「未来へ繋ぐ想い」


ライは、声が震えそうになるのを堪える為に、一度、口を閉ざし、サンジを見上げた。
その青い瞳が潤んで、揺れている。

今にも、その縁から零れそうになる涙に、ライの視線が惹き付けられた。

視界が狭く、ぼやけて、いつも霞が掛かっているようにしか見えなかったのに、
この時になって奇跡が起こったかの様に、その透明の雫は、はっきりとあざやかにライの目に映る。

その雫の中には、言葉に出来ないサンジの気持ちがぎっしりと詰まって、キラキラと煌いていた。

(…たくさん、話したい事があったのに…)と昨夜、寝入る直前まで思っていたのに、
その内容が今、一つも思い出せない。

幸せで、満ち足りて、欲しいものなどもう何もなかった。
ライが望んでいたモノ全てを与えられ、その欲深さを全て許され、全てを受け入れて貰えた。

そう確かに思える。

こんな気持ちになれた事は、生まれてきて一度もない気がする。
胸に温かな空気が満ちて、今にもはちきれてしまいそうだ。

昨日は、もっと生きていたいと思った。途端に、死ぬのが怖くなった。

なのに、体から溢れそうなほどの幸福感に包まれているばかりで、
サンジを見上げている今、ライは命の終わりを全く感じない。

この絶対的な幸福感、満ち足りた気持ちは、永遠に消えはしない。そんな気さえする。
ただ、ライはこの感覚を器用に言葉に出来ない。

正確に、詳らかにサンジに伝えるには、言葉では拙すぎ、そして、時間がなさ過ぎる。

ライは、黙ってそっとサンジに手を差し出した。

悲しむ事など何一つない事、自分が今、かつて、感じた事もない程の幸福感に包まれている事を
自分の体温に込めて、サンジに伝える為に。

手袋を嵌めないそのライの手に触れられるのは、世界でサンジしかいない。

そして、サンジの両手が、祈りを捧げる様にライの手を包む。

気まぐれな春のそよ風に、
水面に散り浮かんだ花びらがゆっくりと静かに音もなく吹き寄せられるのに似た自然さで、
それぞれの体に宿る二つの魂が触れ合った。

ライの心と、サンジの心がゆっくりと重なる。

本当に、一つの心臓を共有しているかの様に、
サンジの悲しみをライは自分の胸の痛みとして感じ、
ライの歓びがサンジの胸に響いた。

サンジの心臓の鼓動の音が、今確かに聞える。

(…知らなかった…)ライの心が驚きで震えた。

人同士は、こんなにも心が通う。手を繋ぐだけで、こんなにも心が繋がる。
想い合えば、こんなにも魂が触れ合う。

サンジの手の温もり、サンジの涙がライにそれを教えてくれた。
他の誰からでもなく、こうしてそれをサンジが教えてくれた事がライは堪らなく嬉しい。

ライに生きて欲しい。
生きたいのだと、形振り構わずに望んで欲しい。
自分と言う人間を、もっと惜しんで欲しい。生きて、誰かと愛し合う幸せを掴んで欲しい。
そう願うサンジの気持ちが、息が出来ないくらいに切なく、ライの胸に伝わってくる。

貴方は、…僕を惜しんでくれるんですね

その言葉が、喉に痞えて出て来ない。その代わりに、ライはサンジの手をしっかりと握り返した。

例え、冥府に落ちた後、百万本の香華を手向けられるより、
ライの魂には、サンジの涙、その一滴が救いになる。

「…僕は、ずっとわからなかった」
「どうして、僕は生まれてきたのか、僕が生きて行くことに、一体なんの意味があるのか…」
「…その涙を見る為に、貴方に出会い、今まで、生かされたんだと…」
「そして、今、…僕は、ここに辿り着いたんですね…」

そう言った自分の声は、本当に声なのか、それとも心の中で呟いた声だったのか、
自分でも分からない。

「人の心の中には、こんなにもたくさんの優しさや温もりが詰まってるって事、
「…僕は怖がらずにもっとたくさんの人の手に触れて、…知るべきだったんです」

「…今からだって遅くない」




そう言ったサンジの声までもが涙に濡れていた。
そうして、ライだけを見つめ、涙を流すサンジの美しさに、目だけはなく、
心までが惹き付けられて、瞬きすら出来ない。

泣き腫れて少し赤みのさした頬の色、少し乱れた髪の艶、陽光煌く広い海原を思い出さずにはいられない、青い青い瞳、華奢な肩、ほっそりとした首。

例え、長い麻酔から醒めて、その先長い人生を生きる事が出来たとしても、
こんなに美しい人に会う事は、きっと、もう二度とないだろう。

そう思いながら、ライは一度、深く瞬きをする。


今を逃せば、きっとこれからも同じ事の繰り返しになる。
今こそ、サンジと、サンジを慕い続けた日々とに別れを告げる時だ。


幸せになれと願ってくれる、サンジのその気持ちに応える為に。
そして、自分自身が辛い過去の傷から解き放たれて、今度こそ本当に自由になる為に。

生まれ変わったら、サンジの心臓になりたい。そう願う気持ちは今でも変りない。
だから、ライは微笑んだ。

この手を離した後、もう二度とサンジとは逢わない。
そう決意しながら、ライはゆっくりとサンジの手を解いた。

「…サンジさん」



別れの言葉は、「さようなら」でも、「ありがとう」でもない。



必ず、また逢いましょうね



それは、嘘でも強がりでもなく、笑顔で別れる為の、ライなりの精一杯の言葉だった。


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