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筑紫磐井『標語誕生!』角川書店 2006(2007.1.29読了)
 標語というのは確かに不思議な存在だ。ことわざとの境目がわからなくなっているものもあるし、改めて考え直してみると、よくわからないことも多い。本書の帯には「定型詩・標語」という文字があるが、文学でもないのに、人の心を捉えるインパクトが必要で、標語を作る人にとってはセンスが問われる作業である。言葉に対するセンスという言い方では、商品のコピーなどもそうだが、これもまた標語とは少し違う。一般大衆に対する呼びかけということになるが、そこに潜む政治性というものも重要なポイントだろう。日常に何気なくある標語に光をあててみることは、文学史研究などと同様に、時代の精神性などを知る上で重要となるだろう。あまり今まで気にも留めなかった存在だが、標語について考えてみるのは、おもしろいだろう。
井上史雄『変わる方言動く標準語』ちくま新書 2007(2007.2.27読了)
 方言自体の研究もいろいろと面白いものがあるとおもうが、方言に対するイメージという問題は、なかなか政治的な問題でもあり、非常に面白いテーマだ。地方の時代などという言い方もあるように、方言が評価されていく流れがあるのはよくわかるが、言葉の多様性がそのまま受け入れられるようになったとも言い難い。方言と方言の間に力関係があることも確かだし、ローカルなコミュニケーションにおいて、言葉が違うということが少し問題になることもよくあることだ。人と人がつながっていくために何が必要なのかとう問題もそこには存在する。何かを伝えるために同じである必要性と差異がによって伝わる可能性。微妙な問題をいろいろと考える必要があるようだ。
土取利行『縄文の音 増補新版』青土社 2007(2007.3.31読了)
 古い音を考えることは、資料がないのでなかなか難しい作業だが、非常に重要なことであることは確かだ。縄文人がどんな楽器を使いどんな音を鳴らしていたのか。当然のことだが、縄文時代に音楽などなかったと言うことはナンセンスだ。日常から乖離するための手段として音は重要な要素であり、宗教の根幹にかかわる問題である。プリミティブな思考を問うために改めて音という問題を考えてみる必要があるのだと思う。
河本英夫『哲学、脳を揺さぶる』日経BP 2007(2007.4.17読了)
 哲学とはまさしく脳を揺さぶるものだと思う。しかし、心地よい脳に対する刺激は案外と難しい。哲学が拒否されがちなのは、頭が痛くなるだけで心地よくないからだろう。たぶん落ち着いてゆっくりと刺激を与えるよりは、些細な刺激が心地よい。日常に疲れた脳に心地よい刺激を与えるきっかけがこの本には多くちりばめられているといえるだろう。
島本隆光『シーア派イスラーム』京都大学出版会 2007(2007.5.22読了)
 イスラーム自体が日本ではなじみのないものである中、さらにシーア派となるとなかなかピンとくるものがないのはある意味仕方ないが、その重要性は決して忘れてはいけないだろう。シーア派の歴史を解説してくる手ごろな本がない中、入門書としてなかなかいい本だと思う。イスラーム的な宗教共同体のあり方を見直し、宗教と政治の問題を考え直すいいきっかけにもなるだろう。
杉本仁『選挙の民俗誌』梟社 2007(2007.5.30読了)
 著者自信は決してそうは思ってはいないだろうが、こういった本こそ、都市民俗学という名に値するのではないかと思う。日本的な民俗文化、共同体のあり方が、近代的なシステムの中でどのように息づいているか。そういったところに光をあてて、今後のあり方を考えていく作業こそが都市民俗学であるだろう。さらに言うならば、都市などという言葉にこだわる必要もない。現代社会の中で人々が何を考え、どのような幸せを望んでいるのか、それを考えてこそ、民俗学といえるのではないかと思う。
鶴岡真弓『黄金と生命』講談社 2007(2007.6.30読了)
 永遠の時間を求めるインド=ヨーロッパ語族の長い長い物語。永遠の象徴たる黄金を如何に求め、作り出そうとしたか。金属篇・錬金術篇・貨幣篇の三部構成によって、丁寧に示される様々な話は、多種多様な局面のでの黄金すなわち永遠の生命に引かれていく素直な心を描き出している。人々の長い歴史は、この黄金を求める心がすべてであった。そんな長い長い人類のインド=ヨーロッパ語族を主人公とした素敵な一冊の物語。
林幸雄『噂の拡がり方』化学同人 2007(2007.7.27読了)
 人が人とのどのようにつながっているのかというネットワークのあり方を科学的に考える必要は確かにあるだろう。民俗学ではうわさなどをテーマとして、個のレベルで漠然と繋がり考えてきたが、ネットワークの様々なあり方をモデルを用いて考えたうえで、民俗社会のあり方を再検討してみると面白いのではと思う。ネットワークの中で感染力のあるものがどのように拡がりを見せるのか、逆に広がらないのか。さらにはその感染力の強さとは何なのか。様々な考えるべきことが存在するだろう。
佐藤稔『読みにくい名前はなぜ増えたか』吉川弘文館 2007(2007.7.31読了)
 題名、問いの立て方がなかなか面白いと思う。日本語や漢字のあり方が如何に変化しているか、あるいは、名という文化のあり方、さらには、名づけるということの意味、様々な問題がここには隠されていると思う。名づけるということの権利を如何に考え、所有することの意味を考える必要があるのだろう。なかなか様々な示唆に富む本であると思う。
岩波敦子『誓いの精神史』講談社選書メチエ 2007(2007.8.24読了)
 現代社会に生きていると、言葉の力というもを感じれることがなかなかできないが、やはり言葉、特に声に出された言葉はまさしく呪として、様々なものに影響を与えているといえる。そういった言葉の力が、しっかりと生きていた時代を見つめなおす必要性があると確かに言えるだろう。選手宣誓や結婚式の誓いの言葉など現代社会にも「誓い」という形式は多く残っているが、その言葉が力を持つために一定の手続き、式が必要であった。言葉に力を持たせるための条件、そういったものを捉えなおすことが、現代社会の言葉を考える上で必要なこととなるのではないだろうか。
藤巻一保『我輩は天皇なり』学研新書 2007(2007.9.30読了)
 熊沢天皇の話は非常に有名であると思うが、案外とその詳細は知らないのもので、今までに熊沢天皇の概説書がなかったのが不思議なぐらいだと思う。ともすれば、気が狂った人間のたわごととして理解されてしまうが、天皇という位置づけを考えるには示唆に富む話であろう。特に新天皇を擁立してのクーデターといった話は、戦前の天皇の政治的価値を、絶対的なものであったと判断保留するわけには行かないことを示しているし、戦争というものを乗り越えた上で、それでも、天皇は、何ゆえに天皇であるのかを考えるきっかけになる本であると思う。
広田照幸/川西琢也編『こんなに役立つ数学入門』ちくま新書 2007(2007.10.29読了)
 中学や高校で習った数学が生きていくうえで、役に立っていると感じている人が、果たしてどれだけいるのだろうか?逆に言うと役に立ちもしないと思っていることをどうして我慢して勉強しているのか、あるいは子供に勉強しろというのだろうか?好きでもないし、役にも立ちそうにないことを無理やり教えられても、嫌いになるしかないだろう。数学を取り巻く現在の日本の状況は明らかにおかしいのではと思う。数学が自分の生活の中でどのように役に立っているかを見つめなおす作業が、今の日本人には必要なのではないだろうか。その作業を大人がすることを抜きにして、中高生が数学の意味を考えるなんてできないのではと思う。そういうきっかけを作ってくれる本が多くあればいいと思う。もちろん、この本を読めば、数学がいかに役に立つかがよくわかるとは言えない思うが、少しでも数学の有用性を伝えようとする本があることが、数学を好きなものからするとうれしく思う。
西成活裕『渋滞学』新潮選書 2006(2007.10.30読了)
 渋滞という言葉を使うと、嫌なもので困ったものだといったイメージしかないが、単純に物事の進むスピードと考えると、速いからいいとは限らない。渋滞の発生する仕組みを理解した上で、スピードを遅くする必要のあるところに当てはめるという逆の発想はなかなか面白い。スピードが様々な場面で求められる現代社会で、うまくスピードをコントロールすることこそが大切なのではないだろうか。特に情報の交通、コミュニケーション・思考のあり方を考えていく必要性はあるのだろう。
逵日出典『八幡神と神仏習合』講談社現代新書 2007(2007.10.30読了)
 八幡神社は日本全国何処にでもあり、当たり前の神様だけに、かえっていろいろなことを考えるには面白い神様だ。特に仏教との関係などは有名な話ではあるが、非常に興味深い。仏教という枠の中で生きていく神は、日本の様々なあり方をうまく示している存在だろう。八幡神というごくありふれた神を考え直すことが、現代日本人の神のあり方を考えることにつながっていくのだろう。
植島啓司『偶然のチカラ』集英社新書 2007(2007.11.18読了)
 言うまでもないかもしれないが、このホームページはスタートするに当たって偶然と必然という言葉を掲げており、偶然と必然はいつも心の底にはある言葉の一つである。偶然とはなんだろうか。人は偶然をどのように理解し、そこに何を見るのだろうか。またしても宗教学者植島啓司らしい本に、思わず頬を緩めてしまった。偶然を愛する、人生を愛する、多分、そういう話だ。
佐々木馨『北方伝説の誕生』吉川弘文館 2007(2007.11.26読了)
 伝説と歴史をどのように折り合わせをつけるかは大きな問題だ。歴史的事実だけが歴史を作り出すわけではなく、人々が何を信じ語り伝えていくかが重要なのは当然だが、伝説の中から歴史的事実をあぶりだしていくこともまた必要な作業だろう。特に北海道や東北といった北方地域は文字の歴史が少ないだけに、しっかりとしたスタンスで伝説に向かう必要があるだろう。伝説の基本構図として示された図は、いまひとつわかりにくい部分もあるが、考えるべき多くの要素が示されていると思う。いかに伝説が語られてきたかを考えると同時に、いかに伝説を語る必要があるのかを考えていく必要があるのだうろ。
大谷信介『<都市的なるもの>の社会学』ミネルヴァ書房 2007(2007.12.25読了)
 都市とは何かと問いかけることの難しさは古くから言われるが、改めてその問いの歴史を解りやすく整理している本だと思う。もちろんそれがあらたな有意義な定義に行き着くわけではないが、学生に対するアンケートなどをもとに示された漠然とした都市のイメージはなかなか面白い。都市的なるものを様々な角度から描き出していく作業は、有意義なものと言えるだろう。
大島清昭『現代幽霊論』岩田書院 2007(2007.12.25読了)
 都市民俗学といってしまうと、従来の民俗学からは異端視されているきらいがあるが、幽霊といった民俗学が扱ってきたテーマを現代社会の中で位置づけていく本書のようなものこそ都市民俗学といえるだろう。現代社会で生きている人々が何を信じ、何を幸せに思い生きているのか?そんな素朴な問いかけをするものこそ都市民俗学なのだと思う。幽霊は決して現代社会で息絶えてしまったわけではない。幽霊が現在の日本でどのように生き延びていて、今後どのような道をたどっていくのかを民俗学は考えていく必要があるだろう。
 
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