「最後の手紙」
しっかりと握り合っていた手には、まだほんのりとサンジの温もりが残っている。
それが消えていかないように、横たわったままライは胸の上でそっと掌を握り締めた。
「貴方なら、取り乱す事もなく、現状を冷静に受け入れる事が出来ると思います」と、
この手術が如何に危険で難しいかと言う事、
もしも、血瘤の摘出に失敗すれば、あるいは、検査で見た以上に血瘤が大きかったり、
周りの組織に癒着していたりすれば、麻酔を掛けられて眠った状態のまま、死ぬ事もある事、
命が助かっても、後遺症が残る可能性も大いにあると言う事など…、
この手術に伴う様々なリスクについて、ライは担当する医者から既に備に聞いている。
遣り残した事も、心残りな事も、もう何もない。
精一杯、生きた。そう心から言える自分に満足していた。
マスクをかけた看護士が、そっとライに酸素マスクを装着する。
「…大丈夫ですよ」と言うくぐもった声に、ライは小さく頷いて答えた。
優しげで、それでいて凛とした涼しげな目元が、ふと、別れた妻、タキに似ている気がした。
ついさっき、タキに手紙を書いたからか、こんな時になって突然、タキが懐かしくなる。
その手紙も、それを読んだタキの気持ちを思えば、届けてはいけないと思い、
ライはわざと宛先をデタラメに書いた。そんな手紙が届く筈もない。
(…それでいいんだ)自分にそう言い聞かせながら、ライは自分に向けて照射される光が酷く眩しくて、ゆっくりと瞼を閉じる。
タキと別れて数年、一度も会っていない。
元気にしているだろうか、幸せでいるだろうか。
朦朧としながら、ライはそんな事を思った。
たった一人を愛し抜いてしまった辛さや幸せを、その人を愛する事、
ただそれだけを心の支えにして生きて来た人生を、ライは誰かに聞いて欲しかった。
生きて来た証を、誰かに残したい。
その生き方は決して愚かではなく、間違ってもいなかった。そう言って欲しい。
人として、抑え切れないその想いを、ライはタキへの手紙に篭めて、書き綴った。
例え、タキに届く事はなくても、決して、叶う事のない想いを分かってくれるのは、
タキだけだ。
サンジにそんな手紙を残せば、まるで遺書の様で、悲しみだけしかサンジの心に残せない。
助かったにせよ、…このまま、目覚めなかったにせよ、きっとサンジはライのその手紙を燃やす事も捨てる事も出来ずに、きっと後々まで扱いに困るだろう。
サンジへの思慕とは別に、ライはごく当たり前の幸せを望んでいた。
それを手に入れたら、サンジへの思慕を断ち切れると、代替品として望んでいたのではなく、愛情を惜しみなく注ぐ対象として、何よりもライはずっと前から自分の子供が欲しかった。
そして、そんな自分の子供を自分同様に愛してくれる妻がいればもっといいと思っていた。
そんな妻と子供を存分に愛し、守り、穏やかに、その慎ましい幸せを噛み締めて、
毎日、微笑んで生きたいと、ライはずっと望んできた。
タキは、共に戦場に立ち、一緒に戦い、常に傍らにいて、ライを慕ってくれた。
妹が兄を慕うのと同じ様な気持ちだと勝手に思っていたライは、何度、
タキのその明るさと無邪気さに救われたかわからない。
けれど、タキとライは余りにも似過ぎていた。
と言うよりも、ライがサンジを愛する気持ちと、タキがライを想う気持ちが、余りにも似過ぎていた。
深すぎて、一片の曇りすらない愛故に、タキは自分が幸せになる事よりも、ライの幸せをこそ望んだ。
「子供が生めない私には、ライさんが望む幸せを与える事が出来ません。
ライさんを心から愛しているのに、幸せにしてあげられない。それが、辛くて溜まらない…」
タキはそう言って、ライに別れを告げた。
(タキさんなら、きっと…僕の気持ちを分かってくれる)
それは、男の身勝手かも知れない。けれど、ライは死を目前にして本気でそう思い、
今朝、検査の合間を縫って、タキに出す、最初で最後の手紙をしたためた。
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