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佐藤哲彦『ドラッグの社会学』世界思想社 2008(2009.1.31読了)
 ドラッグについての議論がなかなか進まないのは何故だろうか。と問いかければ、ドラッグをニュートラルに捉える議論が少ないからだと相変わらず答えるしかないのだろう。10年ほど前の女子高生の覚醒剤問題の頃と対して変わらない。結局、ドラッグを捉える枠組み自体から議論しはじめないといけないのに、その議論ができていないのが問題なのだろう。果たして、ドラッグとは何なのか、その問いに正確に答えれる人がどれだけいるのだろうか。佐藤哲彦氏のようにドラッグを冷静に語る人が多く出て来ることを心から願うばかりだ。
檜垣立哉『賭博/偶然の哲学』河出書房新社 2008(2009.2.18読了)
 偶然に頼ることは、果たして悪いことなのだろうか。そもそも偶然と必然はどう違うのだろうか。このHPの最初にも語ったことだが、偶然を必然に読み替えるのは人間の側だろうと思う。世界の因果関係のすべてを、読み取ることができるわけがないのだから、必然以外のすべてのものが、偶然であるとはいえない。人は何ゆえに信じるのか、何処に神様はいるのだろうかと考えてしまう。偶然については、まだまだ多くのことを考える必要があるだろう。
横須賀薫監修、横須賀薫・千葉透・油谷満夫著『図説 教育の歴史』河出書房新社 2008(2009.2.26読了)
 教育を行うためには、常にどのような教育を行ってきたかを振り返る必要があるのだろう。このような教育を行ったから、必ずこうなるといったものも存在しないだろう。それこそそこにある因果律を読み取ることは困難で、教育は常にあやふやなものだろう。教育という正解のない問いのために、常に過去のあり方を知り、今を点検していく必要があるのだろう。
新谷尚紀『お葬式』吉川弘文館 2009(2009.3.19読了)
 日本人の死生観と単純に行ってしまうが、近代的な霊魂観とそれ以前とはやはり分けて考える必要があるのだろう。特に国家神道下における慰霊観は、ある意味特異であるのだろうし、現在の日本人の感覚にどのように影響を与えているのかは、しっかりと捉えていく必要があるのだろう。死が隠れさてなかなか身近に感じられなくなっている現代社会でこそ死は考えるテーマなのだろう。
山下晋司『観光人類学の挑戦』講談社選書メチエ 2009(2009.4.08読了)
 観光というよりは移動といった方がいいのだろう。何かを観たくて移動する行為と、何かを求めて移動する行為。どちらにしろ現代社会は様々な目的を持って移動をする。その移動が起こる原因をしっかりと見極めていく必要があるのだろう。そして、さらに移動によって何がもたらされるのかが、その次の課題だ。人類学が捉える世界は次々と変化していくということを忘れてはいけないのだろう。
山泰幸『追憶する社会』新曜社 2009(2009.05.26読了)
 追憶という言葉から、単純に葬送儀礼などの死者の霊を中心とした話であると思って手にとったけれども、異人論にはじまり、近代化の社会システム論へと話がどんどんと広がっていく。前近代的なものと思ってしまう霊などの概念が、近代・現代社会で如何に機能しているのかは確かに重要な問題だ。いや、前近代的なものと言ってしまうこと自体が間違いだろう。人が死者を追憶するのは当たり前のことで、社会はそれにより新たな動きを見せる。まだまだ面白いテーマがこのあたりには潜んでいるようだ。
奈良女子大学文学部なら学プロジェクト編『大学的奈良ガイド』昭和堂 2009(2009.06.24読了)
 地方分権が話題となる時代で、ご当地検定もブームとなっているこの社会で、奈良が何処まで全国に情報・メッセージを発しているかとなると、どうしても疑問符がつくだろう。たとえば大型書店の郷土本のコーナーに立てば、大阪や京都の本に比べれば、奈良の本が極端に少ないことが、よくわかるだろう。それも、奈良といえばどうしても古代になってしまう。もちろん、それに頼るのも悪いこととは思わないが、今、奈良で生きることをもっと考えないといけないのだろう。決して奈良は奈良町や飛鳥や吉野だけではない。バラエティーに富んだ様々な奈良の姿をみつめ、今の奈良を伝える本が、もっともっと多くだされることが必要なのだろう。
島田裕巳『無宗教こそ日本人の宗教である』角川ONEテーマ21 2009(2009.07.27読了)
 日本人の宗教観を如何に表すかは、常に大きな問題だ。日本教という言い方がどうもしっくり来なく、僕自身は、信じている何かはあるという意味で、無神論ではなく、無神教という言い方をよくしてきた。しかし日本人が神などいないと思っているかと言えば、決してそうでもなく、もう少しいい言い方がないかと思ってきた。だからといって無宗教という言い方がしっくり来るかといえば、そうでもないのだが、無宗教に価値を見出す行為は、日本人の宗教コンプレックスを拭い去るだけのものはしっかりとあるだろう。おそらく宗教という言葉の意味自体を吟味し、場合によっては解体していく必要があるのかも知れない。
市川秀之『歴史のなかの狭山池』清文堂 2009(2009.07.28読了)
 知らない人からすると、狭山池は地方の池ぐらいにしか思わないが、大阪の治水の歴史を考える上では非常に重要だ。数年前に訪れた狭山池博物館はまるでモニュメントのような感じのものだったが、確かに記念するだけの価値はあるのだろう。大阪は水の都でもあり、如何に水と共存していくかを考えていく必要がある。ましてやゲリラ豪雨など水の関わる自然災害が大きく変化してきている現代社会では、治水技術は大きなテーマとなるだろう。上下水道が完備された社会で生きていると治水を改めて考えることは無いけれど、人々は水と如何に関わってきたのか、人と水との生活誌を描いていく必要があるだろう。
青山健『ゾロアスター教史』刀水書房 2008(2009.08.19読了)
 日本語で読めるゾロアスター教関係の本が少ないのはある意味仕方ないとは思うが、様々な宗教に与えた影響、あるいは古代西アジア史での役割を考えると、もっと多くの研究がなされるべきテーマであろう。謎に満ちたゾロアスター教を大胆に説明し、今までの常識と思っていた知識が大きく覆される。もう一度、古代史を見直す必要があるだろう。また現代インドにまで視野が及び、歴史の中だけでなく、まさに現在の問題としても扱われている。ゾロアスター教が様々な問題を提供する大切なテーマだと改めて思い知らされる。
佐藤洋一郎・渡邊紹裕『塩の文明誌』NHKブックス 2009(2009.08.25読了)
 島国である日本では、古くから製塩技術も発達し、様々な塩の文化が生まれてきている。日本のイメージで塩を考えると、海水からの塩を得るのではなく、岩塩という形で塩を得るということや、あるいは塩害が重大な問題になることなどは、なじみの薄いものになってしまうが、負の部分も含め塩の多様な問題を考えていく必要があるのだろう。塩が人間が生きる上で必要不可欠なものであるのは言うまでもないが、環境という面からも上手く塩との距離をとっていく必要を改めて考えさせられる。少し見落とされがちな重要なテーマだろう。
沖野新一『民具の魅力』創風社 2009(2009.09.14読了)
 民俗学全体からすると民具を扱うものが少なくなるのは仕方ないとは思うが、もっといろいろな民具研究があってもいいのではと思うことがある。そもそも民具という概念自体を、現代社会を踏まえた上で、考え直す必要もあると思うが、とりあえずそれは横に置いたとしても、民具を研究する理由が何処にあるのかがよくわからないことがある。どんな民具があったのか、それをどのように使ったのかということも大切だが、それ以上に問題なのは、人の民具に対する感情であろう。人々がその道具にに対してどのような思いを持っていたのかを、もっとしっかりと記述していく必要があるだろう。人がいて民具がある。それがポイントなのだろう。
植島啓司、写真・鈴木理策『世界遺産 神々の眠る「熊野」を歩く』集英社新書 2009(2009.10.13読了)
 聖地は、常に気になるテーマだが、今回植島が選んだ聖地は「熊野」。僕自身も何度か訪れたことのある場所だが、確かに熊野は、聖地に似つかわしいなんともいえない重苦しさのある場所だと思う。写真がその重苦しさをよく伝えていて、また熊野に行きたくなってしまう。聖地は、巡り、彷徨い歩くことで、何かしらその本質が見えてくるものなのだろうと思ってしまう。
中山正典『風と環境の民俗』吉川弘文館 2009(2009.10.20読了)
 風を表す語彙がこんなにもあったのかと改めて驚かされる。昔の人はなんて風を感じる感性が豊かだったのだろうか。現代社会では失われてしまったその感性をしっかりと残しておくことは大切なことだろう。人は如何に風とともに生活をしてきたのか。如何に風が日常生活に密着したものだったのか。それを知ることで、改めて現代社会のあり様を考えることも出来るだろう。
真野俊和『日本民俗学原論』吉川弘文館 2009(2009.11.22読了)
 民俗学とはなんだろうという疑問は、民俗学を学んだものなら多分誰もが考える疑問であり、そしてなかなか明確な答えが得ることが出来ない疑問だろう。いろいろな人がいろいろなことを言うが、案外、原論と言うにふさわしい議論はなかなか無いように思う。自らのよって立つところが、はっきりしないのに、多くの人が魅せられる民俗学とは何なのだろうか。少なくとも自分自身が納得できる答えは必要だと改めて思ってしまう。
大東俊一『日本人の他界観の構造』彩流社 2009(2009.12.22読了)
 日本人の他界観を一言で語ることは当然できるわけがないが、いろいろな時代のいろいろな感性を語っていくことは大切なことだろう。そしてやはり気になるのが、現代人とのその感性の違い。そこに何かしらの構造を見つけることができるのならば、面白いだろう。
 
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