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若尾五雄『物質民俗学の視点B』現代創造社 1991 (2002.08.21読了)
  やっぱり若尾だ。その発想についていくだけで疲れてしまうのだが、とにかく、正しいだとか、正しくないといった考え方だけはやめないといけないだろう。このシリーズの最終巻であるからだろうか、まとまりもない分、前の二冊以上に跳躍力があるような気がする。
野家啓一『物語の哲学』岩波書店 1996 (2002.08.28読了)
  副題に「柳田國男と歴史の発見」とあるが、民俗学の問題というよりは、哲学者として物語、歴史、そして時間といった問題を扱ったものであるといえる。しかし、柳田國男の文字は伊達ではないだろう。物語る行為はつねに話者たる語り部の存在を要請し、その話者が大文字でないときにこそ、民俗学者が扱うべき問題がリンクしてくる。
坂村健『情報文明の日本モデル』PHP新書 2001 (2002.08.29読了)
  TRONという言葉を僕がはじめて聞いたのはおそらく10年以上前だろう。そして数年前にBTRONという言葉を聞いたとき、まだ頑張っていたのかと驚いたものだ。そして本書で再び驚く。PCのOSがウィンドウズやマックに独占されてしまったと思っている間に、非PCのOSでこんなにTRONが頑張っているとは。「時代がTRONに追いついた」という筆者の言葉は、決して大げさではないだろう。「超漢字」を思わず欲しいと思ってしまう。
堤一郎『近代化の旗手、鉄道』山川出版社 2001 (2002.09.08読了)
  日本の近代化を、特に民俗学的視点から考えるなら、交通という問題は決して少なくない比重をしめていると思う。明らかに交通の変化が生活に変化をもたらしたと言えるだろう。それは人間自身の移動でもあるが、それに加え情報や文化の移動が問題となる。そしてその交通の変化の主要なものに鉄道が挙げられる。本書は歴史の本であるから、民俗学的な問題に触れられているわけではない。しかし、鉄道に関する基本的知識がおさめられており、交通の問題を鉄道から考えて行くには大いに助けになるだろう。
関満博『現場主義の知的生産法』ちくま新書 2002 (2002.17.読了)
  本書の著者のように、現場にこだわるのは民俗学者だけではない。逆に民俗学者なら現場にこだわらなければならないというわけでもない。それでも「民俗学者をめざすなら現場にこだわりたい」と思ってしまう。ただ安易な現場主義に陥ってはいけないのだろう。現場に行けば必ず何とかなるわけではないのだから。本書を読んで一番感じたのは現場に対する愛情。現場から搾取するのではなく現場を育てていこうという思い。単に何かを採集するだけに落ちぶれた民俗学がもう一度「経世済民」という言葉を噛み締めるには格好の一冊であると思う。
大谷渡『大阪河内の近代』東方出版 2002 (2002.09.19.読了)
  近代化の問題を考えるとき、大都市でも地方都市でもなく大都市近郊の町に焦点を合わせることは、なかなか意味のあることではないかと思う。大都市の膨張とともに近郊都市自身も都市化・工業化され、ベタ塗りの都市へと変貌して行く。その中でいかに近郊都市が振舞ってきたかは非常に面白いテーマであろう。本書の著者自身は新興宗教の発展から研究を開始し、新興宗教の伸展と重なる形での都市の発展に研究領域を広げてきたようであるが、確かに近代都市化の問題には新興宗教がからむ場合が多くあるようである。さらにいうならば、新興宗教の伸展にだけではなく、交通や商業といった多くの問題が絡み合って近代の問題を形成していることに注意する必要があるのだろう。時代はまさに平成の大合併時代である。過去に私たちが歩んできた近代化・都市化の問題を考え直しながら、新たな都市づくりの糧として行くべきであろう。
田中聡『妖怪と怨霊の日本史』集英社新書 2002 (2002.10.04読了)
  『衛生博覧会の欲望』や『健康法と癒しの社会史』を書いた田中聡は、結構気になる人物で、日本史を非常に面白い視点から見ているという人だと認識をしていた。当然、この本も期待して読んだわけだが、正直少し期待はずれの感がある。題名通り妖怪や怨霊に関わる日本史の解説をしている本だが、どうも当たり前のことだけのような気がし、田中らしい独自の視点が感じられない。やはり田中は明治ぐらいに視点を当てた正史からこぼれ落ちるような異端の歴史にこだわったほうがいいのではと思う。
大森亮尚『悲のフォークロア』東方出版 2002(2002.11.14読了)
  もしかしたらこの本は民俗学ではないという人もいるかもしれないが、やはり民俗学であるといえると思う。歴史学であり、文学であり、そして民俗学である本だと思う。さまざまな名もなき人のいわゆるライフヒストリーを悲というキーワードで綴ったものだが、そこには民俗学が描くべきものが描かれていると思うし、民俗学が社会に対して還元できる何かがしっかりとあるような気がする。ただし、筆者の民俗に対するスタンス、言葉使いに関しては、すこし違和感を感じる部分もある。
赤田光男・香月洋一郎・小松和彦・野本寛一・福田アジオ編『講座日本の民俗学9 民具と民俗』雄山閣 2002(2002.11.30読了)
  この巻で、ようやくこのシリーズが出揃ったわけだが、一体とどうしてこんなにも出版が遅れたのだろうか。論文の最後に添えられている脱稿の年月日を見ると、2000年にはすべての論文が書かれているのに、何が原因だったのだうろ。最近、民具に興味を持つようになって、いろいろと民具に就いて知りたいのと思っているのに、なかなか民具の巻が出ないと、民俗学会は民具をやはり軽視しているのかと思わず疑ってしまう。具体的な内容を言うならば、基本的なバランスは取れていると思うが、やはり最後の「「民具」以後」の章は少し物足りなさを感じてしまう。ここにおさめられた二つの論文がダメというのではなく、民具以後すなわち、都市の問題を民具に関して考えるならば、まだまだ多くの問題が残されていると思う。
香月洋一郎『記憶すること・記録すること』吉川弘文館 2002(2002.12.23読了)
  フィールドのあり方について真摯に向き合いながら、香月が民俗学を続けてきたことが判る素晴らしい本だと思う。特に香月が注目するのは、伝承ではなくて、体験の語りである。体験自体は語られるために体験をするのではなく、第三者に語ることによってはじめて言語化され、確認されていく。それはまさに不完全性定理のように観察することによっておこる決定であり、「明示」と「隠蔽」がそこにある。そしてここから語りが始まる。ここには記憶という問題が横たわっている。また香月には時代による変化という視点がある。戦争体験を例にとり、過去として語られ始める時代に注目をする。それは昭和50年代前半であり、それ以前の沈黙の語りの意味を考えようとする。あるいは、民俗調査の中で、語りが「叙述」から「説明」に変化していったことに注目をする。これもまた記憶の問題だが、体験が語られるまでのあり方の問題なのだろう。フィールドについては考えるべきことはまだまだ多くある。とにかく、この本はオススメだ。
永江朗『インタビュー術!』講談社新書 2002(2002.12.25読了)
  人から言葉を引き出すのは非常に難しい。しかしただ言葉が語られれば、いいというわけではない。インタビューは当然モノローグではなく対話なのだから、インタビュアーの視点を考える必要がある。インタビュアーが何を思い、どう人と対峙するかの手本がここにあり、一読の価値はあると思う。また問題は、インタビューの仕方そのもの以外にもあり、インタビューをする空間の問題や、インタビュー後の編集という言葉の切り取り方の問題にもいたる。優れたインタビューは読み物としても楽しいという著者の言葉は、重みがあると思う。
旅の文化研究所編『絵図に見る伊勢参り』河出書房新社 2002(2002.12.29読了)
  伊勢参りや金毘羅参りといった宗教の形をとった人や物の動きは非常に重要だと思っている。近代社会は流動的で、民俗学の対象となりづらいといわれるが、江戸時代だって十分、動きがある筈だ。その流動性、交通の問題を考えていくことは、ひいては都市民俗の問題にもつながっていくのではと思う。
中島義道『<対話>のない社会』PHP新書 1997(2002.12.31読了)
  教育の末端に少しでも関わる者としては、対話のあり方はつねに考えているつもりである。一方的に語るだけではなく対話をする必要性を思い、さらにはどうすれば対話をする能力が身につくのかと考える。しかし、自分も含め上手く対話が出来ていないという思いは、常にのこり、もしその元凶が中島が言うとおり、思いやりや優しさならば、確かに思いやりや優しさをそれなりに大事にしている自分に気づく。確かに思いやりや優しさによる対話の圧殺という構図は十分に理解でき、主張することの重要性を感じるのだが、逆に優しさのあり方に悩んでしまう。
 
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