メジルシの記憶     続編  瞳の住人  
                        アシタヘカエル   第2話   


それは、サンジが生きてきて、経験した事もない程の巨大な嵐だった。
サンジがオールブルーを発見して初めて経験した、未曾有の大嵐は、
サンジの店もサンジの家も、豊富な鉱物資源を含有しているオールブルーが
誰の手にも脅かされない為に警護する海軍の基地も何もかもを破壊し尽くした。

サンジがオールブルーの独特の海流と地形を熟知していたから、
避難するのも早く、海軍の指揮官さえもその指示に従い、
そんな自然の猛威の前に晒されながらも大きな怪我人さえもなく、
まして、死者を一人も出さずにすんだのは、まさに奇蹟だと言えた。

だが。
海賊の襲来、オールブルーの覇権を狙う国の陰謀、そしてこの自然の脅威の前に、
(一体、何度やり直さなきゃならないんだ)とサンジは瓦礫の山となった
自分の店である船の残骸の前で目の前が塞がれる思いで佇んでいた。

嵐の去った空は、虚しい程棲み切っていて、真夜中の海に星明りを投げて、煌いている。
何事もなければ、今夜も大勢の客をもてなし、心地良い疲れに任せて、
静かに眠れた筈だった。

今、サンジは体の中に泥を詰め込まれたように息苦しく、体がだるく火照って、
立っている事さえも辛い。
未来の自分の姿が何も想像出来ないほどサンジは疲れ切った。
(夢はもう叶えただろう?)と心の中で呟く。
オールブルーに辿り着いた。幼い頃から夢見たその海で、料理人なら誰もが憧れるほどのレストランを開いた。それで追い駆けていた夢を手に入れたと満足しても構わないのではないか。

ふと、そんな弱音が心の中で首をもたげる。今、こんなに体の隅々まで
疲れているのは、その弱音を押さえ込んで、無理に自分を奮い立たせた、
その力が尽きかけているからだ。

(誰の助けも借りねえ)とサンジは満天の星を睨みつけるように見上げて、
痛い程拳を握り込む。
そう思わないと、側にいて欲しい男の顔を思い浮かべずにはいられない。
今、側にいてくれたなら、こんなに苦しい程の疲れを感じないでいられるだろう。
寂しいなどと言う甘ったるい感情など、とうに振り切っていた。
もっと強く切望している、今、この瞬間に体温を体中で感じられる程近くに
いて欲しいと言う叶えられない思いを胸に抱えている事が苦しい。
苦しいと思う時だけ、こんなに側にいて欲しいと思うのは身勝手過ぎる。

星明りが自分を照らす様にささやかな光りでも構わない、
ここにいるだけでいい、どこかへ零して消えて行くばかりの気力を受けとめて、
それを受けとめた掌を自分に差し出してくれたなら、どんな事でも越えて行けるのに。

星を見る度にサンジはゾロを想った。
想う事で、少しでも、どれだけ僅かでも、挫けて投げ出してしまいそうな自分の
夢を取り戻す、その為に必要な気力を蘇らせようと、星を見上げてゾロを想う。

まだ、再建の見通しなど何も立たないある日の事だった。
毎日、ただ、瓦礫を片付ける事しか出来ず、それでもサンジはコック達の前では
普段と何一つ変わらない態度を取りつづけていた。

「オーナー・サンジ。海軍の電伝虫にロロノア・ゾロ氏から連絡が・・」

そう言って、顔見知りの海軍兵が電伝虫を携えてサンジの元を訪れた。
(あいつから?)サンジは心臓の音が自分で聞こえるくらいに高鳴るのを感じて、
誰の目からみても、はっきりとわかるほど顔を強張らせる。

「この嵐の事はあちこちの新聞で報道されてます」
「だから、きっと心配して・・・」と早く、電伝虫に手を伸ばすように、と
サンジの前にそう言いながら差し出した。

「話す事はなにもねえ、って言ってくれ」
サンジはそう言って、クルリと背を向け、コック達との作業に戻る。
「あ、あの・・でも、」と海軍兵は困惑して取り縋って来たが、サンジは
もう一度振り向き、「話したくねえって言え」とぶっきらぼうにそう言った。
今、声を聞けばきっと弱音を吐いてしまう。
もう、疲れた。お前とどこかへ行ってしまいたい。
そんな言葉が喉をついて出てしまうかも知れない。あんなに側にいて欲しいと
思ったのに、いざ、声を聞けば
どうにか必死で立って、足を引き摺りながらも歩き出した気力を全て失ってしまいそうでサンジは怖かった。
一度連絡を拒絶されたからと、諦める相手ではないのは知っていたけれど、ゾロは何度も何度も海軍の電伝虫を使ってサンジの安否を知ろうとして来た。
その度にサンジは、その受話器を取ってしまいたい衝動を押えて、
拒絶し続けた。

ゾロに弱音を吐きたくない。夢を諦めた逃げ場にしたくない。
今でも、最強を目指す剣士達の為に夢であり続けるゾロと並んで見劣りしない男で
在り続けたい、だから、ゾロに縋らない。
そんな意地を張って、強がって、サンジはそうする事で、立ち止まりたがり、
ゾロを求めて何もかもを投げ出したがる気持ちを堪えた。

やがて、諦めたのか、それとも、サンジの真意を悟ったのか、
ゾロからは何も連絡がなくなった。
そうなって初めて、自分から拒絶していた癖にゾロからの連絡を無意識に
心待ちにしていた事を自覚する。

やがて、三ヶ月程が過ぎた。
瓦礫は全て取り除かれたけれど、美しい砂浜だった海岸にはどこからか漂流してきた
流木や海底から激しい海流に飲み込まれて浮かび上がった難破船の残骸などで
散々な有様になっている。

ここ数日、サンジはその瓦礫を撤去する作業に明け暮れていた。
もちろん、サンジの下を離れるコックは一人としていない。
誰もがオールブルーでレストランを再会する事を信じ切って一片の疑いも
持っていない。それが却って、サンジには重荷となっている。
この奇蹟の海を預けられるほどの強さと腕を持つ者が今だ育っていないのに、
サンジがこの海を去る事など誰も思いもしないし、世界政府も絶対にそれを
許さないに違いない。

(教会を立てるどころじゃなくなったな)とサンジはオールブルーで迎えた何度目かの冬にゾロが訪れて来た時、交わした会話をふと、思い出す。
「雨が降ってきそうだ。皆、今日はもういいぞ」白いモヤがゆっくりと海岸を
覆い始める。海はさほど荒れない様で、サンジは一人でその砂浜に残った。

(今頃、どこでなにしてやがるんだろう)と少しづつ、真っ白に塗り潰されて行く
視界に目線を漂わせた。
(世界で一番美しい海はここだ、ここより美しい海なんてない、)と
ゾロに言い切ったのに、今、こんなに荒れ果てたオールブルーを目の前にして、そしてそれが白いモヤに覆われて見えなくなる風景の中に溶けて行きながら、
かつて口にした自分の言葉を思い返して、大声を上げて泣きたくなった。

さっきから降り始めている霧雨がサンジの体を包んで湿らせて行く。
霧は露となって向日葵色の髪を濡らし、額を伝って、目尻から流れる温かな
雫と混ざって頬を伝った。
この海で生きて行く事を投げ出したら、諦めたら後悔する。
そんな事くらい、百も承知している。ただ、今は少しの間だけ、現実から
目を閉じ、耳を塞いで、この海に憧れていた頃、常に傍らにはゾロがいた
ただ、ひたむきでがむしゃらに生きていた過去の思い出の中に心をさ迷わせていたい。

冷たく湿った潮風と霧雨の立てる微かな音とただ、それだけは以前と少しも
変わりない絶え間なく聞こえる波の音にサンジは目を開く。

そして、息を飲んだ。
うっすらとした陰としか見えない瓦礫の山の向こうに、さっきまではなかった人影が
いる。
足が勝手に一歩を踏み出した。気持ちも心もなんの言葉が浮かんでこない。
月に引かれて、波が満ちるようにサンジは歩いた。
ゆっくりと近付く、その翳に向かって。

視界を遮っている白いモヤが微風に撫でられて、吹き去って行くごとに、
サンジの前にその翳の色と輪郭を少しづつ、少しづつ、浮き上がらせた。
(なんでここにいる?どうやってここへ来た?)いつもなら、すぐにそう思えるのに、
サンジの心の中は言葉さえ忘れるほど、激しく揺さ振られている。
瞼を閉じ、悲惨な現実からほんの一瞬でも逸らそうとしていた瞳は、
自分をじっと見つめる緑色の光りに吸い寄せられ、その光源に固定される。

同情でもなく、労わりでもない、この海の変貌を眼前にして、サンジが感じている
全ての感情を胸に抱えた、痛々しい面持ちだった。



一歩、一歩、歩く速さがもどかしかった。
何かが背中をおし、何かがサンジの手を引っ張る。
何時の間にか、瓦礫を踏みちらし、サンジはゾロに向かって駆け出していた。

胸に飛び込んでようやく、サンジは自分の愚かさに気付く。
ここは縋り付く場所でも逃げ出す場所でもない。
どんな形であれ、(俺に力を与えてくれる場所だった)と何故、それを忘れて、
意地を張っていたのか。少し汗と埃の匂いの篭るその温もりに顔を埋め、
しっかりと離さない様に、あわせた胸からゾロの温度を感じられる様に、
背中に腕を回した。

「なんで帰ってきたんだよ」
それでも、まだ、勝手に口は甘える様にゾロに憎まれ口を叩いてしまう。
「確かめたかった」とゾロは呟く。

「お前に俺が必要なのか、どうか」
「確かめずにはいられなかった」
「今でも、俺はお前の力になれるのか」
「確かめる為に帰ってきた」

答える替わりにサンジは力一杯ゾロを抱き締めた。


声を聞けば縋ってしまうなどと、何故思ったのか、今となっては判らない。

体の隅々まで沁みついていた疲れが削ぎ落とされる様に消えて行く。
絶望とまでは行かないまでも、諦めと言う色が滲んだ夢の地図がまた、
サンジの心の中にはっきりと浮かび上がってくる。

夢を掴み、生きて行くのに必要な力の全てをゾロはサンジに与えてくれる。
他の誰かでは絶対に替わりになど出来無い。

「お前だけが心細かった訳じゃねえんだぞ」とゾロの声が心に直接響いてくる。
「何も出来ねえ事がもどかしくて、息が詰まりそうだった」

そう言った途端、ゾロの腕にも力が篭る。

多分、サンジがゾロの言葉に頷かなくても、
もうゾロは答えを知っているだろう。
真っ白なモヤを突っ切るようにして、胸の中に飛び込んできたサンジを抱き締めた
瞬間に、きっとゾロは何もかもを悟っただろう。
けれど、今はそんな事は些細な事だった。
サンジの胸に温かで優しい痛みが走る。切ないほど、幸せな時にだけ走る心地良い痛みに思わず、サンジは目を閉じ、全身全霊でゾロの言葉を受けとめる。
「意地を張るのも、強がるのもお前の勝手だ」
「けど、こうやってここに帰って来て、お前の側にいるのは俺の勝手だ」
「文句は言わせねえ」

(こいつ、)サンジはゾロの言葉を聞いて、その胸に顔を埋めたまま微笑む。
ホントに俺の気持ちを判ってるのか、判ってないのか。

(ま、いいか、そんな事)判っていようが、いまいが、ゾロはここにいる。
こうして、自分に力を与える為にここにいる。それだけでサンジは
また霧雨に溶ける温かな雫が目尻からこぼれそうになる程、幸せだった。
ゾロの前でその雫が零れない様に、ゾロの肩越しに暮れて行く空を見上げる。

気持ちが落ち着く頃、曇り空が晴れていて欲しい。
疲れ切った気持ちで見上げたあの星空に輝いていた星、それをゾロと並んで
探して見つけたい。
そうすれば、その星を目印にして、ゾロが側にいるのと同じ気持ちを呼び覚まし、
どんなに辛い事があっても超えていける様な気がするから。

(終わり)

続編  瞳の住人