過去の旅 2008年9月
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とりあえずドライブ東へ(9/14〜9/15)
  今回は連休を利用して尾張と美濃あたりに少しだけ言ってきました。神社めぐりと古本屋に少しよるのが基本で、あとは少しだけまちを見たところもあるといった程度。朝出発で、とりあえず東へ。名古屋高速を走りながら、清洲城が目に入ったので、清洲城ってよったことなかったので、どんなものか少しよってみました。
 清須市(9/14)
   清洲城といえば、織田信長の本拠地。もとは、守護の斯波氏が城を建てたこともあったので、ある程度尾張の中心地だったのだろう。といっても、信長は清洲に入る前は、那古野にいたりもするので、戦国時代はさすがに群雄割拠といったかんじなのだろう。どちらにしろ、信長の清洲入城以来は、尾張の中心地で、信長の死後、清洲会議の舞台でもあり、要の地だったのだろう。江戸時代に入り、清洲から名古屋に移ることになり、中心地移動ということになる。名古屋移転の際には、城下町ごと名古屋に移させ、清洲は廃城になったそうである。もともと古代の中心は現稲沢市あたりなので、少しずつ中心地が移動していったパターンのようだ。
 現在の城は、清洲町の町制100周年を記念し、平成元年に再建されたもので、資料も残っていなかったので、当時の外観は全く残っていないことになる。電車からもよく見え、街中に旧に天守閣が現れるので、ちんけな感じがするので、長いこと入ってみる気にはなれなかったのだが、改めて近くから見ると、まぁ、天守閣だけならこんなものだという気にはなる。まち自体は、現在はベットタウンなので、特にどうということはなく、清洲に城下町があったころの雰囲気が残っていればいいのだが、何も感じることができなくて、モニュメントである清洲城のみが、当時をかたるものになってしまっているようだ。
  清洲の後は美濃国に入り、神社めぐり。たまたま美濃大田にやってきたので、せっかくだから宿場町を見ていくことにする。
 美濃加茂市美濃太田(9/14)
   美濃太田は中山道の宿場町。木曽川沿いのまちで、宿場の東にある太田の渡しは中山道三大難所といわれた所らしい。昭和2年に太田橋が完成するまでは、船で可児市側へ渡っていたそうである。まちは、宿場町らしく細長く、本陣門や脇本陣(国重文)といった建物が残っている。そのほかにも高札場跡や一里塚、道標といった宿場町らしいものが残っており、軽く歩きながら楽しむのにはいいところだろう。また中山道会館の展示室は、当時の雰囲気も楽しめるようにできていて、宿場町の様子が面白く紹介されている。
 他には日本ライン下りといって犬山市までの13kmほどを船で下りながら風景を楽しめるそうだが、そちらは当然時間がないので、見ることはできなかった。日本ラインという名称は、川の風景がライン川に似ているからという、なんとも言いがたい名称のつけ方だが、まぁ、機会があれば、川下りも楽しんで見たいとは思う。
  で、なんだかんだで時間がたってしまったので、岐阜までもどり、そこで泊まることに。さらに二日目は、朝から神社めぐり。少し時間がかかってしまったことと、雲行きが悪くなったこともあり、色々と見て回ることはあきらめて、昼過ぎにはもう、帰路に着くことにしました。まぁ、神社めぐりが中心のちょっとした旅でした。
 
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