清水昭三『鳥居はなぜ倒れない』彩流社 2004(2005.1.24読了) |
非常に魅力的な題名だ。もちろんその問いに答えを出しているという訳では決してないが、この問いかけと、そこに添えられた写真には十分な意味がある。廃墟のなかに佇む鳥居。この風景は改めて鳥居の象徴性を考えさせられる。鳥居の持つ意味。それは社殿以上に大きいことなのだろう。神社自体ではなくて、鳥居の持つ意味にもっと注目する必要があるのだろう。 |
中沢新一『僕の叔父さん網野善彦』集英社新書 2004(2005.1.30読了) |
似たような本を再び取り上げるもの少しどうかと思ったが、改めて中沢の網野論を。
単に私的な中沢−網野の関係や中沢のどう網野を見ていたかが書かれているだけならば、どうでもいい本であるといえるが、中沢少年が見た当時、そこで交わされていた学問に対する熱い思い、それが描かれているだけでこの本は意味があるだろう。いかに学問に熱くなれるか。それが非常に重要なことだと感じさせる本だ。
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石井研士『日本人の一年と一生』春秋社 2005(2005.1.31読了) |
改めて石井研士の仕事をどうして民俗学ができないのかと思う。人が何をおもいどうやって生きていくかを考えるのが民俗学だとすると、今、民俗学がするべき最低限の仕事がこの石井の仕事だと思う。前二著をまとめた形の本ではあるが、非常に重要な本だろう。 |
吉田伸之『21世紀の「江戸」』山川出版社 2004(2005.1.31読了) |
やはり江戸という町は面白い。町屋敷・両国界隈・リサイクルと三つの視点から江戸を描いているがどれも非常に面白く描いていると思う。そこで人々が生活をしていたというとがよくわかる。地図を見ながらそこに住む人々を考える行為がなんと楽しいことか。 |
増川宏一『将軍家「将棋指南役」』洋泉社新書 2005(2005.2.22読了) |
将棋をなりわいとする家というといまいち理解できなような気もするが、その技能に武士と同格としての禄が与えられるわけであり、その成立過程などを考えると非常に興味深いと思う。差別的な視点も含め遊ぶということの本質を考える必要があるのだろう。また、江戸時代の家のあり方の一例としも、経済的な側面などいろいろなことが読み取れると思う。 |
森岡正博『感じない男』ちくま新書 2005(2005.3.29読了) |
最近の森岡正博はどこに向かっていくんだろうと少し不安に思うのだが、そういう不安がいい感じで出ているのが、この本ではないだろうか。学問として自分語りがどういった意味を持つかは、無難しいところもあると思うが、素直に楽しく思うし、こんな本が他にないことを考えると十分に意味のあることだろう。男にとって射精が決して快楽でないという指摘は、あまりにも当たり前すぎるが、それが意味を持つほど、この分野はまだまだ議論がつくされていないといえるのではないだろうか。 |
安藤礼二『神々の闘争 折口信夫論』講談社 2004(2005.4.11読了) |
神々の闘争という題が非常に素晴らしいと思う。いたるところに溢れる神をいかに折口は見つめつづけたのか。そして一神教としての神道のあり方をどう考えたのか。もちろん天皇制の問題を抜きにすることはできないのだろうけど、それにいたるまでの折口の視点をいろいろと提示してくれるいい本だと思う。折口信夫をもう少ししっかりと捉えなおす必要は確かにあるのだと思う。 |
大澤真幸『現実の向こう』春秋社 2005(2005.5.20読了) |
大澤の理論の本ではなく、具体的な提案をともなった現実問題の本。特に第1章の憲法の問題での提案が面白いと思う。憲法の改正の議論が飛び交うなかで、軟弱な護憲とかではなくて、しっかりとした立場から問題を捉えていると思う。まさしく平和の倫理を考えるべきであって、武力を持つ持たないといった問題ではない。一体どれだけの人が本当に憲法をしっかりと読んで理解しているのだろうか。僕らの現実は憲法から始めるべきでないかと思う。 |
小室直樹『数学を使わない数学の講義』WAC 2005(2005.5.27読了) |
数学の楽しさを伝えるのは本当に難しい。数学はどうしてこんなに難しいものだと思われるようになったのだろうか。数学は難しいといった誤解をとくのには最適の本だろう。決して難しいことはこの本に何も書かれていないのだから。但しこの本が20年以上前に書かれた新装版であることを考えると、学校は数学の何を教えてきたのだろうかと不安になってしまうのも正直なところだ。 |
川口良、角田史幸『日本語は誰のものか』吉川弘文館 2005(2005.5.27読了) |
今更という気もしないのだが、「正しい日本語」という言葉が語られることの多さを考えるとこういう本がやはり読まれる必要があるのだろう。言葉は生きている。そんな当たり前のことがどうして解らないのだろうと思う。正しいなんて権力を振りかざすより、今言葉が生まれていくその多様性を見つめるべきだし、その正しさが生まれた瞬間を考えるべきだろう。日本語は変化する。同様に日本という国も変化していく。日本人とは誰なのか。少なくとも歴史の教科書にしか登場しない滅んだ民族名ではない筈だ。日本という枠組みを考えるには重要な一冊だろう。「日本語は誰のものか」、素敵な題名だ。 |
高橋哲哉『靖国問題』ちくま新書 2005(2005.5.30読了) |
哲学者が斬る靖国問題ということだが、哲学者がどうこうというよりは、しっかりと問題を切り分けて、解りやすく問題の所在を明らかにしている。安易に語られる国立の追悼施設の問題などしっかりと捉えれていると思う。宗教としても問題は非常に大事で、そもそも人を神に祀るということがどういうことなのかをもっと考える必要があるし、国のために戦ったというのなら、何故、それが戦争に特化されるのかも考えないといけないだろう。靖国問題はまだまだ考えるべきことは多いだろう。 |
滋賀県中学校教育研究会社会科部会編『12歳から学ぶ滋賀県の歴史』サンライズ出版 2005(2005.6.30読了) |
世界史や日本史と同じようにふるさとの歴史を語ることが、学校教育の中にも必要なのではないかと思う。そこにある山や川や街をめぐって人々は何を行い、そしてどのように今があるのか。それを感じる必要が、それを教える必要があるのではないだろうか。この街で生きる意味を考える、そこから教育を始めることが大切なのではないだろうか。そうすることで初めて、世界と自分との距離、日本という国と自分との距離を実感することでできるのではないだろうか。こういった本が各地で書かれる必要があるのではと思う。 |
高田里恵子『グロテスクな教養』ちくま新書 2005(2005.7.31読了) |
この本は決して教養を語ることで何かを語ろうとしているのではない。著者自信がいうように、教養についての語りの単なる博物誌だ。「グロテスクな」と題にあるように、語り手自身が気づくことのないグロテスクさがそこには溢れている。だからといってそのグロテスクさを批判しているわけではなく、ただそこに戯れているだけというのが、この本の魅力だ。教養をめぐる言説の新しい「ステキ」な一面を引き出している本だと言えるだろう。 |
松平誠『駄菓子屋横丁の昭和史』小学館 2005(2005.8.29読了) |
駄菓子というとやはりノスタルジックな思いがしてしまう。僕の家の近くにも駄菓子屋があり、小さい頃は毎日のようにそこにいって、店のおばちゃんとあるいは集まってくる友達と話をした。もう随分前にその店はなくなってしまったけど、今の子供たちは何処に集まって、どんな話をしているのだろうかと思う。子供たちの民俗は今何処に行けば出会えるのだろうか。その変容も含めて、駄菓子屋についてはまだまだ考えるべきことは多いと思う。過ぎ去ってしまった昭和の歴史の一部としてではなく、現在を考える手段として本書は読まれるべきでないかと思う。 |
植島啓司『性愛奥義官能の『カーマ・スートラ』解読』講談社現代新書 2005(2005.9.27読了) |
今回も植島啓司です。ここまでくると植島さんは何を考えているだと若干いいたくなるが、まぁ、そうかとそれなりには納得はする。人間の性愛に関する精神状態というものは確かに考えることは多くあるだろう。しかし、やはりこんな本を読みたいわけではないと言いたくなってしまうのは、期待しすぎなのだろうか。 |
森正人『四国遍路の近現代』創元社 2005(2005.10.30読了) |
四国遍路のブームがある。映画などにも採りあげられたりと、若い人から歳をとった人まで、いろいろな形で、自分の思う様々な方法でお遍路に参加しているようである。昔とは随分と違う形に変容しているのだろうが、そこにある本質的なものはなんだろうかと思う。何故人は巡るのかと考え込んでしまう。確かに、著者が言うようにそれを宗教現象としてとらえるだけでは、不十分であるのだろう。自分の足で歩くことが大切と言われながらも、明治以降、資本主義経済の中で様々なものと結び付きながらその姿は変容して行く。そんな姿を見て行くと、確かに宗教だと主張するのもどうなんだろうかと単純に思う。しかし、逆に宗教現象から解離して行く姿にこそ、宗教的な意味があるのではと思ってしまう。はっきりとした宗教心などなくても、人はその巡るという行為に参加をしてしまう。人はなぜ巡るのだろうか。
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大塚英志『憲法力』角川oneテーマ21 2005(2005.10.31読了) |
そろそろ憲法の問題を真剣に考えないといけないのだろう。現状と憲法が相容れない状態ならば、どちらかを是正する必要は確かにあると思う。本当に現状を変えることは不可能なのだろうかという疑問はあるのだが、とりあえず憲法改正へと世論が動いていっていることは確かなようだ。日本国憲法を方言で読むという運動と同じように、大塚が提案している憲法前文を自分の言葉で書くというのは非常に意味のあることだろう。自分がどんな社会を望んでいるのか、それを素朴に語るということ、漠然とした思いを言葉に置き換えていくと言う作業。この作業がない限り結局どんな憲法も押し付けられた憲法でしかないのではないか。 |
田中宣一『祀りを乞う神々』吉川弘文館 2005(2005.11.21読了) |
神を祀るという行為は非常に多様だ。普通に考えれば、神とは、その力に恐れ、畏怖し敬い祀られるものであるのだろうけど、確かにただなんとなく神として認められているだけの神もいる。雑神という概念で著者は表現しているが、その神のあり方を考えるのは確かに必要のあることだろう。神でありながら雑多のものであるというある種の矛盾がもつ意味はなんだろうか。多神教の精神、あるいは神でないものが神となる作用のヒントがそこにはあるだろう。
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石原千秋『国語教科書の思想』ちくま新書 2005(2005.11.29読了) |
教育にわずかながらでも携わっているものとして、今の国語教育とは、道徳教育でしかないと言われると、確かにそのとおりだと思う半面、それじゃあ、ダメだろうと思ってしまう。確かに国語教育の内容理解とは、その思想や感情に共感することでしかなく、批判精神などはどこからも出てこない。でもやはりそこに立ち止まってはいけないのだろう。国語教育にかかわらず、教育の本質はコミュニケーションの能力を養うこと。コミュニケーションを単純に共感などに貶めてはいけないだうろ。 |
現代伝承論研究会編『現代都市伝承論』岩田書院 2005(2005.12.27読了) |
目次を見れば判るように、やはり都市民俗学は、都市には民俗があるのかといった問いからはじめるしかないようである。もちろん学問をする限り、その枠組み規定は必要なことであるが、そこで語られることは80年代から大して変わっていないのではと思ってしまう。民俗学者が都市を扱うことに負い目があるようにしか見えないのは、間違った見方なのだろうか。題名を都市民俗とはいわずに都市伝承と言ってしまうところに少し不安を感じてしまう。個々の論考はそれなりに面白いものが集まっているのだから、もっと素直に都市民俗学やってますといっていいんじゃないかと思う。 面白いと思う研究をしようと思えば、そこに都市という問題がある、そんな状態はいまや当たり前のことではないだろうか。たとえば、本書でも「よさこい系」の祭りの論文が載せられているが、祭りの研究はいまや都市という問題を考えずに研究することは難しくなってきているのではないだろうか。変な言い方になるが、民俗は伝承として不変であると同時に変容していくものだろう。その変容の要因に都市があるのはいうまでもない。祭りだけでなくもっといろいろなものが、都市の民俗あるいは民俗の都市化として考えられるべきだろう。小さなコミュニティーに目を向け聞き書きにこだわるのもいいと思う。「これが自分のやりたい民俗学だ」でいいだろう。面白いと思う研究をすること、それが一番だろう。 結局、都市に対するこだわりって何なのだろうかと思う。都市民俗学はいつまで迷走するのだろうか。 |