真っ白な霧が闇の黒を吸い取ったように、徐々に灰色になって行く。
ゾロは隣のサンジの姿さえ、目に捉えられないほどの深く、濃い霧に
もはや、視覚などなんの役にも立たない、と
むしろ、聴覚と殺気を感じる感覚を研ぎ澄ませた。

「聞こえるか。」

自分の足の先さえ見えない状態の中、サンジの声がする。

「ああ。」
ゾロは、サンジの端的な問いに戸惑いなく答える。

サンジの声が聞こえる、というのではない。
ゾロとサンジの魂へ、呪詛のような呟きが届いている。
耳から流れこんで来るような気はするけれど、恐らく違う。

バクには言葉などない。
自分達を絶滅に負いこんだ、二足歩行の脆弱な生物へ向けての怨恨の意志だと
ゾロにもサンジにも判る。
その声が 「聞こえるか、」とサンジはゾロに尋ねたのだ。

この世から切り離され、無限の闇に消えて行く事に抗う
知恵のある生物の夢を支配する力さえ持っていた、バクの最後の魂の声だった。

恐怖を
死に逝く事
死に絶える事
死を与える事
死を与えられる事に 恐怖を

灰色の風が吹く。霧を吹き飛ばさず、霧が渦を巻くだけの生臭い風が
霧に、バクの意志を乗せてサンジとゾロに叩きつけて来る。

こちらの魂はたったの二つ。
相手は、無数の幽霊の塊だ。

勝ち、負けという勝負でさえないような気がした。
これは戦闘ではなく、まるで、禍禍しい儀式の、生贄として狩られるような
不気味さと寒気を感じずにはいられない。
圧倒的な生物の執念を前に、臆して竦んだように、いつものような
戦闘意欲がどこからも沸き上がって来ない。

「お前ら、どうすりゃ、気が済むんだ。」

戦闘手段をゾロが考えあぐねている数秒を待ちきれなかったのか、
霧の向こうに見えるサンジの影がそう怒鳴った。

「どうすりゃ、この霧から出す」

戦う術が見つからないのなら、相手の要求を探る。
サンジは、そう考えたらしい。
その要求を飲むか、飲まないかは、別にして交渉するのは無駄ではないだろう。

お前が、殺すか。
お前が殺されるか。

サンジの問いに霧は即答する。

ここから出て、自分達の世界に戻りたいのなら、
われらの恨みを晴らせ。

さもなくば、永久にこの霧の中にさ迷うか。

「俺が、ゾロを殺せば、仲間をもとの世界に戻すんだな。」
「それか、ゾロが俺を殺せば、」

(何言ってんだ)とゾロはサンジの言葉を行きを飲んで聞く。

サンジは霧の向こうだ。
姿が見えない。ただ、薄い影だけが見える。

その影がふらりと揺らいで、ゆっくりとゾロの方へ向き直った。

サンジの身体の周りに纏わりついていた薄く灰色の霧が静かに
風に吹き流されて、ゾロの視界はサンジの姿を捉える。

「ッチ。」

ゾロはその姿を見た瞬間、思わず、舌打ちをした。

幻覚や、見間違いではない。
視界だけではなく、ゾロの神経の全てがそこに二つの呼吸を感じているのだ。

目の前には 二人のサンジがいる。
二人ともが、ゾロに銃口を向けていた。

「お前がニセモノだろう。」と言う言い合いはしない。

目の前に自分のニセモノがいると判っていても、まるで見えていないかのような
サンジの態度、眼差しのどれをとっても どちらに真偽を認めるべきか、
ゾロは抜いた刀を握る拳の力を一旦抜いて考えなければならない。

「お前が俺を殺やねえなら、俺がお前を撃つ。」

蹴りで、お前を殺すのなら頭を砕くしかない。
そんな事は出来ない。
だから、撃つ、とサンジの声は言う。

どちらのサンジが喋っているのかはどうでもいい。

「動くなよ。動くと狙いが外れるからな。」

「俺達が死ねば、ルフィ達はもとの世界に戻れるんだってよ。」
「だったら、一緒に死のうぜ。」

自分を撃った後、頭を自分で撃ち抜くつもりだとゾロは
淡々と話すサンジの口調から 推測した。

(なんで、この期に及んでニセモノを出す必要があるんだ。)と
まず、それが判らない。
判らないが、どちらのサンジの指が引き金にかかっていて、照準は自分の胸に向いているのは確かな事だ。

(あいつなら、)威嚇射撃をして、俺を煽るだろう。
本気で撃つ、と知らせる為に。

ゾロが腹の中でそう考えた時、軽い銃声が鳴った。
ゾロの頬を掠め、赤い糸のような傷をつけた弾丸が霧の中へ消えて行く。

(あいつが本物なのか。)とゾロは自分を撃った銃、
銃口から細い煙を出している銃を持っているサンジに強い視線を向けた。

「俺を殺した後、お前も死ぬんだろ。」
「だったら、撃っても構わねえぜ。」

そう言って、ゾロはニヤリとサンジを兆発するように笑って見せた。
俺が知ってるあいつなら、きっと。

確固たる勝算がゾロの胸に沸き上がってきた。

サンジも、ゾロの視線を受けて同じ様に不敵に笑う。

「ただし、狙いを外すなよ。」ゾロは、自分の両手に握っていた刀を全て、
鞘に収めて、二人のサンジに向かって大きく手を広げた。

「ああ。一発で撃ち抜いてやる。」

俺の知ってるあいつなら。

ゾロはもう一度、自分の考えが間違っていない事を自分に言い聞かせて
目を閉じる。

そして、霧の中で銃声が響いた。


ゾロの胸を撃ち抜く筈だった銃弾は、
唐突にゾロの前に自らの身を投げ出したサンジの背中を撃ち抜く。

ゾロがその体を受けとめ、サンジが息絶えている事を自覚した瞬間、
灰色の世界に蒼い閃光が走った。

銃を構えたままのサンジの胸にぶら下がっている「海の雫」が
まるで 灯台の眩し過ぎる光源のような光を放って、霧を弾き飛ばす。

人間など、この星の上に命を与えた存在からすれば、
ほんの1種類の生物にしか過ぎない。

人間の知己で説明出来ない事、理解出来ない事、
物事の全てに理由があって、結果があるけれど、
人間の価値観や言葉や予測では その二つが繋がらない事を
全て、「奇跡」とか、「不思議」とか言う言葉を当てはめる。

何故、そんな結果になったのかは、誰にも判らない。
判らないけれど、霧は消えうせた。

ゾロの腕の中にあった、サンジの骸も影も形もなくなった。

ゾロを撃った、その指が硬直して自分の腕から離れない。
凄まじい勢いで押し寄せる安堵と、その同じ勢いで引いて行く
緊張の間で、サンジは、立っていられないほどに体が震えた。

自分の賭けがいかに、無謀だったかを今更ながら恐ろしくなって
唇を噛み締める。

ゾロが知っている、自分ならきっと、あの状況なら、
ゾロを庇う。それを見越して撃った。

けれど、その計算が違っていたなら、と冷静になって見て、
(クソ、)物凄く恐くなった。
とサンジは今更ながら、全身がいつのまにか、汗でびっしょりと濡れている事に
その汗が目に入って沁みた事で気がつく。

「おい、」

ゾロもサンジと同じ計算をしていた。
自分の知っているサンジなら、必ず、自分を庇う。

そして、あの暴挙のような行動を取るのも、ゾロが知っているサンジだった。

「バカ、見るな。」と近づくなり、サンジはゾロを蹴り飛ばした。

そんな行動を取られるとは予測していなかったゾロは、咄嗟に受身をとったものの、
簡単に吹っ飛ばされる。

その騒々しい音を聞きつけて、ナミの怒鳴り声が聞こえた。
「なにやってんのよ、騒々しいわね!」

その声で、サンジはハッと顔を上げた。
雲が流れて、太陽が見える。

波を切る音、帆が風を受ける音。

現実を感じるにつれ、体の震えは消えて行く。

「おい、ゾロ。」とサンジは呆けたような顔と声で腹を押えたままのゾロの側に
近づいて来た。

「俺が蹴った所、痛エか。」そう聞きながら、サンジはまだ、空を見上げている。

こんなに空は蒼かったのか。
こんなに海の風は潮の匂いが強かったのか。

その感覚を確かめるように、サンジは風の吹く方へ顔を向けたままだ。

夢から覚めたような横顔を見ながら、ゾロは苦笑いし、
「ああ、痛エな。」と答える。

「さっきのアレは、」
「霧の中で見た、夢じゃなかったんだよな。」とあまりに唐突に
色彩を取り戻した自分の世界が 間違いなく、確かなものだと言う言葉を強請っているようなサンジの声に、ゾロは鼻で笑って答える。

「さあ、どうだかな。」

(終り)