過去の旅 2008年8月
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ドライブto福井(8/10〜8/12)
  毎年、恒例の夏旅行は今年もドライブ。最近、車でしか旅行に出ていなくて、少しマンネリだが、今年は、昨年も一緒に旅行に行った友人に加え、もうひとり初参加の友人も一緒で三人での旅行になりました。行き先は、やはり今年も出発直前まで何処に行くかは決めていず、二人をひらったあとに何処に行こうかという話をして、とりあえず、北陸の方にでも行こうかということになりました。初参加の友人は、その何も考えない行き当たりばったりの旅行に戸惑いながらも、楽しんでくれたようです。夜、仕事が終わってからの出発で、友人二人は堺なので、堺までひらいに行き、丁度、深夜0時に堺出発となりました。ドライバーは僕ひとりということもあり、とりあえず、疲れるまで走るということで、名神、北陸道と走り、4時ごろには福井に着き、コンビニの駐車場に車を停め、少し仮眠をとることにしました。
 福井市一乗谷(8/10)
   8時起床。地図を見て現在地を確認すると、比較的近くに、朝倉氏の一乗谷遺跡が近くにあるので、とりあえず、それを見に行こう言うことになりました。
 一乗谷はいわずと知れた戦国大名である朝倉氏の居住地。戦国時代の城下町で400年以上もそっくり埋もれて残されていた貴重な遺跡だそうだ。一乗谷城自体は山の上に築かれた山城だが、麓の一乗川沿いの谷間に朝倉氏の館を始め武家屋敷や寺院、町屋などの城下町が建設されていたことが発掘で明らかななている。もともと朝倉氏自体は兵庫県養父に出自がある武士であり、越前守護であった斯波氏が主家に当たる。後、斯波氏に反旗を翻し越前の守護となり、美濃街道沿いにも近い当地に居を構えたようだ。応仁の乱による都の荒廃から逃れた人たちが多くこの地に拠り、華やかな文化が伝わったことがこの地が栄えた原因とされている。現在は、史跡公園として整備されていて、のどかな風景がなかなかいい雰囲気を醸し出している。また一乗川上流には佐々木小次郎も修行をしたという一乗滝などもある。少し下流には一乗谷朝倉氏遺跡資料館もあり、それなりに朝倉氏の歴史を知ることができるようになっている。
  一乗谷をたったあとは、越前大野へ。趣味の神社めぐりを少しした後、大野のまちの観光へ。
 大野市(8/10)
   越前大野は戦国末期、信長の武将であった中森長近によって築かれた城下町。その後は、城主が度々変わり、越前松平系の藩主が続いたこともあったが、天和年間には土井氏が入封し、以後、明治まで土井氏の支配が続く。まちは、「北陸の小京都」と呼ばれなかなか情緒のあるまち並みで、メインストリートともいえる七間通りでは400年以上も続く七間朝市が行われているそうだ。まちに着いたのが昼過ぎということもあり、朝市は見ることができなかったのが少し残念。先ずはお腹がすいたので昼食をとろうということになり、越前といえば蕎麦という安直な発想から蕎麦屋に入ることにしました。観光マップなどをみて、まちの中心部にある「福そば」という店に。味は決して悪くないのだが、量がすこし少なくもの足りなく感じました。
 で、そのあとは、先ずは大野城へ行く。天守閣は安永年間に焼失し、現在のものは1968年に再建されたものだそうだ。土井氏といってもピンと来ないが、藩政改革を行った七代利忠公が有名なようで、藩校の明倫館(その名は現在も小学校・生涯学習センターなどが入っている学びの里「めいりん」に採用されている)を作ったり、大野丸という船を作り、蝦夷開拓を目差したり、あるいは、大坂などに大野屋という藩直営の店を開き、大野の地場商品を売ったりと、様々なことを行ったそうである。亀山と呼ばれる小さな丘の上に作られた城から眺める大野のまちの風景は、なかなか素晴らしく城のあるまちはいいな改めて思ってしまう。
 そのあとは、ゆっくりと大野のまちを歩きまわる。まちは南北の道が二番通り、三番通りというような名称で、東西の道が七間通り、六間通りとなっており、なかなか城下町らしいまちのつくりになっている。また、大野のまちは名水でも有名なようで、まちのあちこちに清水が湧いていて、名水をつかった味噌や蕎麦が名物とされているそうだ。
  で、まちを見てまわっあとは、車に乗り、九頭竜湖に向かう。ダムの壮大さとそこに沈み行く夕日の風景は素晴らしく、思わずダム萌えな感じを堪能しました。そのあとは九頭竜温泉につかり、ゆっくりとしてから、勝山辺りまで車でもどる。といってももう夜は随分と遅くなったので、適当にご飯を食べてから、その日も車中泊ということになりました。
 永平寺町永平寺(8/11)
   次の日は朝から永平寺。永平寺町自体は永平寺の門前町として発達したまちだが、平成の大合併では、松岡町・上志比村と合併し、町役場は旧松岡町の置かれている。旧松岡町あたりは見ることができなかったが、松岡町は一時期藩もあった城下町であり、役場がそちらに置かれるのはわかる話だが、永平寺町の名称を名乗るのはなかなか変わった例だろう。
 永平寺は流石に大きい寺で見て回るだけで、結構な時間がかかる。曹洞禅の寺に行くのは初めてで、是非次は予約でもして座禅を組みたいと思ってしまう。門前町自体はそれほど大きいわけではなく、お土産物屋などが立ち並んでいる。せっかくなので、昼飯代わりとはいかないが、お店で胡麻豆腐をいただく。で、永平寺の次は、丸岡町に向かう。
 坂井市丸岡町(8/11)
   先ずはやはり趣味で丸岡町あたり神社を少し巡る。で、その後ようやく車を停めてまちの観光。とりあえず、まちの中心である丸岡城(霞ヶ城)を観る。丸岡町自体には継体天皇の伝承地もあり、古代からの地であるが、まちの発展は江戸時代に丸岡藩が置かれて城下町が形成されてからなのだろう。また、日本一短い手紙の賞でも有名なまちだが、藩祖本多成重の父がその妻に宛てた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という手紙の故事がもととなっているそうである。本多氏は4代で改易となり、元禄以降は有馬家の城下町となる。丸岡城は数少ない現存する天守がある城で、最古の天守閣であるとも言われている。そのあと、城とセットになった歴史民俗資料館があったので、少し拠ってみる。で、城のあとは、少しまちを歩いてみたが、特に見るところもなく、基本的には福井市のベットタウンといった感じでしかないようだ。仕方なく福井市内に向かうことにする。
 福井市(8/11)
   福井市内は何度が行ったことがあるので、ちゃんとした観光はおいておいて、目的を変えブックオフを4件ほど巡る。で、そのあとは、お腹がすいたので、夕食にソースカツ丼の店に。食べたことがなかったので、とりあえずヨーロッパ軒という店が有名とのことで、その店にいってみる。ソースカツ丼の元祖でもあるらしく、味はなかなかいける。食べるまではどうなんだろうと少し懐疑的であったが、普通のカツ丼のように大きいかつが切られているのではなく、一口かつであり、なかなか食べやすい。いわゆるカツ丼とは根本的に違う商品でこれはこれで美味しいと思う。カツ丼という言葉だけ考えると卵とじである必然性はないので、決して間違った発想ではないといえるのだろう。
 で、そのあとは少し駅前の北の庄城址を軽く見る。福井市内は結局その程度にして、あとは風呂に浸かり、その日もやはり車中泊と言うことにする。
  車中泊は手ごろなところがなく、朝日町の道の駅まで移動してそこで寝ることに。なかなか星がきれいなところで、夜中、夏の第三角形など星を眺めながら、ビールを飲む。で、次の日は8時起床で、先ずは織田氏発祥の地である釼神社に行く。で、そのあと、鯖江にいき、少しだけ神社をめぐる。さらにそのあと、和紙の里、漆の里といった看板が出ていたので行ってみるが、ともに定休日でしまっていて大したものはみることができなかった。仕方なく、鯖江市内にもどる。
 鯖江市(8/12)
   鯖江は享保年間に成立した鯖江藩の陣屋町。それ以前の鯖江は、浄土真宗誠照寺の門前町ではあったが、十数件ならぶ茶屋町でしかない北陸街道沿いの寒村でしかなかった。福井藩領や小浜藩領が入り組んでいて、陣屋の造営もままならないなかで、徐々にまちが形成されていったようである。また鯖江はメガネのまちとしても有名であるが、こちらは明治の後半になって、雪が積もって仕事のできない冬でも家の中でできるものとしてメガネづくりが始まったそうである。
 特に鯖江の何処によりたいというものはなかったが、鯖江資料館というのがあったので、そこによってみる。そこで、鯖江市には鯖江藩以外に吉江藩があった時期があり、近松門左衛門が幼少期を過ごしたまちであるこを知り、そこに行ってみることにする。吉江藩は福井藩の支藩として一代30年ほどの間、存在した藩。七曲と呼ばれるまちを貫く道が現在も確認でき、風情のあるまち並みも残っている。藩邸跡の碑や近松の碑が建てられているが、あとは特に見るべきところはないので、あっさりと吉江の地もあとにすることにする。
  で、あとは特に見たいところもなかったので、海沿いの越前海岸あたりを走りながら、ゆっくりと帰路に着くことにする。結局、敦賀まで走り、敦賀で夕食代わりに焼きさばを購入。気比の松原で夕日の落ちる海を見ながらそれを食べる。美味しい焼きさばは旅の締めにはぴったりで、あとは敦賀のまちはたいして拠らず、そのまま高速を飛ばして帰ることにしました。
 
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