平成16年4月18日(日本の造船のルーツ・伊豆の戸田に奈良と大きくかかわるある人が登場します。春休みにて行ってきました。)

 少し前のことになりますが,前栽校区人権教育推進協議会の学習会の講師に,奈良県西吉野村の孝田有禅先生にお出で頂きました。このときのご講演では,先生ご自身の体験からやさしく説いていただき感銘を受けたのですが,その中で川路聖謨さんのお話が出てきました。
 それは,先生が奈良市内の小学校に勤めておられ,子どもたちを連れて猿沢池近くの五十二段のところに出かけたときのことでした。子どもたちに五十二段横の「植桜楓之碑」のことを訊かれたのですが答えられず,その後いろいろと調べ,川路さんのことについて知ったのだということでした。私は「何かそんな石碑があったなあ」という気はするという程度です。この石碑は幕末の奈良町奉行・川路聖謨さんの業績を讃える碑だというのです。そして,川路さんの業績をお聞きしました。
 一方,私は春休みに伊豆のほうに出かける計画をしていました。何度も出かけたところだし,なにか目新しいところはないかなと思っていて,見つけたのが戸田村立造船郷土資料博物館でした。ホームページで調べていたところ,ここに何度も出てくるのが川路聖謨さんなのです。
1 川路聖謨さんがどんなお仕事をされたかということ
 今から150年前,ペリーと前後してロシアからプチャーチンの率いる艦隊が日本との通商を求めて下田にやって来ました。このとき,折衝に当たったのが川路聖謨さんたちだったのです。奈良奉行を務めたあと,こんな大きな仕事をされたのです。
2 なぜ,戸田村に造船の博物館があるのかということ
 ロシアからやってきたプチャーチンの船は安政の大地震にともなう津波で破損,修理をすることになり,戸田に回航するのですが大波を受け沈没します。帰国の方法がなくなったプチャーチンは船を造ることを願い出ます。川路さんは,なかなか「うん」と言わない幕府のお偉方を説得し,プチャーチンと日本の船大工は,戸田で日本最初の洋風の船を造ります。
 こうして始まった日本とロシアの交流が今も続いているのです。川路さんの豊かな国際感回送覚が,伊豆の寒村であった戸田村を国際的な地にしたのです。
 そんな川路さんを讃える会が奈良に生まれました。お誘いを受けて私もメンバーになりました。

戸田村立造船郷土資料館です 川路さんの肖像です
最初の洋船・戸田号 戸田村立造船郷土資料館 川路聖謨さん 日露の交渉


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