第2章  「呪いの剣」  1  2  3 4

「大丈夫だよ、ちょっとした簡単な手術をして、きちんと薬を飲めば目は治る」
男の腕の治療と同時にチョッパーは、男の息子の目の治療も始めた。
数日の間、チョッパーとサンジ、ゾロはその家に居続けて男とその子の目の容態が落ち着くのを見守っていた。
「あの・・・」
サンジが何度目かの食事を作っていたら、男の息子がおずおずと近寄ってきて、
小さな声でサンジに声をかけた。
(聞こえてるだろうに)とゾロは男の側から台所に目を向け、二人の様子を
眺めていたが、息子の声にサンジが全く反応を返さないのを訝しく思って
首を傾げた。

「あの・・・、あの、」
ゾロはその子が父親以外の誰かに声を掛けるのを初めて見た。
他の者ではなく、その子はどうしても、サンジに用があるらしい。端目から見ても、
とても一生懸命な眼差しで、小さな拳をギュっと握り締め、サンジの背中を見上げている。
「聞こえねえな、そんな小さな声じゃ」とサンジは振り向きもせずにそう言った。
「あの、コックのお兄さん!」とその子はいきなり大声を出して、サンジにそう呼び掛ける。
そうすると、やっとサンジは振りかえった。
「なんだ、そんなに元気な声が出るんじゃねえか」
「なんだ」
(女の子ならもう少し、優しい声を出すかもな)とゾロはどこかつっけんどんなサンジの声を
聞いてそう思った。とても大人しく、内気な子供だから、大の男に無愛想に言葉を言い返されたら、それだけで充分怖いと思う筈だ。だが、その子は緊張しながらも、食い下がっている。
「あの、あの、ごはん・・・」
「あ?今食ったばかりだろ?足りなかったか?」
サンジにそう尋ねられ、男の子は首を振った。
「なんだよ、はっきり言え、男だろ」とサンジはその子に向き直る。

男は枕から少しだけ頭をもたげて、ゾロがじっと見守るのと同じ様に黙って、
台所の風景を眺めていた。
「俺、父ちゃんの替わりに、ごはんを作りたいです」
「おにいちゃんが作るみたいな、美味しいごはんを作れるようになりたいです」
「教えてください」
「あのな」サンジはそう言ったその子の前にストンと腰を落として目線がまっすぐに
向けられるように姿勢を低くした。
「包丁は、刃物だ。お前のオヤジさんの腕を斬ったのと、同じモノだ」
「使い方を間違えれば、指を斬って痛い思いをする」
「もう少し、大きくなってからオヤジさんに教えてもらえ」そうサンジが言い終った途端、
その子は思いがけない程大きな声で
「それまで、どうやってごはんを食べるの?!」とサンジに言い返した。
唐突な反応にサンジは咄嗟に答えを返せないで唖然としている。

大人しいとばかり思っていた子だったが、一度言い出すと退かない頑固な面があった。
それからずっとサンジの後ろをついて歩いて同じ言葉を何度も何度も繰り返していた。

もう二人とも容態が落ち付いたし、明日には船に帰ろう、と決めた朝だった。
(腹が減ったな)とゾロは全く朝飯の準備が出来ていない様子に落ち着かなくて
台所へ足を向けた。
「しっかり、ここを握らなきゃグラグラするだろ」
「指はこうやって使うんだ。これが剥けるようになったらどんな野菜でも
果物でも綺麗に剥けるから頑張れ」

サンジの声と温かな優しい匂いが台所から流れてくる。
台所の隅に子供を抱える様にして包丁を握る小さな手に自分の手を添えて、
果物を剥いているサンジの姿が目に入った。

穏やかで、楽しげで、何故かゾロの目には、そのサンジの姿がとても清らかに思え、
一瞬、思考も行動もなにかに縛られた様に、その場に立ち尽くす。
自分の価値観とサンジの価値観がその一瞬に交差した様な気がした。

サンジが包丁を握っている姿など見慣れていた。
その姿を崇高だなとどゾロは一度も思ったことがない。
包丁と刀では、材質は同じでもそこに篭められた魂が全く違うモノでどこか
サンジを見くびっていた事にその時、初めて気づいた。

サンジが小さな掌ごと握っているのは紛れもなく刃物だ。
サンジが生きて行く上で、その掌には刃物が握られている。
命を奪う為ではなく、人を生かし、人を癒し、人を和ませ、人に満ち足りた幸福感を
与える為の刃物だ。
朝の柔らかな光りの中、幼い子供に刃物の使い方を教え、腹を満たす料理を教えている姿は
ゾロが断ち切って、彼ら親子から奪った何かを再生させる為の儀式の様に見える。





何かを見て、美しいと思う事はごく稀だった。

だが、今、ゾロは自分が見ている光景をもうしばらく、じっと見つめていたいと思う。
サンジの声や仕草の一つ一つに心が揺さ振られ、愛しさとその存在を貴いと思う気持ちが
込み上げて、心からこぼれて行きそうだ。気づけば、サンジから目が離せない。
今、何か言葉を言えば、駆けよって気持ちの命ずるままに抱き締めれば、この光景が崩れてしまいそうで、ただ、佇んで、二人の様子を見つめていた。

「世話になりっぱなしで何もお礼が出来なくて申し訳ない」
「いや、」ゾロと男は数日前、命懸けで刃を交えた者同士とはとても思えない程、
すっかり打ち解けていた。話題は大抵、刀の話しだったが、ゾロにとっては刀についても、
剣についても男の知識は到底ゾロには及びもつかない程、幅広く、深い。
「この前、妙な剣を手にいれたんだが」ふと、ゾロが思い出してつい数日前に海賊から
奪った剣の事を口にした。
「妙な剣?」「ああ。さほど斬れそうにはないんだが、妙に血ぐもりがあって・・・」
ゾロはあの剣について、思い出せるだけの事を男に話した。
「なんだって」男はゾロの話しの最後まで聞き終わる前に顔色を変えた。
「それは、・・・この紋様が刀身に刻まれていなかったか」そう言いながら、左手で
自分の刀を掴んで引寄せ、ゾロに手渡した。
「どの紋様だ」ゾロは刀を受取りながら、尋ねる。男はどこか切羽詰まっている様な
表情を浮かべている。(なんだ、なんか謂れのある剣だったのか)とゾロが驚いていると、
「刀身に刻まれている。抜いてみてくれ」と男はゾロを急かした。

「これか・・」ゾロは男に言われたとおりに刀を引き抜いて目の前に翳して見た。
「似てるが・・・そうだ、とまではわからねえ」
確かに、独特の紋様で同じモノだと言われたらそうとも見えるし、違うと言われたら
違うようにも見える。どこか知らない異国の文字をそれが読めない者が見たら、皆同じ様に
見えてしまうのと同じだ。

「絶対に誰にも渡さず、どこか深い海の底へでも沈めるんだ」
「本当は、呪いを解くのが一番だが・・・それが出来る者はもうこの世にはいない」
「オッサン、何か知ってるのか?」ゾロは思わず膝を進めた。

例の剣について特別に興味があったのではない。
サガの時と同じ様な、呪いを掛けられた剣がこの世にまだあった事に興味を
そそられただけだ。どう言う経緯で、またどんな呪いが掛った剣なのか。
ただ、それが知りたかった。

「その剣、一度私に見せてくれないか」
「違っていたならそれでいい」
「もしも、呪いの剣ならそれを決して人の手に渡らないようにしなければ」
「大変な事になる」男はゾロに多くを語らず、すぐにその剣を自分に見せる様にと
真剣な面持ちでそう言うだけだ。だが、饒舌に由来などを語らない事が却って、信憑性がある。

「判った。それならすぐに持って来る」
そう言ってゾロは立ち上がった。

「船の台所が見たい」と言う、子供も一緒にゾロとサンジは一度、ゴーイングメリー号が停泊している港へ戻る。まだ、ゾロには頑なだけれども、サンジにはすっかり心を許している様で、
相変らず言葉はあまり話さないが、ずっとサンジの手を握り、ニコニコとサンジを見上げて
いる。

ところが、ゴーイングメリー号へ乗り込む直前、いきなりサンジの手を握る力が
強くなり、ずっと満面に浮べていた笑顔が凍りついた。
「どうした、ボウズ?」
「ダメだよ、船に帰ったら」
「おにいちゃん、あの剣士のおにいちゃんに刺し殺される」
怪訝な顔で覗きこんだサンジにその子は震える声でそう言った。
「俺がゾロに刺し殺される?」
「なんだよ、それ」
「海賊船が怖くなったのか?」
ゴーイングメリー号の側には何隻かの船が停泊していて、その中には海賊船もあった。
その禍禍しい雰囲気に怯えて、幼い子が怖がっている、としかサンジは思えず、
気にも止めない。

「大丈夫、俺達は皆強いだから、ボウズにコワイ思いはさせないよ」
「あら、お帰りなさい」

サンジがその子を抱き上げて、ゾロが降ろした縄梯子を昇り始めると、甲板から
ロビンが顔を出した。
「可愛らしいお客様ね、こんにちは、ぼうや」
ロビンににこやかにそう言われても、サンジの腕の中で男の息子は表情を強張らせたままだ。
「お名前は?」
「タカヤ・・・」とそれこそ、蚊の鳴くような声でその子は答える。
父親が血まみれの姿でも顔色一つ変えなかった子供が、まるで目の前に恐ろしいバケモノが
見えているかのように怯えて、震えているのはあまりに異様だ。
「おいおい。あんまり気味の悪い事言うなよ?」とサンジは薄笑いを浮べながら、
タカヤを甲板に降ろした。「キッチンを見に来たんだろ?」

「ゾロ!あんた、一体なんなの、キャアアアア!」

サンジがタカヤの手を引いて、キッチンへと歩き出した時だった。
ゾロは、船に戻ってからすぐにナミのところへ例の刀を取りに行っていたのだが、
が蜜柑畑の方から、大きなナミの悲鳴が聞こえた。
ロビンもサンジも、その方へ顔を向ける。

「ルフィは?」とサンジはタカヤをロビンに押し付けながらそう尋ねた。
「長鼻君と島に降りてるわ。船にいたのは私と航海士さんだけよ」
口早にロビンは答え、「私が」「ロビンちゃんはこの子を頼む」

「行かないで、いっちゃダメだよ、おにいちゃん!」
「刺し殺されるよ!」タカヤは必死の形相でサンジに取り縋った。

「キャア、誰か、ロビン!いるんでしょ、助けて!」
タカヤを振りきって、サンジはナミの悲鳴のする方へと駆け出した。
「ゾロ!ナミさんになにやってんだ!」

ゾロの背中がまず、サンジの目に飛び込んできた。
その手には、真っ赤な霧を纏ったあの剣が握られている。
そして、それを振りかざしてナミを追い詰めていた。

(なにやってんだ、あいつ・・・っ)ふざけているとは思えない。
離れた場所でもビリビリと殺気が伝わってくる。けれど、サンジにはその殺気が
ゾロのものではないとはっきりと判った。
呪いの剣。
そんな言葉が頭を過った。何故、ゾロがあの剣の異様な気配に飲み込まれたのかなどは
考えている暇はない。今はとにかく、ナミをあの刃の前から助け出す事だけを
考えなくてはならない。
が、その暇さえなかった。ゾロが、ゾロの体が大きく剣を振り上げた。
「ナミさん!」
空樽の一つでもあればそれを蹴ればその一撃を回避出来た。
だが、それを見つける時間さえなく、サンジが取れる行動は一つだけだ。
ナミに体当たりをするつもりで飛出し、自分の背でゾロの振り下ろした刃を受けた。

その衝撃を殺さないまま、ナミを抱いて船の端まで転がる。
「ナミさん、ごめん!」「キャ!」
そう言い様、サンジはナミを海に向かって放り投げた。
船の中にいるより、少しでも遠くへ逃がした方がいい、と咄嗟に考えての事だ。

そうしてはじめて、サンジはゾロに向き直った。
緑色の目は血を吸った様に真っ赤に染まっている。
サンジの目には、ゾロではない何か別のモノとしか思えなかった。

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