その掌に剣を握った日から、怖い物などなにもなかった。

死をどれだけ間近に感じても、怯えなど感じなかった。
もしかしたら、そんな感情を、そもそも持ち合わせていなかったのかもしれない。

けれど、突然、それが下らない思い上がりだった気がつかされた。

怯え、立ち竦み、前へも後へも進めなくなる怖さ。

この腕の中にある存在を失う事、それだけが 自分に取って、
底知れない恐怖なのだ、と。

「濃霧の夢」
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「なんで、俺の作った飯を一口も食わねえんだ。」と夕食の時、
キッチンに顔を出さなかったゾロにサンジが詰め寄った。

もう、半分ほどに欠けた月が見上げる高さに昇り、その光を波間に投げている。

ゾロは、力なく蜜柑畑の階段に腰掛けていた。

「すまん。」と、頭を素直に下げられ、サンジの怒りの矛先のやり場がなくなる。

「どっか具合でも悪いのかよ。」と思い掛けないゾロの反応にサンジは
僅かに拍子抜けしながら、それでも、らしくないゾロの態度を気にして、
すぐ隣に腰を下ろした。

7日で死ぬ、という奇妙な病気に感染した騒動は、まだ 記憶に新しい。
その弱った時のゾロの姿がよほど頭にこびりついているのか、
近頃、サンジは誰も見ていなければ、時折、以前より格段に
思い遣りのある言葉や態度をゾロに見せるようになった。

「いや、夢見が悪かっただけだ。腹は減ってる。」とゾロは力なく笑う。

「夢見が悪かった?」サンジは鸚鵡返しに聞き返した。
たかが、それくらいの事でゾロほどの図太い神経の男が飯を食べられなくなるなど、
サンジでなくても以外に思う。
聞きかえすのはごく自然な反応だった。

「ああ。」とゾロはまた、あまり冴えない表情で頷く。

「しゃべっちまえよ、悪い夢は腹に溜めこんでおくと良くないとか言うぜ。」
サンジは鼻で軽く笑いつつ、ゾロの肩に手を添えて体を引き寄せた。
内緒話を囁きあうような距離に二人は近づく。

自然にゾロの腕もサンジの体を抱きこむように引き寄せ、
サンジの肩に顔を埋める。

「俺の話し聞いたら、お前もメシが食えなくなるかもしれねえぞ。」と溜息をついた。

「アホか、夢の話しだろうが。」とサンジは一笑して、
「お前がそんなにリアルに自分の夢を語れるほどの話術を持ってねえのはよく
知ってるし、な。」とサンジは気軽にゾロに話しを急かす。

が。

「俺がお前を殺して、お前の心臓をガツガツ泣きながら食う夢だ。」

それを聞いて、一瞬サンジは絶句した。

その夜から、ゾロは自分が精神的に不安定になった、と自覚する。

人の夢は不思議な物で、たった1時間しか眠らなくても、
ものすごく長い夢を見る時がある。

鍛錬した後、転寝しただけ、
不寝番を交替する直前、居眠りしただけ、 

そんな僅かな時間でさえも、ゾロは臨場感というにはあまりにも
リアルな夢に苦しめられた。

自分を庇ってサンジが死ぬ夢。
ある時は、銃を持った男に心臓を撃ちぬかれて。
ある時は、大きな刃物が振り下ろされる自分の前へ飛出して来て、袈裟懸けに
斬られて。

また、ある時は必死で手を繋いでいたのに、
力尽き、サンジの手を離す。落ちる先は、「煮えたぎる火山のマグマの中だ。」

「本当に禄な夢じゃねえな。」とサンジは笑って本気にしないが、

その時々に感じる、サンジの体から迸る血潮の匂いも、
頬に降りかかってくる湿った感触も、なにもかもが、
夢だと思えないほどの迫力なのだ、とゾロは言う。

それ以来、ゾロはまるでサンジの命を確かめているように、
サンジを激しく抱く。
一日に何度も、一目さえなければ、ほんの数十分の時間でも、

悪夢を見た後、ゾロは必ず、悪夢を振りきるようにサンジを抱いた。

いつもなら、決してそんなペースも、行為のやり方もサンジは許さない。
だが、今のゾロは明らかにおかしかった。

"妙な悲壮感"、を、どこか切羽詰まっている、とサンジは感じた。

他の者には決して見せないゾロのそんな顔付きを見て、サンジは
ゾロの穏やかな眠りを守る為に、ゾロの行動を受け止める。

「多分、この前の騒動の所為だろ。」とサンジは楽観的にこの状況を捉えていた。

「いや、そんなんじゃねえ。」とゾロは否定する。
「まるで現実に目の前で見てるみたいに感じるんだ。」

悪夢を見る。

サンジが側にいないとあの悪夢が現実だったのでは、と言う思いに駆られ、
その姿を目に捉えても、声を耳で拾っても、現実なのか、夢の中なのかを
確実に感じたくて、その為にサンジの体温を貪りたくなり、堪え切れないのだ。

だが、無理はそう長くは続かない。
この船には、乗組員の健康についてとても細やかな気遣いの出来る船医が
いるのだから、二人が他の仲間にバレないように取繕っても、
無駄だった。

「サンジ、顔色悪いよ、最近。」

そんなチョッパーの言葉にもサンジは咄嗟に反応出来なかった。
蜜柑をもぎ取りながら、立ったまま一瞬、寝ていたらしい。

「嫌なら嫌だって言えばいいだろ。」
「なんの事だ。」

ゾロと恋人同士になってから、記憶を無くす前までは、チョッパーが
ドクターストップをかけないとそれこそ、
ゾロがサンジの体を壊してしまうのではないか、と思うほどの激しさと頻度だったが、
様々な出来事を積み重ねて、ゾロはサンジをとても大事に扱うようになった、と
チョッパーは思っていた。

こんな小言を言えるのは、記憶を無くす以前の二人の関係に戻りつつあるのだ、と
喜ばしい事なのかもしれないけれど、サンジの顔色と妙な歩き方は
船医として 見過ごせない。

「疲れてるんだろ?」とサンジの袖を強く引っ張って座らせる。
「まあな。」仕方なく腰を降ろしてサンジは、ため息のように煙草の煙を吐き出した。

「何か、困ってる?」とチョッパーは遠まわしに尋ねる。
露骨に「ヤリ過ぎだよ、ドクターストップ!」と言うと、
「余計な御世話だ。」と却って反発されるのが予想出来るからだ。

「そうだな。」とサンジは眼を閉じた。
こんな話しをする時間と隙があるなら、横になって眠りたい。

チョッパーがなにか話し掛けてくるけれど、もうサンジには聞こえなかった。

いつからそんな状態だったんだ、とすぐにゾロはチョッパーに
問い詰められる。

「俺は、夢占い師じゃないから夢の話しなんかされても正確な診断なんか
出来ないけど、夢見が悪いからって、相手がぶっ倒れるまで」
「セックスするなんて、正気沙汰じゃないよ。」

「面目ねえ。」とゾロは苦々しい顔付きで反省の言葉を口にする。

「ぶっ倒れただなんてクソ大袈裟だぜ、チョッパー。」と
一眠りして急に顔色の冴えたサンジが 
居心地悪そうなゾロと、腕組みをしてそのゾロを睨みつけている
チョッパーの間に割って入る。

「ちょっと寝りゃ、もう、治るんだ。そんなに怖い面すんなよ。」
「ダメだ。」とチョッパーは一言でサンジの言葉を跳ね返す。

サンジがチョッパーの勢いに押されて黙り込むと、
チョッパーは一気に捲くし立てた。

「疲れてるって、いい方を変えれば、体力が落ちてるって事だよ。」
「そんな時に、風邪を引けば肺炎になるかもしれないし、」
「いつもなら治る傷だって、なかなか塞がらないかもしれない。」
「それでなくても、次の島までどれくらいかかるか判らないんだ。」
「食料の管理をしてるサンジにもしもの事があったら、」
「俺達、全員、船の上で飢え死にしなきゃならなくなるだろ。」
「そこまで、考えてるか?二人とも。」

そこまで言われるとゾロもサンジも返す言葉がない。

「で、いつから嫌な夢を見る様になったって?」といいたい事を言って、
二人をやりこめて少し、鼻を高くしたようにチョッパーは
紙とペンを持ち、ふんぞり返ってゾロに尋ねた。

しばらく、じっと考えていたが、やがて
思い当たる事を一つだけ思い出した。

「あのヘンな獣を捕まえた島をでてからだ。」


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