ライとサンジを乗せた船は順調に航海を続け、オールブルーを経ってちょうど一週間で、一番近い、人の住む島に着いた。

そこから、定期船に乗り、二日ほどの日程で海軍直轄の病院がある島に向かう。
兄を大好きな弟が、その兄に甘え頼る様に、ライはサンジに甘えた。

その間も、視力が落ちて行くのだろうか、サンジを見詰めるライの眼差しが日毎にぼやけて行く。
目の前にある物が見つけられない。食事をしていても、何を食べているのか口に入れるまで分からない。そんな状況でも、ライは気弱な事は一切言わずに、心のままに振舞う。
いや、振舞う、振りをして見せる。

そんなライの仕草、表情、言葉の端々から、サンジははっきりと感じた。
(…こいつ、…覚悟してやがる)と。

サンジより先に死なない。
生まれ変わる時は一緒に。
決して離れようがない一つの体になって一つの命を共有する。

そう言い交したのに、現実にライの容態は日を追って深刻になって行く。

そう思いながら、ライはサンジと向き合っている。
死を覚悟しているからこそ、ライは悪足掻きする事無く、落ち着いていられるのだろう。
でなければ、迫り来る死の影に怯えて、精神的に不安定になる筈だ。
だが、そんな素振りは全くない。

むしろ、一分後、一時間後、いきなり命が尽きる時が来ても、決して後悔しない様に生きている。

それを感じながらも、サンジはもう「生きたいと願え」と言わなかった。

誰の為でもなく、ただ、ライの為に、ライの為だけに、サンジはここにいる。

心も体も優しい温もりで一杯にして、例え、それが唯一無二の愛情でなくても、
サンジから、かけがえのない存在として大切に想われている事を感じ、それを幸せだと思ってくれるなら、そして、それを生きる力に変えてくれるなら、いくらでも優しくしてやれる。

そして、二人はとうとう、最終目的地の島に辿り着いた。

* **

「…検査結果も良好。後は僕の頭の中を開くだけですね」
そう言って、ライは恥かしそうに自分の頭を何度も手で撫でる。
それなりに小奇麗に整えられていた藍色の髪は若い看護士の手によって短く刈られ、ライはまるで少年の様な、どこか幼い顔付きになった。

「…思ったより、その坊主頭、悪くねえな」そう言って、サンジは笑った。
「…サンジさんは僕がこんな頭になったのを見るのは初めてかも知れないけど、…任務で
何度かあるんですよ。結構、悪くでしょう?これ」
頬が赤らんでいる癖に、強がる様に言ってライもニっと笑う。

「いい天気だ。ピクニックにでも行けば、気持ちいいだろうな」
そう言って、サンジは窓の外に目をやる。
昼下がりの陽光が、散り敷かれた中庭の銀杏の落ち葉の上に、穏やかに優しく降り注いでいた。

ライの階級、立場に相応しく、小さいながらも個室が与えられた。
普通なら、家族の誰かが傍らに付き添い、細々とした世話を焼くものだが、
ライには家族がいない。

サンジはライの身内ではない為、本来はこの個室での寝泊りは許されない。
だが、サンジはオールブルーの支配権を世界政府から与えられている特権階級の人間なので、特別に黙認された。

(…女手でもあれば、花でも飾るんだろうが…)
殺風景な部屋を見回してサンジがそんな事をふと考えた時、ライが独り言の様に呟く。

「…明日の朝、麻酔かけて、…目が覚めたら、何もかも終わってるんですね…」

サンジは息を飲み、一瞬言葉が出なかった。
死を目前にした今になって、ライが怯えている。

「…ライ」言葉の意味を理解するよりも先に、サンジの胸が熱くなる。

サンジが願っていた通り、海の上、誰にも邪魔される事なく二人きりで過ごした温かく幸せな時間の中で、ライ自身も自覚しないうちに、生きたいと言う望みがその心の中に芽生えていた。

死を目前にして死ぬ事に怯え、生きたいと必死に思う事は、自分の未来に絶望し、死を望むよりもずっと酷で、心を掻き乱す。

だが、サンジは全く動じない素振りを装い、ベッドの側に置いてある粗末で小さな、折りたたみの椅子に腰を下ろした。
そして、軽く握られ、シーツの上に投げ出されていたライの手を掌でそっと包む。

「…大丈夫だ。きっと…何もかも上手くいく」
「…はい」サンジの言葉にライは安心した様に、微笑んで頷く。

* **

その夜。消灯時間はとっくに過ぎている。
点滴の中に、鎮静剤か何かの成分が入っているのか、ライはいつの間にか、ぐっすりと寝入ってしまった。

まだまだ、話したい事があるのに…。

ライはそう呟いて、夢の中に入って行った。
明日の朝、目が覚めてもう一度、血圧、体温などを検査した後、全身に麻酔をかけての
手術がはじまる。

サンジはそっとライの手を握った。
ゾロと良く似ていて、ライの掌は、固くて大きく、そしてやはりとても温かかった。

「…死ぬなよ、ライ」
自分よりも背丈も高く、肩幅も広いライが、点滴の管に繋がれ、頭髪を剃られて、無防備に体を横たえ、眼を瞑り、眠っているだけで、とても儚く見える。

もう、会えないかも知れない。もう、言葉を交わす事は出来ないかも知れない。
どんなに打ち消しても、そんな予感がサンジの胸を締め付ける。

これがゾロなら、ゾロは絶対に死なない、と、もっと心強く、毅然としていられる。
死なないと決めたら、ゾロは絶対に死なない。そう信じていられる。

もしも、ゾロが同じ状況に陥ったとしても、サンジもここまで不安にはならない。
生きる、死ぬの瀬戸際になった時、最終的には心の力の強い弱いが物を言う。

ライには、生きる、と言う事に対する執着が、ゾロとは比べ物にならない程ほど薄い。
自分の人生をどこか達観していて、いつも自分の望みを諦めて、何事にも執着しない。
形振り構わず、生きている様子が全く見えない。

その不安は、静かに時間が流れても、サンジの胸からは消えていかない。
だから、サンジはどうしてもライの手を離す勇気が出せなかった。

手を放してしまえば、自分までがライの命を諦めた様な気がする。

そしてそのまま、一睡もせずに朝を迎えた。

(…あいつの手ですら、…一晩中握ってたなんて事、一度もなかったのに)
カーテン越しに空が白々と明け始めたのを知って、思わずサンジは苦笑いする。

看護士の「…おはようございます」と言う優しげな声とノックの音が、ライと二人きりの静寂の夜が明けた事をサンジに教えた。

看護士と担当の医者が入ってからは、夜中には穏やかにゆっくりと流れていた時間が、突然、恐ろしい勢いで流れ始める。

検査の間、サンジは一人、ライの病室でじっと待っていた。
窓際に立ち、昨日もずっと眺めていた中庭の風景を見下ろす。
相変わらず雲ひとつないいい天気で、目に映る風景は色鮮やかでとても美しいのに、
それはただ目に映っているだけで、少しもサンジの心の中には映り込んでこなかった。

(…いっそ、もう…頭の中の瘤なんて昨夜の内に綺麗に無くなりました、なんて奇跡は起きねえかな…)などと考えながら、何度も何度も溜息をつく。
不思議と煙草を吸う気にもならなかった。

そして、ライの髪を剃った看護士が遠慮がちにそっと病室のドアから顔を覗かせた。
「…時間です。ライさんにお会いになりますか?」
「はい」反射的にサンジは愛想笑いを浮かべて、振り返る。

廊下に出て、手術室に向かう途中のライのところへと案内される。

ライは、全ての検査が終わり、様々な機械が並んだ小さな一室で、大きな体には窮屈そうな台の上に寝かされ、頭に布を巻きつけられていた。

「…すぐに手術室に入りますので」
サンジの背中で小柄な看護士は口早にそう言って、ドアを閉める。

(…さっさと話をしとけって事か…)
そう思いながら、サンジは締められたドアをちらりと一度だけ振り返る。

「…気分はどうだ?」当たり障りなく、サンジはライに声をかけながら、寝台の側に
歩み寄った。
「…悪くはないです。ちょっと、腹が減ってますけど」そう言ってライは笑う。
「昨夜、たくさん夢を見ましたよ」
「夢?」
「…サンジさんと出会う前と…出会った時の夢でした」

死んだ方がましだとすら思った辛い日々と、生きていこうと決意した日々の追憶をライは交互に夢に見たと言う。

「看護士さんに起されて、目が覚めて…、サンジさんの顔を最初に見て…」
「夢の中のサンジさんはまだ勇猛で血の気の多い海賊で…現実のサンジさんは髪が長くて、…目がとても優しくて…」

ライは目の前のサンジを見上げてはいるけれど、まるで波の上を見渡すような、遠い目をしている。
そのライの眼差しを受け止めた途端、重いものを胸に押し込まれ、喉を何かで塞がれた様に苦しくなった。
「そうだな、」と軽く相槌を打てばいいのに、それさえ出来ない。

昨日見せた死への怯えはもう完全にライの心から消え去っていた。
サンジの声を聞くのは、これがきっと最後になる。ライはそう覚悟していた。
だからこそ、サンジは口を開く事が出来ない。

「それを見た時、思ったんです」
「最初に出会ってから、…随分経ったな…って」
「それでも、こうしてまだ、僕は…あなたの側にいるんだ…って」
「そう思ったら、…僕は、幸せで…体が震えました」

この場で交わす言葉が最後じゃない。
そう思うのに、ライの言葉、一つ一つがサンジの心を揺さ振る。
声の替わりに、熱い雫が目の奥から込み上げて、ライの顔が歪んで見えた。


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