過去の旅 2003年2月
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サイクリング近江(2/26)
 今回もサイクリングです。早朝から電車に揺られ、朝7時ごろには草津の駅に着きました。滋賀県は去年、彦根に住む友人に会いに行って以来。あの時は、彦根から近江八幡まで自転車で走りましたが、今回は、もう少し距離は短く草津から始まり守山・中主・野洲・栗東といったところを走ってきました。
草津の駅を降りたものの草津の街を見て回るのは後回しにし、先ずは趣味の神社めぐりを開始する。近江国はさすがに歴史が古く非常に由緒正しい古い神社が多い。印岐支呂神社・小津神社・己爾乃神社・下新川神社・兵主神社と中主町まで右手に三上山を見ながら浜街道を走りました。
 中主町
  中主町は野洲川河口三角州に出来た町で、役所などがある場所が西河原という地名。野洲川が昭和30年代に付け替えられたので、それ以前の旧野洲川北流の河原に出来た町であろう。中主町自体は、特に見るところは何もない只の田舎といった感じ。但し、兵主神社(養老年間創建)など歴史ある寺社が何ヶ所かあり、また、その兵主神社がある五条、さらにすぐ隣にある六条という地名からもわかるように、古代の条里制のあとが残る古くから拓けていた土地であることは間違いない。で、兵主神社以外は特にどこにもよらず、そのまま隣町の野洲へ。
 野洲町
   野洲川をはさんだ対岸が守山で、宿場町ではないものの街道(中山道)沿いに発展した町のようだ。浜街道から美しい姿を見せていた近江富士こと、三上山の麓の町。三上山の横にある御上神社に立ち寄る。由緒正しい神社で、俵藤太の百足退治伝説がのこる。確か若尾五雄が金属神としてこの神社と俵藤太伝説を取り上げていたのを思い出す。事実このあたりは古代から鉄工鍛冶工業が発達していたようで、皇朝十二銭の鋳銭地であったようである。町自体は小さい。既に結構疲れていたので、駅前にあった温泉に浸かり、少しくつろいでから、旧中山道沿いに守山に向かう。
 守山市
   中山道守山宿は野洲川右岸の吉見あたりに発達した町と制札が下されてから発達した今宿、楽市楽座のおかれた金森あたりを中心として発達してきた町のようである。宿場町らしい町並みがなかなかいい。本当はゆっくりと町を見てまわりたかったのだが、時間があまりなく、街道沿いをそのまま走り抜け草津まで行くことに。
 街道沿い以外にも、朝、浜街道沿いに通った杉江町・矢島町・洲本町・立田町・幸津川町といったあたりも古くから拓けていたようで、田畑の広がる中に現れる集落が生活感があり、また宿場町とは違った感じがする。幸津川町の下新川神社の前には船着場の石碑があり、水運による交通が発達していたことをうかがわせる。
 草津市
   草津も結局時間がなく、草津本陣あたりを少し見ただけ。草津川は天井川で、現在、旧中山道沿いを通ってくると、川の下をトンネルでくぐるように出来ている。最初、鉄道でも上を通っているとおもって、方向を間違えたのかとも思ったが、それが川であることを知って非常に不思議な感覚に襲われる。これほどまでの天井川を見るのは初めてだったが、草津川は200年ぐらいの間に急速に天井川化した全国でもめずらしい川らしい。その川をくぐるトンネルを出たすぐのところに、旧東海道との追分道標があり、さらにすぐ横に草津宿本陣。中山道に行けば守山の今宿、東海道を行けば栗東を通り、石部宿へ。東海道・中山道の分岐点ともなれば、近世は非常に栄えていただろうことが想像に難くない。
 このままいっきに大津宿まで駆け抜けたい衝動に駆られたが、そんな時間も体力もないので、もう諦めて、草津駅に戻り、あとは電車で帰路に着く。とにかく草津・栗東・守山あたりはまだまだ見残したところが多いので、もう一度こなければ、というのが駅に戻ったときの正直な感想といった感じで、仕方無くすごすごと帰って行きました。
 今回の旅は、午前中の神社めぐりに時間と体力を使いすぎて、ゆっくりと町を見ることが出来なかったのが、悔しい感じ。このあたりはやはり「街道を歩く」というテーマでゆっくりと歩いたほうがいいのだろう。是非今度はそうしようと堅く決意をするのでした。
 
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