスという球団が、いかに愛され、大阪スタヂアムをはじめ、大阪の都市計画に関係していたかが、この本では語られている。強い南海ホークスを知らない世代からすると、数多くの発見と驚きとともに、そこに生きていた人々の愛情を感じることができる。そして南海ホークスの凋落、身売りと時代は進んで行くが、ようやくこのあたりで僕自身の記憶と重なり合ってくる。都市大阪を支えていた南海ホークスを僕は知らないが、南海ホークスを心から愛し、ともに生きてきた人たちがいたことは知っていた。しかし、僕自身は彼らの語る言葉に少し無関心すぎたのではないだろうか。おそらく南海ホークスを応援しつづけた人々の言葉は、単なる南海ファンの言葉ではなく、都市大阪を生きてきた人たちの言葉ではないだろうか。スポーツを見つめる人々の思いにもう少し敏感である必要があるようだ。
作間芳郎『関西の鉄道史』成山堂書店 2003(2003.09.08読了)
  自分の生まれ育った年代のせいもあるのだろうが、鉄道は非常に固定的な交通だと思ってしまう。新しく開通した路線はほんの少し、ましてやなくなってしまった路線は身近には存在しない。しかしながら、歴史を考えれば、当然そんなことはなく、新しく出来たりなくなったり、鉄道はどんどんと姿を変えている。ということは、そこにあった人や物の流れが大きく変わっていったということである。そんな当たり前のことを確認するためにも、鉄道史をしっかりとおさえておく必要があるだろう。しかし、本書自体は非常に読みにくく、上手く歴史をまとめているとは言いがたい。もう少し地図などを増やし、目で確認できるようになっていれば、良かったと思う。
植島啓司『「頭がよい」って何だろう』集英社新書 2003(2003.09.26読了)
  植島啓司の作品を読んできたもの、あるいは植島自身を良く知るものにとっては、彼がこういった本を書く理由をよく理解できるであろうが、同時にこんなことしている場合かと少し苛立ちを感じたりもするだろう。とはいいつつもやはりこの本は宗教学者植島啓司が書いた本だ。所々に発せられる問いかけ・提言の持つ意味が深く感じられる。「頭のよさ」について執拗に追いかけつづけた末、話は間違えることの偉大さに行き、そして逆に複数の頭の悪さを知る必要があると言う。この裏返した問いかけは非常に重要だろう。それも「複数」のあり方だという。頭が悪いと言って一言で切り捨てまとめてしまうことがいかに問題か。確かにそこにある多様性は重要な意味を持つと思う。そして偶然。其処に潜む回路もまた重要な問題となるのだろう。目に見えない部分を如何に補うか、如何に表現するか。この本のテーマをおそらくそのあたりにあるのだろう。
井上順孝編『IT時代の宗教を考える』中外日報社 2003(2003.10.22読了)
  インターネット上における宗教の活動はまたまだ始まったばかりと言えるだろう。その現状を紹介してくくれいるが、問題点・今後の課題がようやく見えてきたというところか。既存の宗教がインターネットを如何に使って布教していくかという問題と同時にインターネットの中から起こる宗教の可能性も考える必要があるだろう。ネットでの文字での会話などが、いかに人間に影響を与えることができるのか。ITによって環境が如何に変わるかを考えないといけないだろう。
園田学園女子大学歴史民俗学会編集『「鏡」がうつしだす世界』岩田書院 2003(2003.10.26読了)
  現在では鏡は何処にでもあるありふれた物になってしまったが、よくよく考えると物がうつしだされたり、光が反射して輝くというのは非常にめずらしいものだったのだろう。宗教の問題もそこにはあるだろうし、権力の問題もあるだろう。いろいろなアプローチが可能だと思うが、民俗学としてはあまり扱ってこなかったのではと思う。「鏡磨」という職人に関する論文が本書にも載せられているが、今後ももっといろいろな面から鏡を考察して行く必要があるだろう。非常に面白いテーマだと思う。
上田篤『都市と日本人』岩波新書 2003(2003.10.29読了)
  都市には神様はいないと思わず考えてしまう。確かに現在の祭りには神が見当たらなく、「神なき時代の民俗学」が語られる。しかし、都市にだって神様は確かにいる。本書は都市にこそ神様がいると考え、歴史都市を中心に神様探しをする。問題はやはり歴史都市が中心になってしまうということだろう。大きな神が腰を据えている都市ではなく、小さな神々が住みついている都市をもっと見つめていかないといけないだろう。
中沢孝夫『<地域人>とまちづくり』講談社現代新書 2003(2003.11.16読了)
  まちづくりの団体に属するようになってから、「まちづくり」という言葉が妙に気になる。まちづくりって何だろうという素朴な疑問から、いつから「まちづくり」って言葉は使われるようになったのだろう、「まちおこし」とはどう違うのだろうかというようなことまで、不思議に思うことはたくさんある。言葉の使われ方についてはいろいろと調べないとと思ってはいるが、少なくとも「まちづくり」という名のもとで現在行われている事例がこの本では数多く紹介されている。そしてこういった多くの例を読むと、やはり「まちづくり」とは「人づくり」なんだと当たり前のことを思う。人のつながりのあり方、共同体のあり方を改めて考えさせられる。
池田清彦『やぶにらみ科学論』ちくま新書 2003(2003.11.26読了)
  科学的な言葉の胡散臭さに足元をすくわれてはいけない。それなりに冷静判断をしているつもりでも、やはりだまされてしまうことはあるようだ。改めてそう思ったのは、地球温暖化現象の項目。生活的・身体的な暖かくなっているという実感から素朴に地球温暖化現象を信じていたりしたのだが、池田によるとどうも怪しげなところがあるそうだ。確かに地球規模での環境の未来予測などできるはずなどないし、一方的に温度が上昇しつづけるというのは近視眼的かも知れない。ましてやその言説が政治的な文脈にあることを知らされると、もう一度地球温暖化現象について考え直さなければならないと思う。本当に熱くなりつづけるのだろうかと。
岩本通弥編『現代民俗誌の地平3 記憶』朝倉書店 2003(2003.12.2読了)
  記憶というのは非常に重要なキーワードであろう。聞書きをその手法とする民俗学にとっては、人の記憶こそが資料であり、記憶された世界のあり方を考えることが重要である。それは決して事実としてどうあったかということではない。現実とは違う世界を考えることが民俗学なのかもしれない。いや、それよりは客観的な現実ではなく、人々の中の現実を考えるのが民俗学だといえるのだろう。
屋名池誠『横書き登場』岩波新書 2003(2003.12.9読了)
  正直を言うとこういう本を以前から読みたかった。気になっていたこと、知りたかったことが、この本には書かれている。日本語の多様性は文字の種類の多さもあるが、やはり書く方向性の自由度が大きいということだろう。日本語の本来のあり方は縦書きと考えられているが、街にあふれている広告やチラシを見れば、少なくとも現在日本語は横書きの方がやはり多いと思う。というよりは、縦書きは本の中でしか、中心的な地位を得ていないのではないだろうか。自分自身、ちょっとしたメモやノートは横書きだし、何よりもこうしてパソコン書く言葉はほとんどが横書き。横書きがこんなにも多くあることに案外無自覚なのかもしれない。そうするとその歴史、如何にして横書きが増えてきたかを問う必要性があるわけで、それに取り組んだということで、非常に意味のある一冊だと思う。
 
 ホーム//読む/聴く/歩く/見る/語る/創る