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青柳智之『雷の民俗学』大河書房 2007(2008.1.29読了)
 初めて群馬県を訪れたとき、名物が「雷とからっかぜ」だと聞いて、そんなあたりの前の天候のようなものが名物になるのかと少し面白く感じたことを覚えている。確かに北関東地方は雷が多いらしいが、雷は何処でも起こりうる現象で、身近なものなだけに、改めてその民俗・伝承となるといろいろと気づかされることも多い。天候という身近で生活に大きくかかわるものだけに、人が雷とどう向き合ってきたのかを考えるのは必要なことだろう。特に現代社会のような、世界規模での気象異常などがある中で、日本人が持っていた自然に対する考え方が、どのようになっていくのかも含め、大きな視野で自然と人間のかかわり方を捉える必要があるのだろう。
久保井規夫『絵で読む紫煙・毒煙「大東亜」幻影』つげ書房新社 2007(2008.2.19読了)
 こうして図版を多く並べてみると、煙草やマッチといった身近なものに戦争の雰囲気を読み取ることができ、なかなか面白いものがある。問題は、煙を通していかに戦争を見るかということになるが、煙草と阿片と毒ガスを単純に結び付けて語ることには すこし無理があるのだろう。個々のテーマごとにじっくりと図版を見ていく必要があるのだろう。
仲正昌樹『知識だけあるバカになるな!』大和書房 2008(2008.2.26読了)
 「考えることをやめるな」と、おそらく著者は言いたいだけなのだろう。そんな当たり前のことを丁寧に書いているだけの本だといえるが、そんな本を書かねばならない現状が問題といえるのだろう。ノートの取り方など、高校生ぐらいまでにこれくらいのことは理解しておくのは当たり前だと思ったりするのだが、ふと自分自身ができているのか、考えることをやめないで入るのかと問いかけると、イエスと簡単にはいえないような気がする。自分自身を改めて点検するにもこういった本を読むことは必要なのだろう。
松平誠『祭りのゆくえ』中央公論社 2008(2008.3.27読了)
 副題に都市祝祭新論とあるように、問題となるのは、都市の祭りだ。農村などで行われていた共同体が支えていた祭りは、随分と数が減り、都市集中といってもいいように有名な大きなお祭りに話題は集まる。当然、祭りの中心にカミがいることが少なくなり、観光やまちづくりが話の中心となる。そしてそこから、祭りは伝播・変容しながら広がっていく。社会の変化とともに祭りが随分と変わったのは確かだ。従来の祭りを支えていた共同体が失われた都市にこそ、大きな祭りが存在することからも、祭り自体がなくなっていくことはないのだろう。祭りの変容を追う中で、人々が祭りに何を求めているかを考える必要があるのだろう。都市の人々の心性のあり方を考える重要なテーマだろう。
萩原秀三郎『カミの発生』大和書房 2008(2008.4.8読了)
 「カミとは何か」という問いが民俗学の大きなテーマのひとつであることは言うまでもないが、ストレートに『カミの発生』と題するのはなかなかかえって心地よい。一元的にカミの発生を捉えていくことは無理があるとしても、常にカミのあり方を心に留めながら、作業を積み重ねていく必要があるのだろう。宗教とは関係のないように見える日常の様々な民俗の中にもカミを見る努力をしていく必要もまたあるのだろう。
菅田正昭『第三の目』Gakken 2008(2008.5.22読了)
 天目一箇命は気になる神様だ。鍛冶神として民俗学でも度々取り上げられているが、マイナーな神には違いなく、果たして何者だろうかという気がする。柳田の零落して妖怪になったという説なども個人的にはピンとこないと思ってしまう。鉄の問題は非常に大きいだが、案外、天目一箇命に取り組んだ本はなく、正面から取り組んだこの本は珍しいのだろう。ただし、題にもなっている重要な問題である筈の「第三の目」の扱いが少ないのが、少しもの足りなく思う。
高田公理/嗜好品文化研究会編『嗜好品文化を学ぶ人のために』世界思想社 2008(2008.5.27読了)
 あくまでも入門書であり、全体論として嗜好品の問題に深く入っているとはいいがたいが、ここのテーマはわかりやすく取り上げ、紹介されていると思う。ここから嗜好品というテーマをどのように読み解いていくかは様々な可能性があるとは思うが、人間の社会・文化、あるいは、人間そのもののあり方を考える上で、嗜好品は重要な問題であることは間違いないだろう。
浅利誠『日本語と日本思想』藤原書店 2008(2008.6.22読了)
 あまりにも身近にあるとゆっくりと考える機会がないのは仕方ないとはいえるが、日本語について改めて考える必要があると思う。所詮、日本語文法など日本人にとって大した必要性がないし、学校で習う日本語文法も使い物にならないひどいもののまま放置されてしまう現状で、言葉に敏感になれる状況があまりにも少ないと言えるだろう。特に助詞は「付属」語であり、あまりにも意識にのぼらない。助詞がほんのすこし違っただけで、大きく意味が変わってくることなどあたりまえで、膠着語であることの意味をしっかりと捉える必要があるのだろう。いったい日本語はどういった言語で、その枠組みの中で、僕らは何を考えるのか。日本語と思考のあり方、なかなか面白いテーマだ。
佐伯弘次『対馬と海峡の中世史』山川出版社 2008(2008.7.22読了)
 日韓の間の領土問題といえば、竹島だが、対馬もまた一部の韓国人が領有を主張していると聞くと、日本人としては何を馬鹿げたことをと思うのは当然だろう。もちろん対馬が日本に常に帰属して来たことは疑う余地はないが、果たして対馬という島の歴史をわれわれはどれだけ知っているのだろうか。日本が日本である枠組みとはいったいなんだろうか?常に朝鮮半島との窓口であった対馬の歴史をしっかりと捉えることこそが、日本という国のあり方を考えるのに必要なことであり、また竹島の問題を含め、日韓の歴史を考える基礎になるのではないだろうか。
日端康雄『都市計画の世界史』講談社現代新書 2008(2008.7.30読了)
 都市が持つ思想といえば、少し大仰だが、都市が何故そのようになったのかを考えることはなかなか面白い。四角い都市に丸い都市、城壁の有無、あるいは自然環境などの立地条件と考えるべきことは無数にある。そもそも都市とは何であるのだろうか。多くの人が集まり都市を形成するのか、あるいは都市が人をひきつけるのか。多くの都市を見れば観るほど、迷宮に迷い込んだような気がしてくる。都市で考えるために都市を考える必要がやはりあるのだろう。
水内俊雄・加藤政洋・大城直樹『モダン都市の系譜』ナカニシヤ出版 2008(2008.8.29読了)
 都市とはまさしく人々が生活する場であるからこそ、その空間をうまくイメージできないと都市論は、味気のないものになってしまうだろう。地図はそのイメージする作業を助けてはくれるが、なかなか簡単に読み取れるものではない。都市の歴史の積みかせねをうまく読み取っていく能力を養う必要があるのだろう。様々な都市の歴史のありようを特に戦争などの要因によって変化していく都市を見つめいていく作業は、非常に楽しい作業であり、同時にこれからの都市を考えていくうえでも大切なことなのだろう。
阿部潔『スポーツの魅惑とメディアの魅惑』世界思想社 2008(2008.9.27読了)
 メディアとスポーツの関係については、これまでに散々言われてきているが、やはりメディアを抜きにしてスポーツだけを語ることはほとんど不可能である。スタジアムに足を運び、生でスポーツを観戦することのみが、直接スポーツを感じれることなのかも知れないが、それすらもメディアから逃れることができていないのだろう。結局、スポーツはメディアの中でかっこよく見せられているのだろう。だとするならば、その中で、スポーツのよさを追求する必要があるし、逆にメディアによって切り取られるその行為自体を考えていく必要があるのだろう。多様なメディアの可能性を考えることが、スポーツの魅力の可能性になるのではないだろうか。
山川均『中世石造物の研究 −石工・民衆・聖−』日本史史料研究会 2008(2008.10.28読了)
 日本は、あくまでも木の文化が中心であるので、どうしても石の文化は忘れがちなテーマだと思う。日本の石の文化としてまず思い浮かぶものは、古代飛鳥のペルシア系の技術であるが、中世となると、自分が何も知らないことを改めて気づかされる。たとえば、伊派や大蔵派といった職能集団は、存在すら知らなかったが、それが、宋からもたらされた新しい技術であったことなどは、日本文化史を考える上で非常に重要なことだろう。本書で『波斯文書』について触れられたついでに、本書のテーマからは逸れてしまうが、個人的な興味で思いついたことを言うと、宋からもたらされた技術はペルシア系の技術との関係あったのだろうか。あるいは、日本古代のペルシア系の石文化と中世の石文化との関係あるいは断絶といったあたりはどのようになったいるのだろうか。どちらにしろ、石文化という日本史で忘れがちなテーマは、史料が少なくて、彼らの足跡を追いかけることは非常に難しいだろうが、なかなか興味深いテーマであると思う。
田中優子『カムイ伝講義』小学館 2008(2008.11.29読了)
 随分と前になんとなく読んだ『カムイ伝』だが(もちろん第1部だけ)、もう一度、再読をする必要があるなぁと思いながら、なかなか読まないでいた。確かに『カムイ伝』には江戸時代の歴史を考える上で様々な要素がちりばめられている。特に差別の問題や人々の生活の多様性など教科書には書かれないことも多くあり、そこに描かれる精神性をしっかり捉える必要があるだろう。ただしあくまでもフィクションであるということも忘れてはいけないだろう。たとえば、サンカの問題などもそうで、そこに潜むファンタジーを如何に認識するかも含めて、『カムイ伝』の描く精神を捉えていかなければいけないだろう。
鰺坂学・小松秀雄編『京都の「まち」の社会学』世界思想社 2008(2008.12.25読了)
 京都ほど大きなまちとなると様々な視点から切り取っていくことが可能なので、なかなか京都の全体像をつかむことは難しいだろう。特に京都は他のまちとは違う特異な点が多いといえるので、そういった点に先に目がいってしまうのも仕方ないことだろう。しかし、ひとつひとつのテーマを丁寧に扱っていくことこそが学問であり、町家、老舗、職人など様々な視点を提示してくれている本書は、京都の学問的魅力を多く引き出しているといえるだろう。もちろん、問題は京都だけでない、一般論としても、まちの魅力を考えるなかなかいいきっかけになる本だと思う。
鎌田東二『聖地感覚』角川学芸出版 2008(2008.12.28読了)
 「聖地とは何か」という問いは、なかなかの難問だ。確かに、聖地が過剰にあふれている感がある現代日本を考えると、聖地自体の問題を考えるよりは、「聖地感覚」が問題となるのだろう。特に第4章が文学のような勢いで書かれていることなどは、人間の側を問題にする必要があるということだろう。古代からの聖地が多くある大和に住んでいると近代的な聖地になかなか思い至ることがないが、移動、交通ということも含めて聖地に対する感覚を研ぎ澄ましていかなければいけないのだろう。
植島啓司『儲ける魂』講談社現代新書 2008(2008.12.31読了)
 単に買い忘れていて遅くなっただけだが、一年の締めくくりに植島啓司を読むのはなかなかいい。確かにいまさら植島が「賭け」について語っても・・・、それよりは、クマリについて語って欲しいとは思うが、相変わらず、賭けという行為が、あまりにも低く見られている日本では、少しでも賭けについて語ることは悪くはないのだろう。
 
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