桜色の雪が降ると、オールブルーに春が訪れる。
(…あれから、今日でちょうど三ヶ月か…)

朝起きて、身支度を整えていると、壁にかけたカレンダーの日付がふと目に入った。
途端、日々の過ぎ行く早さを唐突に思い出し、サンジは小さくため息をつく。

今日も、朝から忙しい。冬の間、オールブルーを離れていたコック達も続々と帰ってきているし、本格的な店の再会に向け、積雪の重みで倒壊した桟橋や店の修理や、厨房の手入れ、店内の改装などやらなければならない事が山積みだ。

明日には、サンジが育てているウソップの息子、ジュニアも海軍の士官学校から帰ってくる。来週明けには、今年最初の予約客を迎える事になっているので、作業の遅れは許されない。

ライの手術から今日で、まる三ヶ月が過ぎようとしていた。

* **

「どんな後遺症が出るか、これから長い間、経過を診なければなりません」
「これからは、私どもが全力を挙げて、ミルク少佐の治療にあたります」

ライの手術は無事に成功した。
だが、それ以上、サンジがライに付き添う事は許されなかった。
いや、集中治療室に入る事も許されず、眠ったままのライの姿をガラス越しに見る事すら出来なかった。

呼吸器をつけられて死んだ様に動かないライを乗せたストレッチャーが手術室から出てきて、目の前を慌しく通り過ぎていくのを見送っただけだ。

「…もう、お引取り頂いて結構です。今まで、お疲れ様でした」
女性の半人前の医者なのか、手術着を着た若い女性が淡々とそう言った。

ライの手術は、ほぼ10時間以上は掛かっていた。その間、サンジは飲まず食わずで、前の夜も殆ど眠っていない。いつ、白い扉が開いて、最悪の結果が知らされるか、ずっと緊張し通しで、精神的にクタクタだった。

自然、その無神経な、優しさも気遣いもない事務的な言葉に感情が乱れ、声を荒げてしまう。
「…そんな…。あんな状態のあいつを放り出して帰れって?」
「そんな薄情な事…できる訳ないだろう…!」
「…ご本人が強く、そう希望されていましたが」と全く動じる事なく、医者も毅然と言い返してくる。
その冷静沈着な物言いに、サンジは(…こんな事で大声出したって仕方ねえ…)と、ハっと我に返った。
「ここで寝泊り出来ないなら、…外に宿をとってもいい。せめて、話ができるまでは…」と落ち着いてそう頼んでも、ライの言伝を伝えに来たその医者は、「術後は、医療スタッフ以外の方と絶対に誰にも会いたくないと強く望んでいらしたので」と言い、更に
「それに、付き添っておられても、お手をお借りする様な事は何もありませんよ」と言った。

「…本当に助かったんですか?もう、絶対に急変する事は…?」
何故、そうまで頑なにライと会わせまいとするのか、諦めきれずにサンジはそう食い下がる。だが、医者は「…何かあったら、すぐにご連絡致します」とにべもなく、
これ以上の質問には答える義務はない、とばかりに医者は急に話を変えた。
「…海軍の船でお送り致します。すぐに、迎えが来ますので、それまで、どうぞこちらへ…」そう言って、医者は先に立って、廊下を歩き出す。

サンジは応接室らしい部屋に通され、海軍の迎えを待った。

(…俺に、弱ってるところを見せたくない…それがお前の気持ちなんだろうな…)

柔かなソファに深く座り、肩肘をついて、目を瞑る。言いようのない辛さで胸がとても熱くて、苦しい。

ライが助かった。
そう聞いて嬉しくて溜まらない。なのに、どうしてこんなに胸が苦しいのか、自分でも自分の気持ちに説明がつけられない。

サンジさん、と少し甘える様にサンジの名を呼び、また逢いましょうね…そう言って、サンジの手をゆっくりと解いたあの時の、おだやかに笑っていたライの笑顔の下には、まるで今にも泣きそうな顔が隠れているようだった。

もう、自分達は二度と逢えない。手を握り合う事もない。
「さようなら」と、別れの言葉を告げられた様で、悲しみを必死に隠そうとして微笑んだライの瞳が、焦げ付いた様にサンジの心に焼き付いている。

惨めな姿をこれ以上見せれば、きっと、またサンジの胸を傷めてしまう。
いつ、回復するか知れないのに、サンジをいつまでも引き止めてはいられない。

自分の意思がままならない状態になる事は、手術を受ける前からライは十分知っていた。
それでも、いざ、手術がはじまる直前まではサンジに甘えていたい。
まして、これが最期となるのなら、その時が来るまでその心を独占したい。
きっと、そう思っていたのだろう。
誰かを心から愛していたなら、生涯、ただ一人きりの人をひたすら愛し抜いたのなら、そう願って当然だ。
我侭だと詰られる事でもなければ、不実だと責められる事でもない。

「手術が終わってから、例え、結果がどうなったとしても、僕の姿は一切、サンジさんには見せないで下さい」
そう強く望んだのも、見栄やプライドではない。
一番、健やかで幸せだった時の自分を、サンジの心に残しておきたかったからだ。
だから、ライは何も言わなかった。

これからの年月、日々、積み重なっていくサンジの記憶、そこにただの一片の悲しみさえ残さない様に。サンジをこれ以上は悲しませない様に。

けれど、サンジは、ライのその心遣いが余りにも切なかった。
(…俺は、…お前に何もしてやれない…)

それが堪らなく切なかった。それが何故か、堪らなく辛かった。

良く頑張ったな。
良く、生きる事を望んでくれたな。

そう声をかける事すら、サンジの自己満足にしかならない。
黙って、この場を去り、自分の守るべき世界に戻る。
そうするしか、ライの愛情に応える術はなかった。

後ろ髪を引かれる様な思い。それを噛み締めながら、サンジは病院を後にし、ライとは一度も会えないまま、オールブルーに戻った。

* **

そして、それから三ヶ月が経った。
ライについての連絡は一切来ない。
順調に回復しているのか、容態が急に悪くなったりしていないか。
最初の一月、気にしない日はなかった。
もしも、急に何か連絡があったとしても、一日二日で飛んでいける距離ではないのだ。

けれど、オールブルーにも春の兆しが見え始め、コック達が帰って来るようになると、
毎日、忙しくて目の前の事で手一杯になり、日毎にサンジはライの事を気に掛ける時間が少なくなっていった。

そうして、今朝、久し振りにライの事が気に掛かった。
(…三月も経てば…後遺症さえなけりゃ、もう退院していい筈だ…)

そう思い、サンジは傍らの電伝虫に手を伸ばした。
(…こっちから容態を聞くくらい、大して時間はかからんだろ)

そう思った途端。
ブルブルブルブルブル…と、電伝虫が鳴いた。
余りにもタイミングが良くて、サンジは少し驚いて、咄嗟に伸ばしかけていた手を引っ込める。が、すぐに「もしもし?」と応えた。

「…もしもし…?」受話器の向うから聞えてきたのは、若い女性の声だ。
聞き覚えがある。

「…もしもし…?あの、…どなたでしょう?」女性だと思った途端、サンジはいつもの調子で甘く、紳士ぶった声音になってしまい、受話器の向うの相手に親しげに話しかける。

「…お久し振りです、オーナーサンジ。私…タキです」
「え…タキちゃん…?」

思いがけない名を聞いて、サンジの声が少し上ずる。
ライの事を考えていた時、その元妻のタキから電話が掛かった。
ドキリ、と心臓がとても暗く、重い鼓動を打つ。

「…ホントに久し振りだね…。元気にしてるかい?」
「…ええ。お陰さまで。今、少し、お時間ありますか?」

タキとライは、このオールブルーのレストランで結婚式を挙げた。
二人が結婚する事になった経緯も、そして別れた経緯も、サンジは全部知っている。
だから、タキがどんなに辛い目にあったかも全部、サンジは承知していた。

「…私、今、…ライさんの側にいるんですけれども…」「…え?」

遠慮がちに話すタキの言葉をサンジは思わず聞き返した。
タキは続ける。

* **

二ヶ月ほど前、私、ライさんから手紙を受け取って…。
宛先が間違っていたそうなんですけれど、ライさんを担当していた看護士さんが、以前、私の担当だったので、それで、今でもたまに手紙をやりとりしていて…で、宛名を正して、投函してくれたんです。

それで、私、すぐにこの病院に来ました。
はい、ライさんは、今はすっかり元気です。殆どなんの後遺症もありません。
…まあ、日常生活困る様な後遺症は、…ないと言えばないんですけれど…
言葉も明朗に話せるし、一通り、運動も出来ますし…。

あと、半月ほどリハビリしてから、士官学校の教官として現場に復帰できる事になりました。

* **

「…現場復帰?もう、そんなに回復したんですか?!」
タキの言葉を聞いて、サンジは急に目の前が明るくなった気がした。

(良かった…しかも、タキちゃんが側に来てくれてるなんて…)

もう、ライは独りではない。ライを大切に思ってくれるタキが側にいる。
そう思うと、サンジはずっと背負ってきた荷物をやっと下ろせた様な、ホっとした気持ちになれた。

「…それで、あの…お忙しいとは思うんですけれど…」受話器の向うから、タキの遠慮がちな声がする。
「…退院する前に、逢いに来てあげて欲しいんです」
「きっと…ライさんには何よりの薬になると思いますから」

サンジは一瞬迷い、けれど、すぐに「わかりました。すぐに行きます」と返事をした。

副料理長も戻ってきているし、信頼できるコック達の顔ぶれもほぼ揃った。
ジュニアさえ戻ってこれば、少しくらい留守をしても店の修復はなんとかなる。

(…新しいメニューとか仕入れの事は、こまめに連絡を入れながらやれば、大丈夫だろ。戻って来てから、不眠不休で働きゃなんとかなる…いや、何が何でも間に合わせてやる)

心残りを引き摺って、無理矢理病院から帰って来たのだ。
その日から、ずっとサンジの心の奥に、心詰まりが燻っていた。
ライの回復した姿を見れば、その心詰まりが消え、心の中がすっきりし、何の心配もなく、仕事に打ち込める。

タキからの電話を切り、サンジはすぐに手筈を整える為に、足早に自分の部屋を出た。


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