そんな風に、冷静ぶっていたサンジだったけれど、
ふと、おかしな事に気がついた。

「どうして、こんなに長い間霧の中にいるのに、それをルフィもナミさんも
騒がねえんだ。」

それに気がついたのは、ゾロがサンジの膝の上に頭を乗せて、
小さな寝息を立てはじめたときだった。

月の光が霧ごしに拡散して見える。
朧気だといえば聞こえはいいが、視界が悪いとも言える。

方向は、ナミがログホースを見ているのだから、安心だろうが、
こんなに長い間、霧が晴れない海域など、そう滅多にあるものではない。
それに、そんな奇怪な状況にいるのに、
ナミも、ルフィも、冷静沈着なロビンも、恐がりなウソップもチョッパーも、
なんの違和感もなく、受け入れている事にサンジは今、急に違和感を感じた。

はじめて、薄気味悪い、と言う感情が心に走った。

そして、濃霧はサンジの「恐怖」を糧にして、幻だった姿に肉と骨と
血を、形ある幻影に、その姿を変えた。
ただ、ゾロに最高の恐怖を与え、悲憤しながら苦しみ、死に至る様を
見届ける為だけに。

翌朝、浅瀬に座礁した、とナミとロビンが船底を覗き込んでいる。
「船底が、岩と岩の間に挟まったみたいなの。」とナミが指差す方を
サンジとウソップが覗きこむと、海面スレスレにまで霧がかかって
「良く見えねえなあ。」と二人で目を必死に凝らす。

「ゴムゴムの〜」とルフィが大きく息を吸いこみ、パンパンに膨れ上がった。
「風船の〜〜。」頬を思いきり膨らませ、「逆流!」と叫びつつ、
口を尖らせて、凄い風圧で霧を吹き飛ばした。

だが、まるで纏わりつくような霧は、一瞬だけ、海面をサンジとウソップの目に
見せただけで、すぐに幕を下す様に二人の視界を遮った。

「ダメだ。こりゃ。」とウソップはサンジの顔を見る。
「そうだな。」

サンジは頷き、シャツのボタンを外す。

火薬星で岩を吹き飛ばす、と言うのは、海面から出ている岩だけを
粉砕しても無駄だし、かといって、船を挟み込んでいるような岩を破砕するだけの
火薬を仕掛けると、船も無傷では済まない。
悪くすると、その勢いで転覆する可能性もある。

ルフィの腕力なら、岩を砕く事も出来るだろうが、
海底まで潜って、岩を割るなど、能力者の欠点として、とても出来る事ではない。

ロビンとチョッパーも同じ条件で、海には潜れない。
だとしたら、サンジとゾロが海に潜って、岩を破壊するしかない。

「一人で大丈夫なの?」とロビンがシャツを脱いで、スラックス一枚になり、
命綱をつけたサンジに心配そうに声を掛けた。

「ああ、ロビンちゃん、俺の事をそんなに心配してくれるんだね。」
「僕はなんて罪な男だ・・・ロビンちゃんの麗しい顔に哀しい影をおとしてしまうなん」

さっさといけ、とばかりにまだ、最後まで口上を述べていないのに、
ナミはサンジを船ベリから叩き落す。

船底の方で大きな水音がした。

「あらあら。」とロビンはサンジが落下していった付近の船べりに駈けよって
下を覗き込んだ。

サンジは何事もなかったように、スイスイと泳いで行く。
腰にしっかりとロープが結ばれているのを確認して、ロビンは、念の為に
目を閉じて、サンジの潜った海底に危険がないかを探り始める。

「なんだよ、さっきの水音」とゾロがやっと目を覚まして、甲板にやってきた。
座礁した時、大きく船が揺れ、傾いだと言うのに、目を覚まさなかったゾロに、
そこにいる全員の呆れたような視線が注がれる。

「船が座礁したのよ。サンジ君が今、海底の岩を蹴り砕きに潜ってる。」と
ナミは手に握ったロープをゾロに見せた。

やがて、船が大きく、ゆっくりと揺れる。
鈍い轟音が船底から響いた。波紋が大きなうねりとなって、ゴーリングメリー号を
揺さぶる。

「ルフィ、引っ張って!」すかさずナミが叫べば、
「おう!」と答えたルフィがロープを引っ張った。

穏やかに見えた海流だが、岩を砕けば突然、流れが変わってしまう。
カナヅチとまでは行かないが、浮力が異常に低い 半分能力者のサンジが
巻きこまれたら溺れてしまう。その為の命綱だった。

それだけの事で、体力を消耗する筈もないのに、
サンジはその夜、ひどく体が疲れ過ぎていて、目が冴えてとても眠る事が
出来なくなった。

おかしい。

どうも、自分達が生きている世界からかけ離れた場所に知らない間に連れてこられて、
催眠術にかけられている人間の中に放りこまれたようなあやふやさを
感じる。
言葉では美味く説明出来ない。けれど、どこまでも同じ風景で、
じぶんの作る食事の回数だけが時間を刻んでいるような気がする。

「眠れねえのか。」と何度も寝返りを打っているうちに、隣で眠っていたゾロが
目を覚ました。

「ちょっと、寒くてな。」とサンジは素直に答えて起き上がる。
そして、格納庫の壁に、壁に投影された自分の影の、
その瞳と目が合ったような気がして、息を飲み、体を強張らせた。


(気の所為だ)
ただ、そう見えただけだ、とすぐにサンジは気がついて、
ホウ、と長い溜息を吐いた。

(だるいな)と
サンジは、疲れが体に残っている、と言うよりも、
病み上がりのような鈍い重さを背中に感じる。
どうにも頭もくらくらして来た。

目の奥が痛い。

「クソ」
片手で目を覆い、自分の体が自分の管理とは違う状態に陥りつつある事を
忌々しいと重いながら そう呟いたとき、ゾロは横になっている自分の側にサンジを
引き倒し、自分のすぐ脇に引き寄せた。

寝かせたサンジの変わりに、今度はゾロが起き上がり、
おもむろに自分の首から下げた「海の雫」を外し、サンジの胸の上に置いた。

海の雫が僅かな光源を受けて輝いた時、途端、
格納庫の中には獣の匂いが一気に充満し、二人は思わず、
その異臭に自分の掌で鼻を覆った。

(死臭だ)とすぐに判る。

ギリギリと歯軋りが聞こえるような気がした。
獣には言葉はなく、今は、執念だけが凝り固まっていて、
それがサンジとゾロを威嚇していた。

姿も、声もないのに、凄まじい憤りが格納庫に満ちていた。
いや、この船に、ゴーイングメリー号を包む霧、そのものが、

ゾロが斬り殺したバクの死霊なのだ、と二人は初めて気がついたのだ。

「海の雫」の神秘な力も、ゾロか、サンジのどちらかしか守れないのか、
サンジがゾロを守ろうとしても、もう、海の雫は主の身を守る為にのみ、
輝きを放ち始める。

「俺を始末しねえと、どうしても、この霧の中から出さねえつもりらしい。」と
ゾロは低く呟いた。

傍らの鬼徹に、周りの気配を窺いながら手を伸ばす。

「しかも、お前を道連れに。」とゾロはサンジを一瞥した。
「なるほどな。」とサンジはまるで、他人事のように飄々と答える。

だが、その顔色はひどく青白く見えた。
生気を吸い取られているかのように。

「食料の癖に生意気なんだよ。」とサンジは呟くと体を起こした。
「絶滅したのは、俺達の所為じゃねえ」
「この世の中に存在する意味がねえって事だろうが、」

言葉が通じない相手でも、サンジの本気の罵声は届いた。

凄まじい殺気を含んだ空気が自分たちに遅いかかるのを察知し、
ゾロとサンジは身構える。

ゾロは刀を抜き、サンジは跳躍の為に力を蓄える。

形ないモノと戦うのに、武器は無駄かも知れない。
けれど、決して負けない、と言う気持ちさえあれば、それがなによりも強力で、
有効な武器になる。

牙も、毒も、鋭い爪もない動物の筈の、このバクは、
生き物の恐怖を思うままに操る、一種の"能力者"だった。
それが一体ではなく、無数の個体の幽魂が結びついて、一つの意識となり、

自分達の憤りを全て、ゾロへ、
ゾロが感じる最大の恐怖と、それを現実にする為に、最後の手段を講じ、
そして、最後のチャンスに、最大の力を注ぐ。

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