「絶対に誰にも渡さずに、深い海の底へ沈めなければ」
(何故そんなに大袈裟な事を言うんだ)とゾロはナミに預けておいた刀を
受けとってそう思った。
邪気のない剣だと思えるのに、一体何がそんなに禍禍しいのだろう。
そう思って、なんの気なしにゾロはナミからその刀を受けとってすぐに
抜いて目の前で翳して見た。

思い返せば、その自分の行動から既にこの刀に操られていたのかもしれない。
いつもなら、用もない、まして自分のモノでもない刀を不用意に抜いて見る気には
ならない筈だ。

「この刀のどこがそんなに」とゾロはギラリと抜いた、不可解な文様の刻まれた刀身を
見つめてみる。どこをどう見ても、戦う為の刀が持つ独特の凛々しさが少しも感じられない。(だが、なんだ、この血ぐもりは・・・?)
拭いきれず、こびり付いた血の匂いだけははっきりと感じる。
(この刀でこんなに血の気配が篭る程、人が斬れるとは思えねえんだが・・・)
ゾロの意識が少しづつ、その刀に吸い寄せられる。
それはまるで、蜘蛛が獲物を狩るのに似ていた。
じっと気配を殺し、息を潜めて、己の巣に掛った獲物が自らそれと知らぬ間に糸に
がんじがらめになるのを待ち構えている。

その罠にゾロは嵌って行く。
何故、この刀はこんなに血を吸っている?
もしかしたら、とてつもなく斬れる刀なのか。

そう思った途端、ゾロの体中にゾっと寒気が走った。
握っている右手からその寒気はゾロの体を駆け抜け、その寒気がゾロの血と混ざりあった時、一瞬でゾロの体の自由は奪われた。

(しまったっ・・・っ!)ゾロはすぐにその刀を手放そうとしたが、もう右手はしっかりと
柄を握り締めている。刀の意志がゾロの体を支配していた。
だから、ゾロには判る。
(ナミ、逃げろ!)人を斬る為の刀ではない。人を血に狂ったバケモノにする為に
生まれた刀だ。相手が男であろうと、女であろうと、子供であろうと構わない。
ただ、刀傷さえつければ、例えそれがかすり傷でも、それで人間としての命を奪える。
(逃げろ、早く逃げろ、ナミ!サンジ!ロビン、俺から離れろ!)と叫びたいのに、
もう声一つままならない。
刀を振り回そうとする体をどうにか取り戻そうとゾロは必死に抗った。

「ゾロ!あんた、一体なんなの、キャアアアア!」

ナミの悲鳴と自分が苦悶故にあげる呻き声が同時に聞こえる。
刀を握った指に火箸を突き立てられたような激痛、肩や腕、体の動きを止めようとすれば、
内臓がもみしだかれるような激痛が直接ゾロの魂に伝わる。
「キャア、誰か、ロビン!いるんでしょ、助けて!」

普通の女なら一撃で斬っていただろうが、ナミは普通の女ではない。
すばしっこく逃げて、それでも足は一歩一歩、ナミを追い詰めて行く。
心臓がギリギリと痛む。心臓からひねり出された血が気管を逆流でもしたかの様に、
ゾロは喉の奥に濃い血の味がせりあがって来るのを感じた。
目も焼けつくように熱い。視界は赤く染まった。

「ゾロ!ナミさんになにやってんだ!」
(逃げろ、こっちに来るな!)ナミよりもはるかに人を多く殺すのに適した肉体の声がする。
あの肉体がいい、と勝手に腕が大きく刀を握ったまま振りかざした。
ナミを斬ろうとしたら、絶対にサンジは飛び出してくる。
ゾロの意識もゾロの体も充分にそれを知っていた。

(ダメだ、止めろ!)とゾロは心の中で叫ぶ。だが、その叫びはどこへも届かない。
ただ、打ち下ろす瞬間、刃を返して峰にするのが精一杯だ。
サンジはナミを抱いて転がり、そしてナミを甲板から海に放り投げる。

ナミが海に落ちた音がやけに遠くに聞こえた。

「・・・っう・・・う・・」体が内側から焼かれるような苦痛にゾロは思わずうめく。
刀を手放せば、この呪縛から逃れられると判っているのに、手が、指が、体のどこも
自由にならない。

あの男を斬れ。そうすれば自由にしてやる。

柄から、柄の奥にある刀身から、いや、この世ではない深い闇の奥底からそんな意識が
ゾロの意識へと流れ込んで来る。
斬ればどうなるのか、刀の怨念に支配されたゾロの脳裡にははっきりと思い描く事が
出来た。だからこそ、ゾロは抗った。

(あいつをバケモノにして堪るか)と歯を食いしばる。
「・・・っう・・っく・・・」逃げろ、ここから早く逃げろ。
ゾロは体の中で様々に変化する激痛にうめきながら、ただ、サンジにそれだけを伝えようと
真っ直ぐにサンジを見据える。
「ッゴフッ・・・」喉からゴボ、と大量の血が込み上げて遂に、ゾロは刀を握り締め、
それをサンジに向かって構えた姿勢のままで、胸の周りが真っ赤に染まるほどの血を
口から吐き出し、軽くむせかえった。

サンジの表情が強張った。愕然として、立ち尽くしている。
(逃げろ、早く・・・頼む、早く逃げろ!)
他に何も考えれないほど、怨霊はゾロの体を痛めつける。
どうやっても、意識を支配出来無い相手だから、まず、体の自由を奪い、
意志がそれを邪魔するのなら、それに対抗して自分が支配した体に痛みを与える事で、
ゾロの意識に抵抗しようと目論んで、まんまとその目論みを果たした。
そして、怨念はその成果を利用して、本当の目的を果たそうとし、敢えてサンジの目の前で
ゾロを痛めつけて見せた。

そうすれば、どうなるのかを計算し尽くしていたかのように。
まるで人ひとりの心を見透かす事など容易いと二人を嘲る様に。

いくら刀がゾロの体を支配したと言ってもそれは完全ではない。抗う意志が強い為に、
動けるスピードはいつもよりもずっと遅い。サンジを斬ろうと何度斬りかかっても、
その刃は風の様にその剣戟を避けるサンジの体を傷付ける事は出来ない。
だが、内臓を軋ませて血を吐き出したゾロの姿を見た所為か、サンジからの攻撃には躊躇いがあり、到底"殺す積もりの本気"とは思えない。
(いっそ、殺すつもりで掛って来てくれれば)腕を蹴り折られ、刀を取りこぼせば
体の自由を取り戻せるのに、とゾロは歯痒かった。
自分の気持ちをどうにかしてサンジに伝えたいと思うのに、その術を考える余裕が
全くない。
いつまでもサンジの体に傷をつけられず、ゾロの魂も奪えず、怨念は焦れた。
勝手に体の動きが止まり、勝手に唇が動く。
「避けてばかりだとこの刀を奪い取れないぞ」
「この男の魂が抗い続ければ、いずれこの体は血が尽きて死ぬ」
「それを止めたいなら、刀を奪え」
(こんな言葉に耳を貸すな、)とゾロは必死に眼差しに気持ちを篭めてサンジを
見つめ返す。
「ゾロ、お前・・・」
サガの様に、魂を奪われて操られているのではないとはっきりとサンジに伝わった。

サンジにしてみれば、一体、何がどうなってどうすればいいのか判らないに違いない。
判っているのは、今目の前で、ゾロの体から血が流れ出ている事、
このままの状態だといずれゾロが刀に血を吸い尽くされて死ぬ、と言う事だけだ。

「刀を奪えばいいんだな」とサンジは煙草を「プッ」と甲板へ吐き捨てた。

腕の、あるいは手の甲の骨を蹴り潰せば嫌でも刀を離せざるを得なくなる筈だ。
(けど、そんな事したら・・)折れた骨はつなげば治る。
けれど、砕かれた骨は元には戻らない。もしも、ゾロの右手に刀を握れない程の
打撃を与えてしまったらと思うと、サンジは自分の考えに躊躇した。

(・・・仕方ねエ)サンジは腹を括る。
そして、甲板を蹴って一気にゾロとの距離を縮めた。

縦の攻撃ではなく、刀を横に振るう攻撃を誘う。
ゾロの首許を掠めて、サンジは体を回転させて足を飛ばした。
そして、わざと隙を作った。一度かわした刃の切っ先が返す刀で自分の脇腹を狙うのを
判っていて、敢えてそこへわき腹を晒す。

その刀が脇腹の肉に食い込む、その同じ方向へと体を流しながら、サンジは自分の
脇に食い込んだ刀身を腕と脇に挟みこんで、「グッ」と腹全体に力をいれ、
刃をしっかりと自分の肉と腕で咥えこむ。

「・・・これでも食らいやがれ!」
痛みで額に玉のような汗が一瞬で吹き出たが、サンジは怯まずにそう気合を居れて、
力任せにゾロの腹を蹴り飛ばす。

甲板だか、脇板だか、どちらかは判らないが、とにかく木板が叩き割られるような音がして
ゾロの体が吹っ飛んだ。

ガラリ・・・と音がしてサンジの血を吸った刀が、甲板に崩れ落ちる。
「・・・つっ・・・」脇腹の肉に少し食い込んだだけの傷だが、焼けつくように痛み、
一旦は膝をついていたサンジは顔を顰めながら、立ち上がった。

「おい・・・大丈夫か」サンジがヨロヨロとゾロに近付いて行くと、殺気が船から
消えた事を察したのか、ロビンやナミの声が一斉に聞こえてきた。
「コックさん、剣士さん、大丈夫?!」
「サンジ君、ゾロ!」

ロビンがすぐに駆けよってくる。
ロビンが引き上げたのか、ナミもズブヌレになってはいたものの、すぐに
サンジの側に駆けよって来た。
「側で見てたんだけど・・能力が発動しなかったの」
「傷を見せて」

怪我事体はさほど心配する程のものではなかった。

「なんと言うことだ」
なんの知らせもしていないのに、タカヤの父親がゴーイングメリー号にやってきて、
ゾロとサンジの一連の騒動を聞いて、顔色を変えた。
「この刀で斬ってしまったのか・・・」と苦悶の表情を隠しもしない。

「何か問題があるのか。毒でも塗ってあるとか」
「傷はそんなに深くも無いし、大袈裟じゃねえか」とサンジは困惑を隠そうと妙な
薄笑いを浮べながら、そう言った。

ゾロはとても辛そうな顔をして一言も話さない。
体が操られていただけでゾロの意志で斬られたのではないのだから、あまり大仰に
騒いでゾロを攻める様な状況にだけはしたくなかった。
だからサンジはあまり真剣に男の話しを聞こうと言う態度が取れない。

「この刀は呪いの刀だと薄々判っているだろう、二人とも」と男は深い深い、溜息をついた。
「どんな謂れがあるの?」
「この刀でつけられた傷が治ったら、サンジは死ぬ」
「人を殺す事しか出来無エバケモノになっちまうんだ」ロビンの質問にやっとゾロが口を開く。
言葉を、紛れもない自分が知る真実を告げる言葉を搾り出すのが苦しくて、辛い。
そんな感情がその声に篭っていた。
「バケモノ・・?俺が?」

笑い飛ばそうと思った途端、チョッパーが手当てしてくれた傷口がドクリと妙な鼓動を打つ。
そこだけ、別の生き物がいる様な。
それを感じた時、サンジの背中に嫌な汗が噴出した。

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