翌朝。
朝食を済ませた後、ライは手早く帰り支度を整えた。
そして、同じ様に荷物を持ち、防寒着に身を包んだサンジを見て、不思議そうな顔をする。
「…氷の上を歩いていくんだろ。あんまり目がよく見えてねえんだから、送ってやる」
「…ホントですか?ありがとうございます」
サンジの言葉に、ライは素直に微笑んで礼を言う。
二人は、サンジの家を出て白い氷がびっしりと張った海を歩き出す。
空気は澄み切って、空は高く青く晴れ上がって、太陽の光が氷に反射して眩しい。
雪は降ってはいないけれど、凍て付いた海に降り積もった雪が時折吹く風に巻き上がって、
粉雪のように二人に降りかかった。
その度に、ライは目を細める。瞳の群青色と同じ色の髪に雪の粒が纏わりつく。
溜息の様に吐く息は白く、不用意に息を吸い込めば胸の中まで凍り付いてしまいそうだ。
それでも、ライの殆ど見えていない右目と、まだ視力を失ってはいない左目は生き生きと輝いていた。
どこまでも見渡す限り、白一色の地面。見上げれば、青一色の空。
右を見ても左を見ても遮るもののない世界の中、今、サンジと二人きりで歩いている。
時折、足を滑らせてよろめく度に、サンジはライの手を掴む。
その度に、ライは恥ずかしそうに笑った。
ライの見えている世界の中には、今サンジしかいない。
ライだけが、サンジを見、サンジだけがライを見ている。
この世に二人きり取り残された様な感覚を、ライは今噛み締めている。
それを口に出さないのは、きっと言葉が出てこない程、嬉しいからだろう。
雪を踏みしめ、軋ませて、二人並んで歩いている。ただそれだけの事が、
(これっぽっちの事が、お前はそんなに嬉しいのかよ…)
そう思うと、ライの晴れやかな気持ちとは裏腹に、サンジの心は切なく痛む。
ライには、幸せになって欲しい。そう心から思っている。
そして、どうすればライが幸せだと思うのか、その為に何をしてやるべきかもサンジは知っている。
けれど、それを叶えてはやれない。ゾロを裏切る、裏切らないと言う以前に、
サンジにとってライは肉親に等しい。家族を大切に想う様にしかライを想えない。
それが辛く、切なく、堪らなかった。
ライが乗ってきた船は、岩礁に繋がれて、碇を下ろしていた。
そこへ辿り着いてから、やっとライは口を開き、笑った。
「…世界に、僕とサンジさんしかいなくなったみたいですね」
その無邪気な言葉に、サンジは咄嗟に答えを返せない。
「…疲れたか?」その代わりに、ありったけの優しさと労わりを込めて、微笑む。
「…少しだけ。視界が狭くなってるから、凸凹がよく見えなくて…」
そう言って、ライは左目を擦った。
出航出来る様に、畳んでいた帆を降ろし、碇を上げ、凍て付いて固まっていた舵の氷を溶かして、サンジは手早く出港準備を整えた。
見送らずに、サンジは船に乗り込む。そして、
「…ログホースを寄越せ」と、ライに手を突き出した。
「…え?」思いもしない言葉に、ライが唖然とする。
「ログホースを寄越せって言ったんだ」
オールブルーから一番近い海軍が駐屯している島まで、順調に行けば、3日程で行ける。
それでも、真冬のオールブルーから、いや、サンジが単身で、オールブルーの海域を出る
など、ライにとっては余りにも突飛過ぎて、思い付きもしなかっただろう。
「送ってやる」と言う言葉を、ライはこの船までだと思い込んでいたに違いない。
ログホースを寄越せ、と言うサンジの言葉を理解し、整理するのにライは数秒掛かった。
そして、分かった途端、
「…往復したら、1週間以上は掛かりますよ?それに食料だって僕の分しかないし…!」
「その間に、雪であの小屋も、船も桟橋も全部、雪の重みで潰れちゃいますよ?!」と半ば食って掛かる様な口調で言った。だが、それぐらいの事は、ライに言われなくても分かっている。
「…そんなモンは、後で修理すりゃいい。俺はお前を送っていく。そう決めたんだ」
「つべこべ言うんじゃねえ」
「…でも…」
ライは困惑した面持ちのまま、口篭る。
今まで、ゾロですら、サンジがこの真冬のオールブルーにたった一人で残す事に心を痛め、何度も連れ出そうとした。けれど、サンジは一度もそれに応じていない。
ゾロと二人きりで穏やかに過ごすよりも、自分の築いてきた夢を守る為に、雪と氷と戦う事を選んで来た。
生涯の連れ合いとも言えるゾロでさえ、サンジのその意思を変えられない。それなのに、自分がサンジを連れ出すなど、余りにも身の程知らずで、とんでもない話だ。
ライがそう思うのも当たり前で、だから、素直に喜べずに、
「…そんな事されたら僕がロロノアさんに顔向けできません」と、ただ困惑している。
「顔向けできない?…何でだよ。何が不義理なんだよ」
「…だって、それは…僕なんかの為に、ここを離れるなんてそんな事しちゃダメですよ」
「…もう決めたっつっただろ?」
ライがどれだけサンジを想っても、サンジは応えられない。
けれど、だからこそせめて、誰に対してよりもたくさんの優しさを与えようと決めた。
オールブルーを離れて、ライに付き添う。
手術が終わり、目が覚めるまでずっと側にいる。それがサンジの出した答えだった。
そんなサンジの気持ちに、ライが気付かない筈はない。
諭すべきなのか、それとも甘えていいのか、決めかねてライは呆然とサンジの顔を見ている。
「…サンジさん」「さ、行くぞ」
何かを言いかけながら、声を詰まらせるライからログホースを受け取り、サンジはその横をすり抜ける。
どれだけ優しさを与えても、ライはいつもそれ以上を期待しない。
自分が一番サンジに愛されているかもしれない…などと思いあがったりもしない。
そして、ライは決してサンジから何も奪わない。
人を愛せば、身勝手になり、我侭になって当然だと思うのに、気まぐれに与える優しさを
過分に強請ったり、愛欲の手を伸ばして、サンジとゾロの間に割ってはいる様な事もしない。そんな事をすれば、サンジが傷つくと分かっている。
サンジが誰を愛し、誰を唯一かけがえなく想い、どうすれば幸せでいるかをライは
知っているからだ。
だから、憧れる様にずっとサンジを慕い続けてきた。
ゾロがサンジを照らして温める太陽なら、ライは星の光の様にひそやかに、サンジを見つめてきた。
そのライに、サンジは何も返せないままでいる。その事が、サンジの胸を締め付ける。
優しさだけを与え続けて、それが果たしてライにとって本当に幸せな事だと言えるのか、その答も出せないまま、ライの目を直視出来ずに、サンジは冷たい潮風を頬に受けて、舵を握った。
* **
一日目の夜。
まだ冬の海域を抜け切らず、外は身を切るような冷たい風が吹き荒んでいる。
岩山にしか見えない小さな島でも、碇を下ろして船を着け、休息を取るには十分だった。
「…寝ろよ。何かあったら起すから」
いつまでも寝ようとしないライにサンジはそう言った。
オレンジ色の頼りないランタンの光しかない、狭い船内。寝具は一つしかない。
その寝具はまだ船室の片隅に畳まれたままだ。
小さな折り畳みの椅子に腰掛けているサンジの前に、ライは膝を折り、その膝の上に軽く手を組んで、床に座り黙っている。その表情は、まるで楽しい夢を見ているようだった。
「僕は寝ません。サンジさんこそ、…休んでください。病み上がりなんですから」
そう言うと、ライは立ち上がり、寝具を手にとって床に広げた。
「お前こそ、無理したら…」「いいから、寝てください。僕は外にいます」
「待てよ」出て行きかけたライをサンジは引きとめる。
外は、まだ息も凍て付くほど気温が低い。危険がないのなら、船の中にいる方がいいに
決まっている。
「…ここにいろ。俺はまだ眠くない。眠くなったら起すから、…お前は寝ろ」
「…僕は寝ません。眠るなんて、もったいない」ライはそう言って、サンジの腕を引っ張って床に引き摺り下ろした。
「狭いから、さっさと横になって下さい。僕がその椅子に座ります」
サンジが床の寝具の上に移動してから、ライはそっと、ほんの少しだけランタンの光を
落とす。
小さな船は、二人を乗せてゆりかごの様に揺れる。
黙り込むと、海を渡ってくる寒風と、波の音だけしか聞こえない。
サンジの体を決して冷やさないように、船の中は春の様に暖かだった。
ライの心の温度がそのまま、船の中に満ちていて、サンジを包んでいる。
それなのに、この船の中の空気には、悲しみや諦めが混ざっていて、息を吸い込めば
それだけで泣きたくなってくる。
ライの心から溢れた感情が、そのまま空気に溶け込んでいるかの様だ。
愛されている事が、こんなに切ない。
ずっと、ライの気持ちは知っていたのに、そんな事を感じるのは、初めてだった。
そんな中、「…僕は、これで十分幸せですよ」ポツリとライは独り言の様に呟く。
「こうして、サンジさんを独り占め出来て…。生きて欲しいって思って貰えて…」
「だから、…そんな顔しないで下さい」
そう言われて、サンジは思わず言葉を返せずに黙って、静かに目を伏せる。
詰られている訳でもない。嘘を吐いている訳でもない。
心の中にある感情を、ライに隠すのを忘れていただけだ。その自分の迂闊さが恥ずかしい。
ありったけ優しくしようと思って、こうしてライの側にいるのに、逆にライに心の痛みを見破られて、慰められている。
ライはいつも、サンジにだけでなく、誰に対しても、春風の様に常に優しい。
なのに、その温もりと優しさが、今は胸を締め付ける。
死への怯えも恐れも、心の中に押し隠し、不安に怯える姿を見せまいと強がって、
その上で、何事もなかった様に優しくされるよりも、愛して欲しいと我侭を言い、愛してくれない事を責められた方がずっと楽だ。
経験した事のない胸の痛みに、サンジは遂に耐え切れなくなった。
「…なんで、…そんなに一本気なんだよ」
「…俺は、ずっとずっと昔に行きがかり上、お前を助けただけだ」
「俺なんかよりも、お前を大切に想ってくれる人だっていたのに、なんで、いつまでも…」
「サンジさん、」
サンジの言葉をライは遮った。
「…僕は今、…サンジさんを困らせてますか…?」
「…僕が幸せだって言えば、…それだけで…辛いですか…?」
サンジは目を上げ、ライを見つめ返す。その眼差しを受け止めると、心の中にライの感情が一気に流れ込んでくる。心と心が繋がり、重なる。
サンジは愛する事も愛される事も知っている。
愛を求める事と、与える事、その両方を満たす喜びを知っている。
けれど、ライは愛を与える事は知っていても、愛される幸せを知らない。
だから、愛されても、その想いに応えられないサンジの切なさが分からないのだ。
愛されることを知らないのに、こんなに穏やかに優しく労わりを持って、人を愛せる男はきっといない。それなのに、何故、誰もライを愛し、愛し抜いてくれなかったのだろう。
そう思うと、サンジの視界が熱い雫で、ぼやけて揺れた。
「…何も、応えてくれなくていい」
「僕なりのやり方で…最期まであなたを想う…。それすら、許してもらえませんか?」
そう問われて、サンジは頭を振る。その振動で頬に雫が零れ落ちた。
この雫も、憐憫と悔恨と同情の涙に過ぎない。愛ゆえに流す涙ではなかった。
「…お前には…ホントに悪イと思ってる…」
「サンジさん…!」
もう、これ以上、サンジの泣き言など聞きたくない。愛せない事への懺悔も言わせない。
そうでもするかの様に、ライはまた名前を呼び、サンジの言葉を遮った。
「…僕は、…僕は、ただ、…あなたが…」
戦慄く唇をライは、手袋を嵌めない拳で覆う。
薄暗いオレンジ色の光の中でも、その頬に幾筋も流れ落ちる涙はキラキラと光って見えた。
僕は、ただ、あなたが愛しい。あなただけを愛している。
どんなに押さえても、必死に押さえつけても、決して消えずに、いつしか魂にまでこびりついたサンジへの感情、その言葉すら、ライは言わずに飲み込もうとしている。
口にすれば、サンジを苦しめてしまう。
応えてくれなくても、せめて吐き出せばいっそ楽になるかも知れない。
まして、いつ死ぬかわからない体だ。
募らせて来た思いを余さずに言ってしまえば、きっと悔いを残さずに死ねる。
それなのに、ライは唇を固く噛み締めている。
ただ、サンジを苦しめたくない、傷つけたくない、その表情を曇らせたくない、その想いだけで、ライは体を震わせるほどの衝動に耐えている。
そして、サンジから顔を逸らし、耐え切れずに立ち上がった。
「…おやすみなさい、」
「ライ!」
呼び止めたサンジの声を振り切って、何も答えずライは扉を開けて甲板に出て行く。
カンテラのオレンジ色の灯と、黒い影がゆらゆらと揺れた。
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