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「郷土」研究会編『郷土 表象と実践』嵯峨野書院 2003(2004.1.31読了)
郷土という言葉のもつ力について考えないといけないのだろう。郷土は、地理的空間的概念だけというわけではない。いったい郷土は何処にあるのか。田舎ではなく都市にこそ郷土がある。郷土という言葉で何をイメージし、そこに何を求めるのか。まさしく内省が必要だ。与えられた画一的な郷土というイメージが先ずあり、それに対して現実にこの町に生きる自分がある。この町が自分の郷土であることの意味はどこにあるのかと考え込んでしまう。
上田正昭・鎌田純一『日本の神々』大和書房 2004(2004.2.5読了)
日本の神話となるとどうしても『古事記』『日本書紀』になってしまうが、それ以外のものの方が、面白いと思ってしまう。『風土記』と『古語拾遺』は一応読んだことがあるだが、『先代旧事本紀』は文庫にもなっていなくて、読む機会がなかなかないし、世間の評価も偽書説もあり高くなかったりする。しかし、物部系の物語というのは、地方では重要な意味がある場合もあり、民俗学などにも必要な視点ではないかと思う。そういった意味で、『先代旧事本紀』の復権をとう本書は、なかなかいい本だと思う。
橋爪紳也編『大阪 新・長屋暮らしのすすめ』創元社 2004(2004.2.22読了)
町屋の再利用ということがブームになっているようだ。大阪中崎町あたりは数年前からおしゃれな店が増えていると噂だったし、空堀商店街界隈もちょうど今年になって、中間達と歩いてきたところで、面白いまちづくりをしていると思う。その中崎町・空堀といった地域でので、長屋・町屋を使った商売の成功例の報告をしているのが本書。路地や町屋の写真がいい雰囲気を出しており、上手く利用すれば、古びた家や街もおしゃれにできるんだということが、よくわかる。もちろんまちづくりとして、これらが経済的にどれだけ成功しているかは、また別の問題だが、ひとつの方向性はよく示せていると思う。
松岡里枝『「ジンジャの娘」頑張る!』原書房 2004(2004.3.29読了)
インターネット神社で有名になった東京の愛宕神社の権禰宜による著書。神主としての生活が素朴に書かれていて、どちらにかというと、とっつきにくいところがある神社、あるいは神道というものを、いかに開かれたものであるか、シンプルに表現している。このポップさがホームページにいたる感覚なのだろう。神道はある意味リベラルなものだと思う。そのリベラルさがよく伝わる本だ。そういった意味で、今後のネットでの神社のあり方が、非常に気になるところだ。
遠山美都男編『日本書紀の読み方』講談社現代新書 2004(2004.3.31読了)
『日本書紀』をどう読むかというのは結構難しい問題だろう。基本的なスタイルとしてはその成立過程からしてもやはり歴史書であるが、歴史的事実をこの中から拾い集めるのはなかなか大変だ。本書は日本書紀を歴史資料としてどう読むかということが主題である。物語として単純に割り切って読むのが一番面白く読めるのだろうけど、だからこそ、歴史資料としての価値をうったえているようである。問題はやはり神話と歴史のあり方だろう。そしてさらに日本書紀のような書物からさらに神話が発生することも考えていかないといけないだろう。
大川玲子『聖典「クルアーン」の思想』講談社現代新書 2004(2004.4.29読了)
現代日本人はイスラームの知識が極端に不足しているいえるのではないだろうか。イスラームとキリスト教やユダヤ教の関係を理解している人がどれくらいいるだろうか。学問的に本書が何か新しいことを主張しているわけではないと思うが、非常にわかりやすく解説をしてくれている。また、第4章では日本人のクルアーン理解の歴史にも触れられており、単に正確な知識を提供するというだけでなく、過去のイスラーム理解の歴史を掘り起こすことで、現在にいたる日本人のあり方が見えてくるのではないか。こういった作業は非常に重要なのだろう。
フレッド・パイパー、ショーン・マーフィ『暗号理論』岩波書店 2004(2004.4.31読了)
インターネット社会において、セキュリティーの問題が盛んに議論されているわけだが、正直、その最前線で何が行われているのかは全く理解できない。もちろん理解できていなくても、社会は動いていき、自分の生活がとりあえず困るということはないのだが、せめて基礎的なことだけでも理解が必要なのではと思う。暗号の歴史から始まり、非常にシンプルに暗号を説明してくれているので、面白く読める。公開鍵などのインターネットセキュリティーの基本的な考え方も説明してくれているので、入門書としては非常にいい本であろう。
深沢徹責任編集『日本古典偽書叢刊 第三巻』現代思潮社 2004(2004.5.10読了)
「偽書」というのはなかなかいい響だ。嘘/本当の二分法を越えたところにその価値はあり、常に語られること、伝えられることに意味がある。吉備真備、安倍晴明、牛頭天皇と呼び出される固有名詞はいろいろとあるが、まさしくその名が魔法のように呪いのように力がある。偽書が作られる・語られる意味を考えることは面白いし、重要であると思う。中央の均質な世界ではなくて、独自の世界を作り出すための方法なのだろう。しかし、そう考えると「正史」もまた同じ事だ。支配のための方便を語るわけだから。結局、偽書を異端視する理由は何処にもない。偽書の生み出す世界をもっと見ていくべきだろう。
河合敦『藩校を歩く』アーク出版 2004(2004.5.25読了)
江戸時代の歴史を考えるとき、藩レベルで見る視点が必要でないかと思う。300ある藩はそれぞれ個性を持ち、独自の文化を作り上げていく。その文化形成の一つの役割を担うのが藩校であったといえるだろう。もちろん、民衆レベルの文化とはいかないが、藩校によっては、武士以外にも開かれており、それはやはり地域の気質・思想を育んでいったと言えるだろう。幕末から維新への歴史は藩校での教育が大きな流れを作ったと言えるだろう。しかし、藩校や藩政に関して、僕たちはあまりにも無知ではないだろうか。地方のあり方を考えていく上で、非常に重要な視点がここにあると思う。
浅羽通明『アナーキズム』ちくま新書 2004(2004.5.31読了)
自分自身でアナーキストの気があると常々思っていたのだが、破壊するだけのアナーキズム、夢みるだけのアナーキズムは、どうもそこに積極的によってたとうという気にはさせないでいた。ただそれもありだと思うだけで、そこからどうこうとはなかなか考えられないでいた。だから改めてこういう入門書を読むといろいろと気づかせてくれることがある。特にああっと思ったのは、自分がアナーキズムにあこがれる原点が松本零士のハーロックの世界だったということ。幼き時に見たそのアニメがどうも今の僕に影響しているようだ。「キミが気に入ったならこの船に乗れ・・・」このエンディングテーマは今でも歌えたりする。この歌にアナーキズムを見るのなら、もっと積極的にアナーキズムにのってもいいのかなと、短絡的に思ってしまう。リバータリアニズム、アナルコキャピタリズムも非常に気になる思想だし、もう少しアナーキズムについて考えてみたいと思う。
中沢新一・赤坂憲雄『網野善彦を継ぐ』講談社 2004(2004.6.30読了)
この二人が網野善彦について語るというのはよくわかることなのだが、そんなに網野善彦は歴史学会の中では異端だったのだろうか。民俗学者と宗教学者でしかない二人がこうして宣言せざるを得ないほど、歴史学自体は網野の意思を継ぐことが出来ないのだろうか。『異形の王権』や『無縁・公界・楽』など、網野善彦の本は単純に面白かった。だから歴史学は面白いのだと思えた。僕自身は何の弾みかはよくわからないけど、民俗学を標榜しているが、結局、こういった本を読むと思うのは、民俗学も歴史学も宗教学もないんだ、別にそんな区別はたいした問題じゃないだ、ということ。網野善彦の意思を僕も継げばいいだけだ。
上田紀行『がんばれ仏教!』NHKブックス 2004(2004.7.26読了)
 上田紀行が仏教にこだわるのはよくわかることだ。もちろんそれは彼のスリランカでのフィールドワークなどの経験からによるものだろうが、そんな経験はなくても、単純に現在の日本の仏教を考えると、このままでいいのだろうかと思ってしまう。お寺は本来、人が集まる場所である筈。寺を中心に寺内町、門前町が形成され、都市になっていったりするのだから、少なくとも昔はそこに求心力があったはずだ。寺自身にその力がある場合もあるだろうし、そこにいる僧が持っている場合もあるだろう。本書で語られる上田が出会った僧たちは、その力を持っていて魅力的なのだろうけど、同時に同時に寺自体の持つ魅力は何処にいったのだろうかと思う。寺という場が持つ力に就いて考える見る必要があるのだろうと思った。少なくとも「がんばれ僧!」ではなく、「がんばれ仏教!」なのだから。
小澤浩『民衆宗教と国家神道』山川出版社 2004(2004.7.31読了)
 日本では昔から、人が神になることができる。人を神に祀る伝統はある。しかし、生きた人が神になることはなかった。「現人神」「生き神」が生まれるのは、明治以降ということになるだろう。だからこそ、その二つを生み出した民衆宗教と国家神道に焦点をあてる必要はあるのだろう。どうして生きている神が生まれてきたのだろうか。もちろん本書がその答えを出しているわけではないが、一人一人の教祖を追いかけることに、そのヒントが隠されている筈だ。
布川秀男『もう取り戻せない昭和の風景[東京編]』東洋経済新報社 2004(2004.8.18読了)
確かに、こうして写真を眺めていると、これらの風景はもう取り戻せないんだろうなと思ってしまう。もちろん探せは、そんな風景はまだまだ多く残っているのだけれど、それは残骸のように残っただけで、生き生きとしたものは既になくなっていたりする。そんな生き生きとしてもものを見せることが出来る写真は、それだけで素晴らしいと、改めて写真の力を考えてしまう。解説などはほとんどなく、撮影年と地名だけが書かれた写真がひたすら並べられていることが、かえっていいのだろう。もう現実にはない世界だけれど、その空間がまだまだ拡がっていくような気がするステキな写真集だ。
川村善之『日本民具の造形』淡交社 2004(2004.8.22読了)
やはりこの本も、写真の力。モノ、物質を語るのには、写真あるいは場合によってはスケッチでもいいのだが、視覚情報が非常に重要になる。ただ、こうした本や民俗資料館を見たりした思ってしまうのは、それらの道具はあまりにも静的であるということ。ただ陳列されている道具にはいまいち力を感じない。それを使っている人も一緒に、写せばいいのにと思う。人とモノと。その関係性が大切だと思う。
鎌田東二『呪殺・魔境論』集英社 2004(2004.9.29読了)
魔境について正面から論じている本はほとんどといっていいほど存在しなかった。ただ、その一点をおいてだけでも本書は非常に重要な意味のある本だといえるだろう。魔境とは何であろうか。「心の闇」なんて陳腐な言葉でわかった気になるのは馬鹿らしい。それでは語ることを拒否するのと同じことだ。その境地はどうして「魔」なのだろうか。そもそも「魔」とは何なのだろうか。安易なイメージの中で、あまりにも言葉が貧弱だった。もっと多くの人が魔境について語らなければならないだろう。本当にその境地は「魔」なのだろうか。それとも至福の時なのだろうか。悟りという問題も含め、人間の心のある種の状態をしっかりと捉えていく必要があるのだろう。
新田一郎『中世に国家はあったか』山川出版社 2004(2004.9.30読了)
日本史自体の持つ問題を考えるとアイロニカルに響く題名が非常に素敵だと思ってしまう。「中世に国家はあったのか」と問う前に本当は「中世」も「国家」も日本史では非常にあやふやな概念でしかないことを考えないといけない。しかし、それでもなおこう問いかける筆者には却って真摯さを感じてしまう。問いに対する直接的な答え、yesだとかnoはどうでもいいことだ。当たり前に感じ、当たり前に使っている言葉をこそ問題にするべきで、そこから日本史、ひいては日本という地域自体の持つ問題があぶりだされるのだろう。手前で立ち止まらないために、根本的なところから問い直す必要があるのだろう。
大月隆寛『全身民俗学者』夏目書房 2004(2004.10.13読了)
大月隆寛が今でもこういった本を出してくれることは非常に喜ばしいことなのだが、10年も前の論考がほとんどだということが、やはり物足りない。一番新しいのでも7年前。やはりもう民俗学を捨ててしまったのだろうか。それほどこの国之民俗学を語ることは困難なのだろうか。言い散らかすだけでもいいから、もっと言いたいことはいっぱいあるのではと思ってしまう。
野矢茂樹著、いとう瞳絵『ここにないもの 新哲学対話』大和書店 2004(2004.10.26読了)
最近の野矢茂樹の本は時間がゆっくりと流れているような気がする。目の覚めるような刺激はないけど、立ち止まって大空を見上げながら、雲でも眺めているような感じ。そして雲の形に思いをめぐらす。何の意味があるか解らない。考えるよりは思うに近い哲学だ。
子安宣邦『国家と祭祀』青土社 2004(2004.11.12読了)
靖国問題を語られるとき、多くはA級戦犯が問題とされるが、結局それはテクニカルな問題なのだろう。問題は神道を世界の他の宗教と比較したときどう捉えるかであり、さらには日本思想史の中での国家神道の位置付け、そして国家と宗教という問題なのだろう。祭政分離はありうるのか。日本人としての素朴な感性の国家のレベルになったときにくる違和感はなんなのだろう。日本人にとっての神とは何なのか、という問いからやり直さないといけないのだと思う。人を神に祀るということの意味を含めて。
大塚英志『「伝統」とは何か』ちくま新書 2004(2004.11.29読了)
作られた伝統という議論はもはやありふれたものになった感もあるが、その虚構性を暴くだけでは、民俗学としてはいけないのではないかと思う。その伝統の中で生きる人々の心性を捉えていく必要があるではと。もちろん、大塚の意図は作られた伝統をわかりやすく解説しようとしているだけであり、伝統の消費者に対する啓蒙書でしかないといえる。しかし、伝統の消費者という言葉をつかった段階でそこに生きるひとの姿が見えてくるよな気がする。消費することがいいことか悪いことかは置いておいて、消費財としての伝統を考えないといけないのだろろう。
鈴木武雄『和算の成立』恒星社厚生閣 2004(2004.12.31読了)
やはり、数学といえばどうしても西洋のイメージがあり、日本の数学、和算にまだはどうしても考えが及ばない。三角関数を使うなどレベルの高いことは知っていても、ほとんど和算についての知識はないに等しい。研究自身も遅れていているらしく、手軽に読める本が少ない中、和算に関する本が出版されることは歓迎されることだろう。謎に対して仮説を立ててどんどんと進んでいくそのスタイルには、合点がいかないことも多々あるが、和算史を考える上では非常に面白く読めると思う。
 
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