「彼の愛し方」

もう、逢えないかも知れない、そう悲観して別れたのが嘘の様な気がする。
何故、あんなに深刻ぶっていたのか、何の心配も無くなった今、振り返ってみれば、滑稽にさえ思えた。

何もかもが上手く行き、誰もが幸せな時間を刻み始めている。

ライのいる病院へ向かう途中、偶然にも一度も天気が崩れる事もなく、サンジが暢気にそんな事を感じるくらい、ずっと晴天が続いていた。

景色を塗りつぶしていた寒々とした冬の色が、穏やかな春の温かな色が上塗りされて、日毎に薄まっていく、そんな風情の中、サンジはライのいる島に降り立つ。

ライの顔を見れば、この島にはもう用はない。
またすぐ船に乗り、夕方には再びオールブルーに向かって発つ。
ここに来るだけで、かなり予定が遅れているのだから、のんびりしてはいられない。

(…ま、元気になった面だけ見りゃ、それでいいからな)
これをキッカケに、タキとライがもう一度、寄り添いあってくれたら…そんな事を
思いながら、サンジは足取りも軽く、真っ直ぐに病院へ向かった。

受付で「失礼。ミルク少佐に面会したいんですが…」と尋ねると、若い女性が愛想良く、「…ミルク少佐ですね。多分、奥様と中庭で散歩されてると思います。ご案内しますわ」と快く、中庭まで案内してくれた。

(…そうか、タキさんがずっと付き添ってくれてるのか…)
タキが、ライに付き添ってくれている。ライを誰よりも大切に想ってくれる人が、ライの傍らにいる。

まるで自分に新しい恋人が出来たか様に心が浮き立ち、自然に笑みが口元に浮かんだ。

(…それにしても、一体、何時、あいつはタキちゃんに手紙を書いたんだろ…?)
全くサンジは気が付かなかった。

その手紙がどんな内容だったのか、どんな気持ちでライがタキにその手紙を書いたのか、サンジが知る由もない。

「…今、奥様をお呼びして来ますね」、
中庭、と言われるだけあり、小奇麗に整備された公園の様なその場所は、周りをずらりと病棟に囲まれていた。

新芽もまだ芽吹かない落葉樹に、真上からの初春のぼんやりした太陽の光が降り注いでいた。その優しげな光の下、小柄な女性と、青い髪の青年が並んで立っている。
受付の女性が、「奥様、」と女性に声をかけるのをサンジは少し離れた場所で、コートのポケットに手を突っ込んだまま、眺めていた。

「…オーナー。来て下さったんですね」
小走りに走ってきたタキがそう言って、サンジを見上げて本当に嬉しそうに微笑む。
通常の人間よりも年を取る速度がずっと遅いサンジと比べ、実際にはタキの方がかなり年は下なのに、若い盛りはとっくに過ぎて、見た目はサンジよりもずっと年上に見えた。

「ええ。タキさんこそ、ずっとあいつに付き添ってくれて…」
サンジが心から礼を言うと、タキは少し悲しげに見える笑みを浮かべて、「…いいえ、そんな事…」と謙遜するかのように小さく頭を振る。

そして、何かを迷っている様にタキは一瞬、目を伏せた。
だが、大きく、しっかりと瞬きをし、腹を括ったかのように、サンジを見上げた。
「…明日、退院できるし、現場復帰も決まっているですが…」
「少しだけ…。ほんの少しだけ、問題があって…」
「問題?…何か、後遺症が?」サンジがそう尋ねると、
「後遺症、と言う程でもないかも知れませんが、」とタキは曖昧に頷いた。

「…特に、重要な記憶障害がある訳じゃないんです、ただ、…子どもの頃から、ここ最近までの記憶までがすっぽりと抜け落ちてる様な気がして…、時々、会話が噛みあわなくなるんです」
「…オーナーに会えば、もしかしたら、その抜け落ちた部分を思い出してくれるんじゃないかな…と思って…」

(…子どもの頃から…ここ最近までの記憶…?)

空間の距離感が上手く把握できなかったり、普通の人間が当たり前に出来る、至極単純な作業が酷く困難になってしまうことだってあるのに、それだけの後遺症で済んだのなら、
奇跡と言ってもいい。だが、実際はどうなのだろう。
部分的に記憶が欠落してしまう、そんな事があるのだろうか。
(…タキちゃんの気の所為かも知れない…)

そう思い、サンジは、少し離れた場所にいるライに視線を向けた。
側にいたタキが急に離れて、訝しく思ったのか、ライは不思議そうな顔でサンジを見ている。

それから、サンジに向かって小さく会釈をした。
まるで、初対面の人間に向かってするような、遠慮がちで心細そうな、小さな、とても他人行儀な会釈を。

「…ライ…」愕然と呟き、サンジは立ち尽くす。
たったそれだけのライの仕草だったけれど、タキの言葉があながち気の所為ではないと、一目でわかった。サンジの胸の中にゾっ…と凍える様な寒気が走る。

「…声を掛けてあげてください。何か思い出すかも知れません」と促す、必死なタキの声に背中を押され、サンジは一歩づつ、ライに近付く。

「…どうも、」

どこかおびえる様な目で、ライはサンジにそう言った。
心に壁を作り、誰にもその壁から内側に入れる事を拒んだ目をしている。

「…元気になったみてえだな」喉から絞り出す様に、サンジはライにそう声をかける。

ええ、おかげさまで。

そう答えるライの声には、まるきり感情が篭っていなかった。

ええ、おかげさまで!

そう言って、照れた様に笑う声は聞こえない。
いつもなら、懐こくサンジに向けられる無邪気な眼差しの欠片も見えない。

サンジの知らない、サンジを知らない、ライがそこに立っていた。

サンジとの刻んだライの歴史、想い出、たくさんの記憶。
断ち切ろうとしても、断ち切れなかった、濃密な憧れと思慕の情。
その全部が抜け落ちた、からっぽのライがサンジの目の前に佇んでいる。

サンジが知っている、サンジが親愛の情を以って愛したライは、もうこの世のどこにもいない。

それでも、生きて欲しいと願ったのは自分だ。こうなる事の可能性も、知っていた筈だ。
悲しむ事は何もない。これで良かった筈だ。

それなのに、どうしようもない寂しさが津波の様に押し寄せてくる。
(…ライ…これで、お前とは…ホントに終わりなんだな…)

はにかむような笑顔も、少年の頃から変らない、純粋に自分の苦しみや悲しみを昇華させる為にサンジの胸の中に流した涙も、もう、二度とサンジが見る事はない。

ゾロには、ゾロの夢があり、使命がある。想いあっていて、誰よりも深い部分で分かり合っているけれど、それぞれ、自分だけの領分があり、そこはお互い立ち入れない。
だからこそ、ゾロに向かって「お前の心はいつだって俺だけのモノだ」などと思った事は一度もない。

けれど、ライは違う。今まで、ライの心はどんな時でも、サンジだけのモノだった。
絶対に、何があっても、それだけは揺るがない確かなものだと、サンジは無意識に自惚れていた。
そのライの想いは、もはや永遠に、取り戻す事は出来ない。
そう身に染みて感じた時、サンジの心が疼く様に痛んだ。
(…俺は…なんて、身の程知らずの大馬鹿野郎だったんだろう…)

生涯の連れ合いと決めたゾロがいながら、何故、こんなにも長い間、ずっとライに関わって来たのか。その愛を失って初めてやっと、サンジはその理由を思い知る。

かつて、ゼフはサンジを鍛え、育み、寂しさも涙も堪えて、夢を叶える為の航海へと送り出してくれた。そのゼフの愛情と、ライの愛情は、とても良く似ている。

代償などは求めない。ただ、ひたすら愛するだけ。
それも自分のやり方で、一切媚びる事のなく、それでも常に相手を想い、一心を捧げ、ただ愛し抜くだけ。

その事に、今、こうなって初めて気がつくなんて…。

「…ライ、」

何を言えばいいのか、サンジにはわからない。なのに、名前が呼びたくなった。
これからも、こうして本当の名前を呼べるのだろうか。
「ミルク少佐」と、仮初めの名ではなくこれから先も、こうして慕わしさを篭め、「ライ」と、その名を呼べるのだろうか。そんな愚問の答えなど誰にも出せない。

一度言葉を詰まらせてしまえば、もうきっと何も言えなくなる。
「…ライ、…良かったな」
助かって良かった。元気になって良かった。タキちゃんが側に来てくれて良かった。

…もう一度会えて良かった。

とても短い、そんな当たり障りのない言葉しか言えない。それでも、何も言えずに別れるよりはずっといい。

これからライは、サンジの知らない、サンジの想いの届かない遠い場所で、新しい人生を歩いていく。

「…」ライは黙って、少しだけ頭を下げ、視線を落とした。
初対面の人に何を話していいのか分からない。
どうして、この人は黙っているのだろう。自分を見て、どうしてそんな悲しそうな顔をするのだろう。自分は、一体、どんな顔をして、この人と向き合えばいいのだろう。

そんな不安げな表情を浮かべたライをサンジは始めて見る。
自分でもはっきりと分るほど、ズキン、と心臓が軋んだ。
かけがえのないものを失った痛みに、サンジの心が軋んだ。

「…元気になったら、店に来てくれよ。…招待状送るから…」

お前が俺を忘れてしまっても、俺はお前のくれたキモチを忘れない。
ありがとうな、ライ。ずっと、俺を愛してくれて
これからは、今まで、たくさん辛い想いをした分、たくさん、幸せをつかめよ

その想いを篭めて、サンジは優しくライに声をかけ、手を差し出した。
少し怪訝な顔をしながらも、サンジの差し出した手に向かって、おずおずとライも手を差し出す。

もう手袋を嵌める事のない、ライの体温をそのまま感じる事が出来る掌。
サンジはそれをしっかりと握った。

生きている温もり、力強さが、確かにここにある。
こうやって、それを感じる事も、多分、これが最後だ。
それだけに、ライのその温もりがとても愛しかった。

「…有難うございます…」
ライは感情を押し隠した様に、サンジを見ようともせず、視線を落としたまま、小声でそう答える。

「…またな」
声だけでなく、心に語り掛けるように、サンジはそう言って、ライの手をゆっくりと解く。

三ヶ月前、手術室に入る直前、しっかりと手を握り合った時、もう二度と手を握り合う事はないと思ったのは、ライの方だった。そして、

サンジさん、また逢いましょうね

そう言って、ライからサンジの手を解いたけれど、今度は、サンジの方からゆっくりとライの手を解く。

…また、逢おう…

頼りない約束であろうと、そんな言葉しかサンジには言えなかった。
さようならでも、有難うでもなく、再会の約束でもない。

例え、顔見知りの他人となってしまっても、これまで無償の愛を捧げてくれていた分、その未来を見守っていてやりたい。

そして、サンジはライに背を向ける。
タキに向かって、何も出来なくても、申し訳ない、と少し困った様な笑みを浮かべて、小さく、首を振って見せた。

タキは黙って頷き、サンジに深く、頭を下げる。
「…落ち着いたら、ご連絡します」と言うタキに軽く会釈を返し、サンジは「ありがとう…。待ってます」と無理に笑って、それから、タキの横を足早に通り過ぎた。

力になれなくてごめん、と言うべきなのに、そんな慰めを言う余裕がない。

ライの心の中に、もう自分がいない。それが、無性に寂しくて、泣き出したい。
けれど、ライにもタキにも、こんな身勝手な涙を一滴でも見せたくない。

何もかも忙しさに紛れて忘れられる場所に帰りたくて、駆け出したいとすら思った。

だが、その時。
「…あの…、」振り絞る様な、ライの声が、サンジを呼び止める。

サンジさん

耳の奥に、はっきりとライの声が聞こえた。そんな気がして、サンジの足が止まる。

まだ、サンジの名前をタキは教えていない。さっきの様子を見ても、今、ライはサンジの名前など知らない。
だから、名前を呼ぶ訳がない。頭ではそう思うのに、ライの声がはっきりとサンジの心に響いた。

空気を響かせる音ではなく、誰にも聞こえない声でライはサンジを呼んでいる。
そう感じて、サンジは思わず振り返った。

「…逢いにきてくれて…有難うございました」

そう言ったライの声に、サンジの魂が引き寄せられる。

もう、10歩以上は離れているのに、二人はさっき、手を握り合った時の距離で向かい合っていた。
そう思うくらいに、ライとサンジの魂が今、惹き合っている。

お互いがお互いを想っての決別。心が重なっているからこそ感じる距離。
その距離で、サンジはライの本当の想いを感じ取った。
心の中に、ライの本当の思いが流れ込んでくる。

「…ライ…お前…」
思わず呟いた声が、一瞬、魂が重なるほどに近付いた二人の距離を引き離す。

それは、とても微かな、表情だった。きっと、サンジにしか見て取る事は出来ないだろう。その悲しげな、物いいたげなライの眼差しがサンジに確信させる。

ライは、サンジを忘れてなどいない。
記憶を失くした、そんな風に装えば、ライの想いに報いる事が出来ないとサンジを
これ以上、苦しませる事はない。

いっそ、記憶を失くした事にして、自分の胸の中にだけ、死ぬよりも断ち難い想いを閉じ込め、生きて行く事をライは選んだ。

(…どうしてお前はそうまでして…そんな事しても、…報われる事は何もねえのに…っ)

気の所為や、思いあがりではない。
ライの目には、確かに涙が零れそうになっている。
だが、きっとその涙は絶対に頬を伝う事はない。その雫が零れたら、必死に堪えている本当の気持ちが止め処なく溢れてしまう。サンジに本当の気持ちを悟られてしまう。

サンジの為に、自分を愛してくれるタキの為に、ライは嘘を一生、吐き通さなければならない。けれど、今、涙を流せば、その決意が無駄になる。
だから、ライは堪える筈だ。ライなら、堪える筈だ。

ならば、サンジもこの切なさを堪えなければならない。
ライが嘘をつくのなら、サンジもこれから、いつかその嘘が、揺ぎ無い真実に変る事を信じて、サンジもライに嘘を吐く。

例え、サンジがライの嘘を見破っていると、ライが察していたとしても、ライならば、サンジのその気持ちを最後の優しさだと思ってくれる。

そ知らぬ顔をして、サンジはライにもう一度、微笑んだ。
ライも黙って、微笑む。泣き笑いの様な、そのどこか幼い笑顔は、確かに、サンジの知っている、少し甘える様な、ライの笑顔のように見えた。

本当に、ライは記憶を失くしているのか。
そして、ライはそれをサンジに見抜かれている事を悟っているのか。
本当の事は、二人ともわからない。
きっとこれからも永遠に曖昧なままだろう。

真実を見抜きながらも、本当の事を胸に秘めたまま、二人は決してそれを言葉にする事はない。追求もしない。

お互いの幸せを望んだ、これがライの愛し方であり、サンジへの愛の結末だった。


(完)

最後まで、読んで下さって、有難うございました。

オリジナルキャラがメインの作品でしたが、本当にここまで読んでくださって、
本当に嬉しく思います。

この作品を書くにあたって、ずっとBGMにしていたのは、「マタア●マショウ」でした。

感想、ご意見、心よりお待ちしています。


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