「彼の愛し方」

                                     
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冬の季節を迎えたオールブルーは、「青」ではなく全てが「白」に包まれる。
長期滞在の客の為のホテル、沖に浮かぶレストランなど…
オールブルーにある建物が雪で損傷しない様に手を入れるために、サンジだけが島に残る。

およそ、2月近くは海も凍りつき、サンジは雪に埋もれる様にして、たった一人で過ごす。
サンジの息子とも言えるウソップの息子ジュニアも、その間は海軍の士官学校で、
コック達はそれぞれの故郷に戻る。

凍りついた海を歩いて、サンジの元を訪れるのは、今や世界一の剣豪となったロロノア・ゾロだけだ。

けれど、その冬は違った。

* **

(…畜生…。参ったな…)
サンジは、喉の痛みに顔を顰めて、ベットの中で寝返りを打つ。
長く伸びた蜂蜜色の髪が寝汗に濡れて、束になり、それが首筋に纏わりついて、気持ちが悪い。
薪ストーブの中の薪が燃えつきかけていて、そろそろ薪をくべ足さなければならないのに、
体が重たくて起き上がれない。それに、せっかく悪寒が少しはマシになったのに、また起き上がって、冷えたベットに戻り、体を丸めてガタガタ震えなければならなくなるのも嫌だった。
(…メシを作るのも、面倒だな…熱が下がったら、スープでも飲めばいいか…)
そう思って、ウトウトまどろみかける。
(ああ、…誰か、ストーブに薪をくべてくれねえかな)と思って瞼を持ち上げるけれど、
当然、誰もいない。

一昨日の夜あたりから喉が痛み始め、昨日の夜には熱が39度もあがった。
一人きりなのだから、誰も看病などしてくれないし、当然、食事も自分が作らなければならない。
オールブルーでこんな風に気まぐれに訪れる冬を何度もこうして一人で過ごして来たけれど、体調を崩すのは初めてだ。

(…こんな時に、…帰って来てくれたら…惚れ直すのにな…)
目が覚めたら、薬が効いて、体も少しは軽くなっているかもしれない。
とにかく、眠る。そうなってから、薪を足そう、そう思ってサンジは目を閉じた。

どのくらいそうして眠っていただろう。
火照って、鈍く痛い頭の上に、ひんやりと冷たい布が宛がわれて、その心地良さにぼんやりと夢から醒めた。

薪がくべられたストーブは赤々と勢いよく燃えている。
そのストーブの上には、鍋が置かれて、湯気が立ち上っているのがぼんやりと見える。

まだ姿を見た訳ではないのに、サンジは体から力が抜けるほど安心した。
目だけを動かして、ここに帰って来た筈のゾロの姿を探す。

だが、ベッドの中のサンジに微笑みかけたのは、思いもしなかった群青色の瞳だった。
「…目が覚めましたか?」
「…ライ…?」

心の中に、微かに落胆が過ぎった。
こんな病身の時だから、甘えたり、我侭を言ったりしたい。
ゾロがここにいる、と思った瞬間に、そんな期待がサンジの胸の中に溢れていた。
その事に、ライの顔を見て初めてサンジは気付く。
その気持ちが、迂闊にもそのまま口をついてでた。
「…お前だったのか」
「すいません、…ロロノアさんじゃなくて。ガッカリしましたか」

サンジの胸の内を悟ったかのように、ライは小さく、クス…と笑う。

出会った頃はまだ幼い少年だったのに、今はサンジよりも背が高くなり、肩幅も広い。
たくさんの冒険を過ごしてきた結果、人よりもずっと歳をとる速度が遅くなったサンジと違って、ライは歳を重ねるごとにどんどん年齢相応の風貌になっていき、
今、事情を知らない者が二人を並んでみたら、同じくらいの年齢だと思うだろう。

ここ数年で、ライは風貌だけではなく精神的にもぐっと大人びた。
海軍での立場や私生活でもライは苦労ばかりしている。その所為なのか、これくらいの年嵩の青年にしてはかなり落ち着いている方だろう。

「…まさか、風邪を引いて寝込んでるなんて思ってませんでした。僕が来なかったら、
こじらせて大変な事になったかも知れませんよ」
そう言いながら、ライはサンジにカップに注いだスープを差し出した。
「…助かった」サンジは強がらずに素直にライに微笑む。

* **

甲斐甲斐しくライが介抱してくれたおかげでサンジの熱も翌々日には完全に下がった。
自分とゾロだけが過ごせればいいと思って作ったこの冬しか使わない小屋の中は大柄なライには狭いらしくしょっちゅう、けつまづいたり、テーブルの端にぶつかったりしている。

(…何しに来たんだ?)
ライがサンジの元に訪れる時は、とても辛い事があった時だけだ。
自分から甘えて来る事は絶対にない。いつもと変らず、弱音を吐かず、弱みも見せずに、サンジの元では常に穏やかに静かに過ごそうとしているけれど、心に負った傷の深さは、幼い頃からつかず離れず見守ってきたサンジには分かる。

きっと今回もそうだろう。

何があった?と聞くのは野暮だ。もうライは多感な思春期の少年ではない。
悲しみも、苦しみも一人で越えて行けるぐらいに強く逞しくなっている。
けれども、一人で抱えきれないモノがあるから、ここに来たのだ。
それが分かっている以上、そ知らぬ顔は出来ない。

何度目かの夕食を二人で向かい合って食べている最中に、
「ライ。お前、いつまでここにいるんだ?」とそれとなく、尋ねた。
「俺がここにいたら、迷惑ですか?」ライは、またそう言って、ニッコリと笑う。

「そっか、ロロノアさんが何時帰ってくるかわからないですもんね」
「…バカ、そんな事気にしてるんじゃねえよ。休暇はいつまでなんだって聞いてるんだ」

ライは、海軍でも特に最前線で戦う部隊に属している。
海軍の中でライ達の部隊の事を知らない者はまずいない程だ。
それほど勇猛果敢で有名な部隊で、ライはその一小隊を率いている。
ライの部隊が出張って、世界政府が一気に形勢逆転した海戦も一度や二度ではないし、
大海賊と呼ばれる大艦隊を率いる海賊とも何度も戦って、度々勝利を納めている。
要請があれば、世界政府に属している国の内戦の制圧に派遣される事も少なくはない。
長い休暇を貰って、暢気にブラブラ出来る身分ではないのだ。

「…そうですね…。サンジさんも元気になったから、明日帰ります」
そう言って、サンジの問いに明確に答えず、ライはまた曖昧に笑って、けれど少し目を伏せた。

その仕草を見ただけで、サンジはライが本当の気持ちを胸の中に仕舞い込んだ事につく。
ライは、自分の目の前にある水が注がれたコップに手を伸ばす。
その手は空を掴み、探るようにその手が動いて、何事もなくグラスを掴みなおして、
ライはその水を一口、口に含んだ。

「…何か…あったんだろ」
「…いいえ。サンジさんの顔を見に来ただけで、特に何も…」

ライは、そう言って、サンジから完全に目を逸らす。もう、甘えるようなじゃれるような素直な笑顔は掻き消えていた。

サンジに言える位の辛さなら、ライはもうとっくに吐き出している。
サンジにすら言えない辛さを隠そうとしているから、余計にサンジは放って置けなくなる。

けれど、それなら尚更、無理に問い詰めてもライは絶対に言わないだろう。
胸に苦しみを詰め込んだままのライを黙って見送れない。

* **

本来なら、ゾロと枕を並べるべきベッドで毎晩二人は眠る。
ライは遠慮したけれど、そこしか寝る場所がないのだから仕方がない。

「…どうやったらそんなに育つんだよ。昔は俺より背が低かったのに」
サンジは毎晩そう言って、寝床の中でライの脛を蹴っ飛ばした。

その度に、ライは本当に嬉しそうに無邪気に、少年の頃のままの顔で笑う。

最後の夜も同じ様に、妙に遠慮しあった距離で向かい合って横になり、話をする。
何故か、出会った時から今日までの思い出話ばかりがライの口から出て来て、その間、ライはずっとサンジの顔を見つめていた。

その瞳を見つめ返すと、その中には今にも堰をきって溢れそうな悲しみが閉じ困れられている事が分かる。

「…昔の事はもういい。…俺は、これからお前がどうやって生きて行くか…」
「…幸せになろうとしてくれるかを聞いておきてえな」
ライの話が途切れた時を狙い、サンジはすかさずそう言葉を挟んだ。

「…お前は、俺にとって大事な弟みたいなモンだ」
「いつまでも、一人で苦しい事や悲しい事を抱えてるトコを見るのは辛エ」
「もう一回、…お前が背負ってるモノを一緒に背負ってくれる人を探さなきゃ」
「…そんな人、要りませんよ」
ライはそう言って、何かを思い出すように、ゆっくりと瞬きをする。

「…僕が欲しかったのは、一緒に幸せになろうとしてくれる人、幸せにしたいと思える人です」
「…でも、もういいんです。僕は死ぬまで、このままで…」
そう言って、ライはまたじっとサンジの顔を見つめる。
瞳が悲しげに緩んで、けれど、悲しみ口元だけが柔かく、優しく微笑んでいた。

「…そんなやさしい事言われると、…甘えたくなるじゃないですか」
「…甘えればいいだろ。その為にここに来たんじゃねえのか」
そう言ったけれど、ライはまた笑って、
「…まさか、サンジさんを独り占め出来るなんて思ってなかったです」
「最期の最後に、いい思い出になりました」と目を閉じた。

(…最後の最後ってなんだ)
また、ライはとんでもなく危険な任務に赴くと言うのだろうか。
決死の覚悟だから、そんな言葉を使ったのか。
心地良さそうに、幸せそうに寝息を立てたライの顔を見て、サンジはますます気になり、
その夜はなかなか寝付けなかった。

* **

サンジは、翌朝、ライが起きる前に海軍本部に電伝虫を使い、ライについて問い合わせた。
すると、「戦闘中に負った怪我の治療の為、現在、長期療養中。近日中に、手術の予定」と言う答えが返って来た。
世界政府から、オーブルーの支配権を与えられているサンジが、海軍の情報を手に入れるのは簡単だ。

「怪我?」「戦闘中の怪我による血瘤が脳内に出来て、それが左目を圧迫して、現在、ミルクさんの左目は殆ど見えていないそうです。手遅れになれば、右目の視力も失うそうだし、血瘤が頭の中で破裂したら即死だそうですし。で、早急に手術の必要があるとか」

手術そのものも、失敗すれば、死ぬだろうし、例え命が助かっても、記憶や、言葉を失う事もある。
あるいは、子供でも出来る計算すら出来なくなる可能性もあり、視力を取り戻しても、
もう元のライではなくなってしまう、非常に危険な手術だと言う。
(…なんだってそんな事を…何も言わないで…)
電伝虫の受話器を置いた自分の手が、戦慄いているのをサンジは止められなかった。

そうなった時の怖さ、心細さはとても一人で抱え込んでいられるものではない。
かつて、海賊だった頃、同じ様な経験をしたから、サンジにはその怖さが良く分かる。

(…手術を受ける気なのか…それとも…)
まだ眠っているライが何を考えているのか、サンジはまだ見透かせない。

生きる事に執着のないライの事だから、もしかしたら、サンジに会ってもう思い残す事はないと、命を自ら断ってしまうかも知れない。
それとも、サンジに助けられた命だからと自ら死ぬ事はせず、なるようになると失明する事も甘んじて受け入れる覚悟があるのかも知れない。

いずれにせよ、自分の未来に希望を持っている様にはとても見えなかった。

(…俺はこいつにどうして欲しい…?)
サンジは瞼を閉じたままのライの寝顔を見つめる。
眠っているとばかり思っていたライは目を閉じたまま、まるで寝言のような声で、
「…酷いな。僕のプライベートな事なのに、勝手に聞きだして…」とサンジに拗ねて見せた。

「…こんなトコまで来て強がっても仕方ねえだろ」
「…どうする気だ」
溜息交じりにサンジにそう言われて、ライは体を起こす。
「…まだ…決めてないです。命が助かって目が見えるようになっても、僕は何かを失う」
「…それが怖くて…決められない」
「…困ったな。絶対に言わないつもりで来たのに…ホントの事知られるなんて」
ライはそう言って、他愛ない事を詰られただけの様にほろ苦く笑った。
そして、
「…サンジさんは、僕にどうして欲しいですか?」
「どうせ知られちゃったんなら、…サンジさんの言うとおりにします」
「俺の命は、いつだって、サンジさんのモノなんだから」と真っ直ぐにサンジを見た。

「手術を受けなかったら、両目とも見えなくなる」
「その上、いつ、突然死ぬかわからない。でも」

ライはそこで一度、言葉を詰まらせた。
大人ぶって、強がっていた心のバランスがぐらつく。
今まで胸に詰め込んで、膨れ上がりそうになっては押さえていた感情が一気にライの中から溢れてくる。それが目の前で良く分かった。

思わず、サンジはライの大きな手を握る。
その体温と肌の感触を知っているのは、おそらくこの世ではサンジ一人きりだ。
素肌を、手を人に触られる事を徹底的に拒絶するほどライは心に深い、癒しようのない傷を負っていて、常にその手には手袋を嵌めている。
だから、素手になるのはサンジの前でだけだ。

その手をサンジはそっと労わる様に包んで、傷や痛みを取り除くように優しく撫でた。

「…でも、サンジさんの事を覚えていられる…」
そう言った途端、ライの目から透明な雫がポトリと零れ落ちた。

「…サンジさんを独り占めして看病した事も…助けてもらった事も、こうして俺の手をなでてくれる事も、全部、忘れてしまうんなら、…目が見えなくなってもいい…」
「サンジさんを忘れるくらいなら、…死んだ方がいい」
「…サンジさんを忘れてまで、…僕は」

「…生きたいとは思わない」

ライはそう言った。
これ以上取り乱す姿を見せまいと、歯を食いしばって、笑おうとしているけれど、その目からはとめどなく涙が溢れ出して、頬を伝っている。

「…お前は…ホントになんで…何も言わねえんだ…」
サンジは思わず、そう言って、唇を噛んだ。

確かに、ライは海賊を相手に戦っている。
当然、ライに命を奪われた者もきっと大勢いる。
だが、それを罪とし、それを雪ぐ罰としててこんなに苦しみや悲しみばかりをライは背負わなければならないのだろうか。

本当に何もかもを諦めたのなら、涙など流さない筈だ。

ライは生きたいと思っている。
例え、欠片ほどしかなくても、こうしてサンジが与える幸せや喜びを大切に大切に抱えて、
愛されなくても、月が地面を照らす様な愛でサンジを想い続けて、それだけを生きる意味として、そんな人生でも、ライは生きたいと思っている。
願っても、叶わないと諦めずに、死にたくないのなら、生きたいと願うのなら、生きたいと強く思って欲しい。

「…お前は死んじゃいけねえ」
「まだ、…お前は一度も幸せになってねえ」
「いいえ」

ライは、最後の涙を、心に残る全ての未練を断ち切るように深く目を閉じた。
「もう、…十分幸せです。これが僕の領分だから」
「…僕が死んで、サンジさんが泣いてくれるなら、…それだけで僕は…」
「…幸せな人生だって言えます」

そう言って、泣き笑いするライの群青色の瞳が、いつまでも胸に焼きついて、サンジは
その悲しそうな光を忘れる事が出来なかった。


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