「ねえ、コックさん、それ、"海の雫"じゃないの?」

サンジが夜遅くに風呂に入った後、着替えているとドアの外から
ロビンの声がした。

ギョっとする。
どこかに、ロビンの眼がへばりついているのかと思って
あたりを見回すと、真っ正面の鏡の横で、パチパチと長い睫毛の
真っ黒な瞳が瞬きをしていた。

「いつから見てたの?」とサンジは困惑したような笑みを浮かべて
その瞳に問いかけると、ドアの外のロビンがクスリ、と小さく笑った。

「バスルームに忘れ物を取りに来たの。今来たばかりよ。」
「男性の入浴シーンを覗き見する趣味はないわ。」
「ただ、あんまり暢気そうな歌声が聞こえたから、からかいたくなっただけ。」
「下着姿しか見てないから安心して。」

冗談なのか本気なのかよく判らないが、とにかく、サンジは今、
ズボンを身に付けてはいるものの、上半身は首飾りをぶらさげただけの格好だ。
慌てて、シャツを引っ掛けながら、

「そ、そうだよ。」とどもりながら、やっとロビンの質問にまともに答えた。

「それも相当極上の品ね。ご利益ありそう。」と言うと、瞳がスっと消え、
変わりにドアが開いた。

「本当に見てないわ。あなたの裸なんか見たら後が怖い事くらい知ってるもの。」と
笑顔をみせ、バスタブの側にあった、小さな手鏡を拾ってそのまま
出ていこうとした。

「ロビンちゃん、外で待ってたから冷えたんじゃない?」
「温かい飲み物でも作るよ。」とサンジはロビンをキッチンに誘った。

その夜、サンジはロビンから、今まで知りもしなかった
「海の雫」について、色々な話しを聞いた。

そして、今、夜明けの光を浴びながら、ゾロにその話しをしている。

「この"オールブルーの雫"は、持ち主を選ぶ。」
「何度その持ち主から離れても、その持ち主を守る為に必ず、その胸に舞い戻ってくる。」

ゾロはそれを聞いて頷く。
それは以前に、サンジがボン・クレーに渡したけれど、すぐにボン・クレーはサンジの
首に返し、また、ギンに渡しても、ルフィに渡り、そしてまたサンジのところに
戻ってきた。

それですでに実証済みだ。

「それから、なんでも、魔除けになるんだとか。」
「陸のバケモノは、海の王様に海へ引き摺りこまれる事を恐れる。」
「で、このオールブルーの雫に選ばれた者は、その王様の子孫だとされているから、」
「陸のバケモノの魔力を跳ね返すんだとさ。」

サンジはそう離しながら、首飾りを外して、ゾロの首に掛けなおす。

「俺ほどじゃねえけど、悪くねえな。」と笑って、タバコを吹かした。

「ロビンちゃんの保証つきだ。もう、今晩から嫌な夢は見ねえ。」

ゾロはなにを言って返せばいのかわからなくて、こそばゆさを堪えるような
顔をして黙ったまま、サンジを見る。

「なんだよ、その面。」とさっきまでの笑みが一瞬で顰め面に変わった。

「いや。」
ゾロはこんな風に、優しく扱われた事が一度もないので、
(なんでか、こう)恐ろしいような、なにかにビクついているような、
落ち着かない気分になっている。
嬉しがっていい筈なのに、どうにも現実味がない。

(これも夢だったなんてあんまりだな。)と思った。
それはそれで バクの呪いなら ゾロは微弱で、不快な打撃を受ける。

だが、首飾りの感触も、太陽の温もりも、風の強さも夢のような曖昧さがない。
けれど、今まで見てきた夢があまりにリアルだった事と、
今のこの状況が逆に非現実めいていて、ゾロはどこか、ぼんやりとした
反応しか出来なかった。

その途端。
腸に凄まじく重い衝撃が撃ち込まれる。

「ゲホッ。」
まるきり無防備だったので、ゾロはまともにサンジの膝頭を鳩尾に食らってしまう。

「礼くらい言え。至宝の品を貸してやるんだからな。」とサンジは言い捨てると、
クルリと背を向けた。

蹴られたのに、ゾロはこれが間違いなく現実だと認識できた嬉しさと
安心感で、ふつふつと笑いが込み上げてきた。

「蹴られて笑ってンのかよ。薄気味悪イ奴だな。」とサンジは苦々しい顔付きで振り向く。
「いや、悪イ。借りとく。ありがたく、借りとくぜ。」と笑いながら、
ゾロは切れ切れに礼を言うと、サンジは訝しげな顔つきのまま、
見張り台を降りて行った。

その日から、確かに夢は見なくなった。
けれど、変わりに、はっきりとゾロは船内に"敵意"の存在を感じとる様になった。

「夢に入って来れないから、わだかまってやがる。」

それは、影の中にいる。
怒り狂った獣の視線、草むらに身を潜ませて、爪を磨ぎ、牙を剥き出して、
唸っている獣と同じ気迫を、常にゾロは 自分の周りの影の中に感じた。

だが。
(なにも手だし出きねえ奴らを怖がる事はねえ。)と相手にしなかった。

彼らは、ゾロ以外には気配を気取られれる事はなく、
ルフィでさえ、その存在に全く気がつかない。

嗅覚のするどいチョッパーもまた然りだ。

(ロビンの言う事に間違いはなかったみてえだな。)と
"オールブルーの雫"の絶大な効果に、ゾロは彼らをどうにか振り払う方法を
ロビンに聞き出そうと考えた。

だが。
(いや、人の助けを借りたくねえ)とすぐに考えを翻す。

相手が魂の塊なら、こっちは気迫の塊で跳ね返して、
ふっ飛ばしてやる。毎日ぐっすり寝て、不安がなければ、獣の幽霊などに
(ビビってる俺じゃねえんだ。)とずっと付き纏う、

妖しい気配に、ゾロは普通の人間なら竦み上がってしまうような
挑戦的な視線で睨みつけた。

その膠着状態が数日続いたある日。

ゾロは、数日間続いた不寝番から解放され、格納庫で眠っていた。
となりにはサンジがぐっすり寝ている筈だった。

その呻き声で、ゾロは目が覚め、慌てて飛び起きる。

「おい。」と強く揺さぶるとすぐにサンジは汗だくで眼を醒ました。
いつもなら、「なんでもない。」と言う筈が、
初めて見たリアルな夢に相当驚いたのだろう、
「今、ものすごく右腕が重たかったんだ。折れるかと思った。」と
よほど驚いたのか、状況説明を早口でゾロに伝えた。

「重い?」とサンジの言葉を怪訝に思ってなにげなくその腕を見て、
ゾロは息を飲んだ。

青いシャツに覆われているその右腕に、もやもやとした、黒い霧か、
煙のように見えるものが絡みついている。
それが縄のように、サンジの腕を縛り上げて行く。

それを払いのけようとゾロが手を伸ばすと、それは逆に頑なに
サンジの身に食い込むかと思うほどグルグルと腕に巻きついて行く。

サンジの顔を見ると、痛みを感じるのか、眉間をわずかに寄せて、
唇を軽く噛み締めていた。

「見えるか。」
「いや、なんにも見えねえ。」

ゾロの不明確な問いにもサンジは澱みなく答える。

自分の腕の痛みを引き起こしている者がなにか、見えているか、とゾロは
サンジに尋ね、それをサンジは「見えない」と答えたのだ。

「バクだ。バクがお前の腕に絡んでる。」
「マジかよ。」

寒気とか、おぞましさなどなにも感じないのに、骨がヒビでも入ったかのように、
ギシギシと痛む。
それに、シャツにも妙な皺など寄っていないから、ゾロの言葉をサンジは
にわかには信じられなかった。

思わず漏れた言葉にはそんな気持ちと、素直に「薄気味悪い」と言う気持ちが篭る。

「待ってろ、こんな奴ら。」

ゾロは枕もとに置いていた刀、「三代鬼徹」を手に取った。

「もう一回、トドメ刺してやる。動くなよ。」

斬る、と言う気迫を込めた剣戟で威嚇してやる、とゾロは片膝をついた。
サンジはなんの疑いもなく、ゾロの目の前にシャツをたくし上げた右腕を晒す。

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