降りしきる雪の中、ライは真っ暗な海を何を眺めるでもなく、ただじっと見詰めた。

行き場のない愛しさが体を熱くし、体感温度は氷点下にもなる海の上に突っ立っていても、
寒さは全く感じない。

苦しくて、溜息さえ吐けなかった。
涙も嗚咽も漏らすまいと、ライは唇を噛み締め、船べりに座り込む。
頭を抱えてうずくまると、却って悲しくて堪らなくなった。

(…会いに来るんじゃなかった…)その後悔がライの胸を締め付ける。

成功率の低い手術など受ける気は最初からなかった。死ぬのなら、いつ死んでもいい。
ただ、最後に一目、サンジの姿を見て、サンジの作る料理を食べる事が出来れば、それで満足して、死んでいける。

サンジが恋しくて愛しくてならない、けれど、決して報われる事はない。
それは十分分かっているのに、魂にまでこびりついたサンジへの想いはどう足掻いても断ち切れなかった。

そして、それほどの想いに抗えずにサンジに近寄れば、必ずライは傷つく。
サンジの深い思いやりと優しい労りに、何度、ライの恋心は抉られ、傷つけられてきただろう。

最期だからこそ、遠くから一方的に想い、ひたすらに慕いながら、愛しさだけを抱き締めて、ひっそりと死んだ方が楽だったかも知れない。
今更になって、ライはそう思う。

ライを愛せない、その想いに応えられない。
それをサンジが苦痛に感じるのなら、いっそ会いに来なかった方が良かった。

ただ、想う、ただ、側にいる。それだけでもサンジには重荷になる。
ライの想いが、ライの存在が、想えば想うほど、例え、見返りなど何一つ望んでいなくても、その無償の愛さえ、サンジの重荷になってしまう。

それがライには辛かった。辛くて、堪らなかった。

(…僕は…例え、ロロノアさんが側にいても、それであなたが笑っていてくれるなら、
…その方が…ずっと…いいのに)心の中でそう呟いて、ライは眼を瞑る。

(…今すぐ、消えて無くなりたい…)
死ぬのではなく、目の前に限りなく広がる、海の闇に溶けて、掻き消すように。
そうやって、消えてしまえれば、全ての苦しみから解放されて、楽になれる。

そこまで考えて、ライはフっと思わず自嘲する。

(…そんな事考えなくっても、…どうせ長くないんだっけ…)

今まで、ずっとこの苦しみに耐えてきたのだ。
そうやって、苦しんだ時間の長さ、深さは、サンジを想い続けてきた証だとも言える。

(…最期の最期まで…この苦しさを、全部、心に留めておこう)

体にかんじる苦痛ではなく、胸の内を掻き毟られるような熱く切ないその痛みは、
サンジだけが与えてくれるモノだ。

ライはそう思い、そして、船の中にいるサンジの事をまた考える。

自分の言葉が、ライを傷つけた事をきっとサンジは後悔していて、胸を痛めているに違いない。

それを考えると、またライの目の奥と心がジンと痛くなる。
(…サンジさんが、…僕の事を考えてくれている…)そう思うだけで、ライは泣けてくる。
幸せで、嬉しくて、切なくて、涙が目の縁から溢れそうになる。

「…お前は死んじゃいけねえ」
「まだ、…お前は一度も幸せになってねえ」

心の中に、しっかりと刻み込まれたサンジの言葉をライはもう一度思い返す。
そう言ってくれただけで、もう他に何もいらない気がした。

カタン…と小さな音がして、船室のドアが開く。
ライは慌てて瞬きをし、一滴零れた雫を手で拭って、振り向いた。

「…眠れませんか?」
「…泣き虫小僧を放っといて、眠れるわけねえだろ」そう言って、サンジはライの隣に
腰を下ろした。

サンジは、海風を避ける様に、僅かに俯き、口に咥えていた煙草にライターで火を着けた。
その一瞬着いた小さな炎の光が、蜂蜜色のサンジの髪を照らす。
その仄かな光景すらも、余さず心と目に焼きつけたい。
ライは、瞬きも忘れてじっとサンジを見詰めた。

煙草を大きく吸い込み、細い煙を唇から吐き出しながら、サンジは
「…俺は俺のしたい様にする。それが例え、お前を傷つける事になっても…」
言葉を選ぶ様にゆっくりと、そう言った。

「…だから、お前も、やりたい事をやれ。言いたい事を言え。して欲しい事は全部言え」
「…わかったな?」
サンジに念を押すようにそう言われ、「…はい」とライは素直に深く頷く。

二人の想いは、お互い、理解し合いながらも、決して交わる事はない。
愛する苦しみと、応えられない苦しみ、それはまるで、異なる色の二本の縄が、決して断ち切れる事のない頑丈な縄を綯うように、サンジとライ、二人だけの独特の絆となっていた。

手を繋ぐ事もなく、唇を重ねる事がなく、見詰め合うことがなく、同じ方向を見詰め、
隣同士で座っているだけで、今、二人の心は、二人だけの独特の形で重なり、繋がっている。

そう感じるだけで、悲しみも苦しみもライの胸の内から遠ざかって消えていく。
ただ、幸せだけで満たされていた。

「…サンジさんは、天国ってあると思いますか?」「…天国?」

ライの突飛な質問に、サンジは煙草を咥えたまま、少し口を歪めて鸚鵡返しに言葉をなぞった。

何も考えず、何も思い悩む事無く、今、この時を大切にしたい。
だから、無垢な子どもが思いつくままに言葉で人にじゃれ付くように、ライはサンジに
話しかける。

「…さあな。あったとしても、そこに行けっこねえだろうな」
「…僕もです」そう言って、何が可笑しいのかわからないのに、ライとサンジは顔を見合わせて笑った。

「…そうだな。お前は、助けたヤツも多いだろうが、…海に沈めたヤツも多いだろうから」
「ええ。だから、天国には行けるなんて、思ったこともないです」
「…じゃ、お前も地獄に行くか?…それも、無理っぽいな」そう言って、サンジは煙草を指で摘まんで、唇から離して、小さくクス…と笑う。
「もし門番がいるんだとしたら、お前を地獄送りになんかしねえだろ」
「…じゃあ、…僕はどっちに行くんでしょうね?」

ライがそう言うと、サンジはまた煙草を咥えた。煙を燻らす振りをして、少しだけ目を伏せて、また言葉を考える。
横波に煽られ、少しだけ船が揺れた後、「…お前はどっちに行きてえんだ?」とサンジが
独り言の様に呟いた。
「…もし、天国か、地獄か選べるとしたら、…お前はどっちに行きたいって言うんだ?」

「…どっちも嫌かな」ライがそう言って笑うと、「なんだ、そりゃ」とサンジも笑う。

ずっと、こうしてサンジの側にいたい。サンジだけを見詰めて、サンジの事だけを考えていたい。
現実にその望みが叶ったこの時、ライは初めて自分が何を望んでいたかをはっきりと
自覚する。
「…天国にも地獄にも行かずに…すぐに生まれ変わりたい…門番にそう言います」

静寂と闇の中に、二人きり取り残されたような光景の中、今は、この時間が一分でも一秒でも長く続く様にと、願うだけだ。

「…何に生まれ変わりてえんだ?」「サンジさんは?」
今度は、ライがサンジに尋ねる。

「俺か、俺はやっぱり俺だ。俺以外の何者にもなりたくねえ」
「あはは」サンジらしい答えに思わずライは声を立てて笑った。
そのライの笑顔を見て、サンジも微笑む。
そのサンジの眼差しが心に染み込むほど温かくて優しい。

「…お前は?やっぱりお前のまんまか」「いえ」

やりたい事をやれ。言いたい事を言え。
サンジはそう言った。

何をしてもいい。何を言ってもいい。何を望んでも構わない。
その心に痛みを感じて、ライが涙を零したらその涙を、ライが苦しいならその苦しみを、サンジは受け止めてくれる。そう言ってくれた。

だから、ライはもう感情を押し殺す事も無く、サンジへの恋慕の情を余さず全て、言葉の一つ一つに篭める。

サンジの記憶の中に、例え、片隅でも自分と共有した時間の痕跡を残しておきたい。

「…もしも、生まれ変わったら、僕は、…サンジさんの心臓になりたい」

自分の言葉に、サンジの瞳が揺れた。その言葉が、またサンジの優しい心を抉るのが分かる。

それでも、ライは言う。
「…そうすれば、いつだって、サンジさんの嬉しい事、悲しい事、楽しい事を感じられる」
「サンジさんのためにだけ、動いて、いつだってサンジさんの温もりを感じてて、
…生まれて、死ぬまでずっと一緒」
「…離れようがない。心がなくて何も分からなくても、…だからこそ、何も感じないで
ただ、僕は、サンジさんの為だけに存在する」
「…幸せなら、優しい鼓動を打つ様に、辛い時は、悲しさや苦しみを慰める様に穏やかな鼓動を打って、いつもいつも、サンジさんを見守って…」
「…そうか」

サンジはライの言葉を聞いて、涙を堪えるような顔で微笑む。

「…じゃあ、絶対に俺より先に死ぬなよ。生まれ変わる時は、…一緒だ」
「はい」

そう返事をしながら、ライは瞬きをする。
目を開けたら、サンジの腕がしっかりとライを抱き締めていた。
そのまま、サンジの胸の中に、頭を抱きこまれる。

真っ暗な視界の中、ライの意思とは関係なく、驚いて見開いた目から勝手にボタボタと
涙が溢れて、サンジのコートの上に落ちて染み込んで行く。

「…うっう…うう…」

見っともないと思うのに、子どもの様にしゃくりあげてしまう。
嗚咽があがるのをライは止められない。

何が悲しいのか、どうしてこんなに泣いてしまうのか、自分でもわからない。

もう泣き笑いをしなくてもいい。
自分の涙に流されて、泣きたいだけ泣いてもいい。
涙を受け止めて欲しい人に、やっと全部、受け止めて貰える。

本当は脆いライの心をずっと覆っていた、薄氷の様な膜が剥がれ落ちてしまうのを感じても、少しも苦しくなかった。

嗚咽が漏れるごとに、サンジの手がライの肩を撫でてくれる毎に、心が剥き出しになっていく。

「…いいか。俺を悲しませるな」
「例え、俺の事を忘れても、俺がお前を忘れない。だから、俺のために生きたいと願え」

そのサンジの言葉にライは言葉で答えられずに、何度も頷く。
生まれ変わりたい、と本気で思う、そのサンジの心臓の音を聞きながら。


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