平成17年7月6日(1年理科U地学は火山の学習で終わりました。最後の時間に昭和新山と三松正夫さんの話をしました。以前,「やまと」に執筆した話です。)

 1学期は火山の学習で終わりました。最後には,昭和新山を大変な苦労をしながらその生成を記録し,世界的にも有名なミマツ・ダイアグラムを残された三松正夫さんの話をしました。ゆっくりと時間がとれなかったこの話,期末考査が終わり,ちょっとゆとりができた1年生に読んでもらうことを期待して,このホームページで紹介しておきます。

 今年の思い出に北海道旅行があります。8月はじめの快晴の5日間に走り回った道南の旅は,私の5度日の北海道旅行でした。
 今年のこの旅では,昭和新山を訪れました。まだまだ行っていないところがたくさんある北海道であるにもかかわらず,4度目にもなるこの地を訪れた理由のひとつに,
「ぜひ,三松正夫記念館を見学したい」
という思いがありました。
 観光バスを使ったツアー旅行では,昭和新山を訪れても,この記念館を見学することはないようなのです。バスから下り,目の前にそびえる昭和新山の全景を見上げる,いやいや,たいていの場合,その前に団体の記念撮影があります。この山をバックにしてということは後ろに目がない限り,期待の山を見ることはできないのです。当然,見学はそれを済ませてから…ということになります。私がこれまでに経験した旅行ではそうでした。そこで,今回はレンタカーを使って自由気ままな旅にし,思う存分にこの記念館を見学することにしました。
 ニセコアンヌプリ山麓の宿を出て,羊蹄山を左に見ながら,トウモロコシ,ジャガイモ等が栽培されている丘陵地帯を走り,支笏湖を経て昭和新山に近い洞爺湖畔温泉を過ぎ,昭和新山に着いたのは午後3時頃でした。
 目の前には,方々から白い湯気を立てている昭和新山が雲ひとつない空にそびえていました。
「あれが昭和新山だ。昭和18年の末から2年あまりの活動で生まれた山だ」
これは,ここを初めて訪れた妻へガイドブックからの受け売りです。
 ところで,
「三松正夫記念館はどこなんだろう」
私は,土産物店の青年に尋ねてみました。
「向こうに土産物店が並んでいますね。その向こう側を奥に入ったところにあります」
行ってみると,少し奥まったところに写真のような三松正夫記念館(昭和新山資料館)がありました。入口からすぐのところに,昭和新山を観測している三松正夫さんの等身大の銅像がありました。
「ああ,この人なのだ。ひっきりなしに襲ってくる地震,烈しい鳴動,郵便局長という公務の忙しい中で,観測を続け,新しい山の誕生の詳細を明らかにされた方なのだ」
 私は,中学校3年生の授業で,昭和新山誕生の記録である「ミマツ・ダイヤグラム」を解説し,マグマに含まれる二酸化ケイ素の量の違いによって,噴火活動の様子が異なること,誕生する火山の形状が違ってくることを考えさせていたことを,つい先頃のことのように思い出しました。この学習の中では,三松さんが,視点を固定するために顎を載せる台を作り,隆起の状況を正しく記録するために糸を水平に張り,これを基準にして観測の記録をとられたことなどを,自分自身が大きな感動をもって生徒に伝えました。そして,道具があるからこれを使うというのではなく,対象となるものを観測し,記録するために,自ら工夫し作り出すことの重要性を話して聞かせたように思います。
 こうした感動に裏付けられた授業を進めていくためのエネルギーを,今,向かいあっているこの人からいただいていたのです。それにしても,あの授業の前にお目にかかっていたら,もっと生徒に感動を与える話し方ができたのではないだろうか,そんなことを思いながら,展示室の中を歩きまわりました。
 館内には,精密に描かれた新山成長定点観測スケッチ,絵描きを志望し,佐藤春玉に日本画を学び,化雪,のちに愛山と号された三松さんの手になる彩色記録絵図などが所狭しと展示されています。そのどれからも感じられるのは,三松さんの「事実を事実として」真摯にこの地域に起きた事象を精細に記録された科学的な態度と自らが生きるこの地域の自然を愛する心でした。
 入館したときにいただいたパンフレットにはこの記念館が,昭和44年6月に「昭和新山資料館」として昭和新山植物園2階に開設され,昭和63年4月に,三松正夫没後10年,生誕100年を期し,三松正夫記念館として移設開館されたと書かれています。そして,展示物については,2つに分けて次のように記載されています。
(屋外展示物)
□特別天然記念物「昭和新山」      42ヘクタール
(屋内展示物)
□明治43年,昭和18〜20年有珠山噴火記録写真 100点
口三松正夫観測・記録スケッチ         100点
□彩色記録絵図                 20点
□ミマツ・ダイヤグラム (昭和深山成長図)   2点
                (以下省略)

 そうです。この記念館に相対する位置にある高さ175m,周り1.5q,基底経330m,総量600万トンの昭和新山は,この記念館の屋外展示物なのです。
 そして,この屋外展示物の詳細を解説し,その意義を説明しているのが,この屋内展示物なのです。ですから,私たちは,この記念館内の展示物で多くを学びたいと思うのです。
  受付のところで,
「私は,ほんとうにたいへんな時代に,ご自身が工夫して作られた器具で,観測をされた三松さんに強い感動をもって授業してきた理科教師です」
と話したとき,今,この記念館を管理しておられる,三松三朗さんから,次のような話をお聞きすることができました。
 「実際すごい人だと思います。私財をなげうって,この山を買い取ったことについても,農民の宝である田地がこのような状況になり,生活に困っているのを救いたいということもあったようです。それにしても,役に立たない状態だなってしまったこの土地を買い取ったということから,ずいぶん奇人変人扱いされたようですが…」
 どのような状況で新山の誕生が始まり,どのように成長し,現在の姿になったのだろう。そして,これからどうなっていくんだろう。そんなことが知りたくて,私は三松正夫さんの数多い著作・この記念館に展示・販売されている著作の中から,「昭和新山−その誕生と観察の記録−」と題する小冊子をわけていただきました。
 先ずは,新山誕生の兆しです。このことについては,この冊子の中の「昭和新山生成日記」の書き出しとなっている昭和18年12月28日の日記に,次のような記述がありました。
 朝からどんよりとした雪空である。夕方から雪となった。戦争に明け暮らした今年も暮れ,新年を祝うため町の人は僅かな配給米で,心ばかりの餅つきをしていた。午後7時ころ突然異様の地質を感じた。初震は短い上下動である。気にも止めなかったが,10〜15分毎に次ぎ次ぎ起った。私の住まいは有珠火山から東方2.5qほど離れた200戸ほどの滝の町である。
 私は有珠火山の明治活動にも逢ったので,これは火山が活動を始めたと知り,騒ぐ町人を静め,経過を見て行動するようにすすめた。時の過ぎるにつれてやや強いのが交じり鳴音を伴ってきた。しかし強いのでも時計の振り子が止まる程度で家外に飛び出すほどでもない。午前10時ころ火山の北麓洞爺湖温泉町から当地の地震鳴動は烈しく町民は先を争って退避中との電話があった。すぐ観察のために降雪中の6qの道に馬を駆った。途中多くの避難民に逢い,町の入口にあたる西丸山に達するころから,かなり強い鳴動があって馬は進まない。同町は明治活動で湧いた新しい温泉の町である。
 鳴動ごとに家鳴りが強いので,残った町人は屋外に出て持ち出した家財の間で震えていた。間もなく警察署長は町長等と協議して,全町民に避難命令が出た。時を移さずバストラック馬車,馬橇とあらゆるものが動員され,午後12時には警備員と郵便局員を残して町はがらあきとなった。


 私の持っているのは生成日記の抜粋です。したがって,そのすべてについての記載がある訳ではありません。しかし,ここに記載された日々の各行には,定性的・定量的な観察記録があふれているのです。それだけではありません。それらに加えて三松さんのするどい感性に基づく記載があるのです。
 次に,第一次大爆発・第一火口形成の日となった昭和19年6月23日の日記からその一部を引用させていただきます。

 午前4時ころ烈しい雷雨となり,間もなくからりと晴れあがり,すがすがしい初夏の朝となった。この活動をよそに有珠山麓の森には山鳩や春蝉の声がのどかに聞こえていた。午前8時15分,現地にて畑作見まわりの農夫が,松本山山麓の唐松林と畑地の境辺に,3条の白煙が立昇るのを発見,不思議に思っていると,たちまち地鳴りとともに一団となって爆発が起こったので,驚き転ぶように集落に駆けつけかくと告げた。集落では農人の知らせを待たぬうち,この噴煙を見て大騒ぎとなった。この爆発はだんだん勢いを増し,噴煙は高く1qの上空に達し噴出のセメント様火山灰は2q周囲に降り,石塊は火口付近に落ち,2時間後には九万坪一帯はもち論,有珠火山の中腹,フカバ,柳原,西湖畔の山林田畑,300町歩ほどは,20pの降灰に覆われてしまった。すぐに,現地に駆けつけると,その位置には直径50m,深さ30 mほどの火口ができ,火口内には,泥水を湛え,静かに水蒸気を立てていた。この位置は前日観察したとき,昼食をとった所である。

 とにかく,三松さんの自然の事象を解明するための積極的な行動に驚かされます。そして,「観察中写真のフィルムに乏しく多くは写生によった」という三松さん,「素人研究家に過ぎないが,現場来査のできぬ専門学者の一助にならばと『一定の物を一定の場所から』『真実を真実として』の精神で観察と記録の日々を過ごした」という三松さんの記述に深い感銘を覚えるのです。
 数多い観光地がある北海道,あれもこれも見たい,体験したいと思う北海道です。でも,そうした中で,ぜひ,三松正夫記念館のような施設を訪れていただきたい,そして,自然の神秘に触れ,それに取り組む人々の生きざまに触れていただきたいと思います。

1 昭和新山 2 スケッチ  3 三松さんに頂戴した本
4 ミマツ・ダイアグラム 5 正確に記録するために 6 三松さんからのお手紙  

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