瞳の住人

(相変らずだな)頭がいいのか、悪いのか。

オールブルーをかつてない程の強い勢力の嵐が襲い、
壊滅的な被害を被ったと聞いて、居ても立ってもいられなかった。

死者は誰もいない、と聞いてもサンジの声を直に聞くまでは不安だった。
無事でいると判っていても、声を聞けばサンジが今、どんな気持ちでいるかを
知る事が出来る。辛い想いをしているのなら、励ます言葉を口にするのではなく、
その辛さを半分、自分も背負って少しでもその重さを軽く出来るかも知れない。

そう思って、何度も連絡をつけようとしたのに、その度にサンジは
ゾロを拒否した。

お前の力は必要ない。俺の領域に踏み込んでくるな。
そうサンジに言われた様な気がして、拒絶される度に傷付いた。
世界中、どこを探してもゾロの心をそんな風に乱すのは、今、サンジ一人だけだ。
(いつもの強がりだ)
(きっと意地を張ってるだけだ)そう何度自分に言い聞かせても、
どんな憶測を立てても気休めにもならない。
ゾロは、遂に(俺は、自分が見たものだけを信じる)と決心した。
そうして、帰って来て、今夜、ここにいる。

海軍がサンジ達の為に提供した軍艦の中。海兵達が休む為のその船室の、
二段に設えられた寝台の下に体を横たえて、ゾロはぼんやりしながら、
その寝台の木目を見上げていた。

(相変らずだな)頭がいいのか、悪いのか。
自分とサンジの関係をこのオールブルーで今更隠す必要などないのに、
この船の船長が休む部屋を使っているサンジはそこへゾロを入れようとせず、
サンジが自分の後継者として育てているウソップの息子ジュニアが寝泊りしている
部屋に押し込めた。

別に、肌が恋しくて帰ってきた訳ではない。だから、別々の部屋で眠ろうが一向に
構わない。意地を脱ぎ捨て、自分の腕に飛び込んできたことだけで、
ここに帰ってきた意味はもう充分、ゾロは見出し、満足していたからだ。

けれど、今、この船にいる者達の前で、こんな風に取り繕うのがどう考えても、
不自然に見えるだろう。(相変らず、頭悪イヤツだ)と今頃、
きっと、一人きりのシーツの中で、無駄な虚勢を張って、悶々と眠れずにいる
サンジを思い浮かべて、(自業自得だ)とゾロは溜息をつく。

「眠れない?」
通気口から漏れる銀色の薄い月光だけが光源の狭い部屋の中、上の段で
寝ていたジュニアがゾ頭を逆さまにし、ゾロを覗きこんでそう尋ねてきた。
「起こしたか?」とゾロはジュニアを見上げて答える。
ジュニアは会う度に大きくなる。会う度に、逞しく、優しく、育っている。
サンジがどれほどの期待を掛けて、大事に想い、育てているか、そして
そのサンジの想いをジュニアがどれほどしっかりと受けとめて、応えようとしているか、
二人を一緒に並んでみていると、つくづく良く判る。
サンジがジュニアを大事に想う気持ちと同じ思いでゾロもジュニアが愛しい。
それが穏やかな口調で何気なく交わす会話に滲んでいた。

「溜息が聞こえたから」とジュニアはニッコリと白い歯を見せた。
今年で、14、5歳になる筈で、だんだん体つきがウソップそっくりになってきている。
「いいもの、貸してあげようか」
「いいもの?なんだ」

ゾロにじゃれる様にジュニアは笑い、そしてジュニアの言葉にゾロはむっくりと
起き上がる。
ジュニアは、小さな鍵をゾロの鼻先にぶら下げた。
「船長室の鍵。俺しか持ってないんだ」
「なんでお前が?」得意げにそう言うジュニアにゾロは半分、答えが判っていながら
尋ねてみる。ジュニアは笑って、
「朝、サンジを起こしに行くのも俺の仕事だから」と答えた。
そして、ゾロの手にポトリとその小さな鈍色の鍵を乗せる。
「おやすみ」ゾロに鍵を渡すとジュニアはすぐに寝床に引っ込んだ。
「悪イな。気イ使わせて」とゾロはサンジに替わってそう詫びる。
「ううん」と答えるジュニアの声は少し掠れた少年独特の声に変わっている。顔を見ず、
声だけを聞いていて、ゾロは初めて、それに気づいた。
「俺がもっと早く大人になれたら、二人ともずっと一緒にいられるのに」
「俺が未熟な所為で、二人に辛い思いを一杯させてるから」
「その・・・」とジュニアは一瞬に澱み、「お詫びだよ」と言った。

「お前の所為じゃねえよ、そんな風に思うな」
「俺達は俺達のやりてえ事をやってるだけだ」
「でも、まあ、今夜はこの鍵、借りて行くからな」
ゾロはそれだけ言うと、そっと音を立てずにその部屋を出た。

きっとそう遠からず、ジュニアはサンジの思うとおりの男に成長する。
僅かに交わした会話だけで、はっきりとゾロはそう思った。
胸の中がとても暖かいもので満たされる。確実に、サンジと自分が望んでいる未来の
映像はきっと現実になると思えた。
もっと沢山、ジュニアとは話したい事があるけれど、今は
サンジの側にいたい、と言う気持ちが勝ってしまう。

さほど大きくない軍船の中、迷う事もなく、ゾロはサンジがいる筈の
船長室に辿り着いた。
ドアを目の前にして、今更ながら、躊躇う。

きっと、オールブルーがこんな有様になってから禄に眠っていないだろう。
もしも、蓄積された疲れの所為で、深くサンジが眠っていたとしたら、
自分がサンジの部屋に忍び込めば、その穏やかな休息を邪魔する事にならないか。
この部屋の前に来るまでは、意地を張った事を後悔してサンジは眠れずにいる筈、と
嵩を括っていたが、ゾロはこの船の中は、とても穏やかで静かな空気で満ちている事を
感じとって、(俺の思い上がりかも知れねえ)と心細くなった。

心が揺れる、という事は一人で旅している最中には一度もない。
サンジに対してだけ、こんなに心が揺れ、常に最善の方法を考え、戸惑い、躊躇い、
何事を前にしても止まらない足が時折竦む。

だが、ゾロはすぐに思い直した。肌が恋しい訳ではない、穏やかに眠っているのなら、
それはそれで安心する。辛そうな寝顔をしていたら、黙って側にいればいい。
ただ、自分が側にいる事を伝える為に、瓦礫を拾っている間に傷だらけになった
手を握りしめて。

そう思ってゾロはドアノブに手を掛ける。
「!?」ドアノブを握った途端、それは勝手に回った。
あ然として、思わず、ドアの前でゾロは棒立ちになる。
考え込み過ぎてドアの向こうの気配にまで全く、気を配る事が出来ていなかった。
目の前に、濃い紫色のシャツを少し肌蹴けて着ているサンジが突っ立っている。
ゾロの心臓が一際大きな鼓動を打つのと、目の前にいるサンジが自分と全く
同じ、「思い掛けない事を目の当たりにいて呆然と」している顔が
目に飛び込んでくるのと殆ど同時だった。

目と目が合った。
何やってるんだ、何しに来た、などと言うまた意地っ張りな言葉を聞いて、
それにいちいち答えるのは、もどかしい。
いきなりゾロはサンジを抱きすくめ、一言もなんの言葉も交わさず、
唇を強くサンジが何も話せない様に押しつけて、そのまま強引に部屋の中に
足を踏み入れた。

性欲を満たす為にここに来たのではない。
辛さも、苦しさも分かち合う為に、離れて過ごした時間を取り戻す。
言葉でも、温もりでもいい。あるいは、そのどちらでもなく、側にいて同じ空気の中にいるだけでも
良かった。
強引な風を装うのは、サンジの余計な意地や強がりを封じる為だけだ。

抱き締めて、口付けて、もつれ合って、サンジが横になっていた温もりがまだ
残っている寝床へと倒れ込む。
自分の鼓動以上に、抱き締めたサンジの体からゾロの手の平へとサンジの鼓動の乱れが
伝わってくる。それは恐怖や、驚きから乱れたのではなく、自分と同じ様に、
思い掛けない喜びと、これから指先や肉体を触れ合って分け合う快楽への期待感からだとゾロには
判った。

ただ、押しつけていた唇を柔らかく食んで、舌先で形をなぞった。
すると、そうする事を本能で知っているかのように、サンジの唇が薄く開く。
押し切ったのはゾロだが、その瞬間からサンジがゾロを誘う形に変わる。

舌を絡み合わせ、お互いの気持ちと体を昂ぶらせる為に競う様に愛撫する。
抱すくめていたゾロの腕は、いつしか、サンジの気持ちを掌からも拾おうとする様に、
荒れた指が痛々しいサンジの手を包んでいた。

労わりではなく、痛みも苦しみも、挫けそうだった心を励まし続け、
少しづつ、積もりもう少しで万年雪の様にサンジの心にこびり付きそうだった
疲れも、ゾロは共有する。サンジにとって、それが出来るのは、
(俺だけだと言ってくれ)と、強請る様に、その想いを口付けとしっかりと握った手に篭めた。
やがて、甘く熱い愛撫に全身の血の温度が温められ、二人の呼吸も弾み始めた時、
サンジの手を逃がさない様に強く握り込んでいたゾロの手の力が緩まる。
もっとサンジに触れたい、と本能が誘ったゾロの手は、今度はゆっくりと開いた
サンジの掌に包まれ、二人の指が絡んだ。



燃えるような口付けの熱が他の場所への愛撫をねだる為に一旦、鎮まっていたのに、
再び、その熱はまた、唇へと戻ってくる。
ゾロが欲しかった答えは何一つ、言葉では返って来ない。それよりも確かに、
それよりも深く、熱く、忘れ難く、胸が締め付けられて痛いくらいに甘く、
サンジは答えた。

合わせていた唇から、愛しい指の1本、1本にゾロは口付ける。
吹き荒ぶ雪の音をいつも聞きながら見つめていた裸身のサンジは、
穏やかな波と心地良く乾燥した冷たい空気の中でも美しかった。
もう、意地も強がりも、何故、ここへ来て、自分達は抱き合うのかと尋ねる愚問も必要ない、とサンジが感じているのを口とは裏腹に正直な肉体の変化で確かめて、
サンジの一番正直な部分を柔らかく、指先で愛撫する。
「・・・っ・」声にならない喘ぎを耳に拾って、自分の愛撫に反る白い喉笛を見つめて、
粗末なシーツの上に散らばった髪を目の端で捉えて、ゾロは思った。
いつも真冬に帰って来て、最初に抱き合う時に思うの事と同じ、
(なんで、俺はこいつから離れた場所にいられるんだ)

肉体を繋げて抱き合うと、サンジに包まれている場所から自分がサンジに溶けて、
サンジの何かが自分の中に溶け出して、体を離した後も、不思議とどこかで
いつも繋がっている様な錯覚を覚える。だから、離れても生きていけるのかも知れない。

甘く湿ったままのお互いの体を寄せ合って、まだ、二人は言葉を交わさなかった。
後で思い出したら陳腐で、軽すぎて、照れ臭い言葉しか思い浮かばないから、
口を開けない。
そんな言葉を口にするくらいになら、何時もの様な無遠慮で無神経な無粋な言葉をぶつけ合って誤魔化す事しか出来無いだろう。それなら、黙って静かに目を閉じて、
触れ合える場所全てで、触れ合っている方がいい。

握り合っていた掌から、サンジの力が少しづつ抜けて行く。
抱き締めている体から聞こえていた激しい鼓動が、少しづつ、緩やかになって行く。
預ける様に凭れている体の重さが少しづつ、増えて行く。

何もかもを預けきり、昨夜、ドアを開いてから今、この瞬間まで一言も交わさないまま、
サンジはゾロの腕の中で眠りに落ちて行く。
その様をゾロはじっと見つめていた。

このオールブルーで生きているサンジには、一体、どんな瞬間に一番喜びを感じ、
どんな瞬間に一番、悲しみを感じ、どんな瞬間に怒りを感じ、
その都度、どんな表情を見せるのだろう。
その時、今は伏せられている瞼の下にある、この海と同じ色の瞳はどんな光が
宿るのだろう。
春の海の輝きを見つめる時も、夏の海の照り返しに目を細める時も、
その瞳の中には、自分はいない。
ゾロがサンジの瞳の中に住んでいるのは、どこまでも白く冷たい風景の中でだけだ。
それに気付いた時、無意識にサンジの髪をそっと撫でていた。
(もう、こいつの側を離れたくねえ・・・)と言う思いがゾロの胸の中に篭る。
けれど、それも一時だけのことだ。
ゾロは自分が、穏やかで、優しいこの風景の中で生きられない人間だと言う事も知っている。
例え、サンジが側にいて欲しいとどんなに願っても、己に常に不屈で不朽の強さを求める想いが
消えない限り、いつでもサンジを振り切って、背を向けてしまうに違いない。

身勝手で我侭なのは、お互い様だ、とサンジは良く言っていた。
(こいつの言うとおりだ)と、こんな時、つくづく思う。
遠く離れてさ迷う旅路を行く合間、美しい風景を見るごとに、(ここにあいつがいたら、)と
思わずにはいられなかった。

(あいつなら)どんな言葉を使って、この風景を語るだろう。
その瞬間、自分を照らす太陽はどんな風にサンジを照らすのだろう。
いつもそう思わずにはいられなかった。

時には、空に吹き上がる風に舞い散る花を。
時には、空の色を吸い込んだような湖面を。
時には、燦燦と輝く太陽に照らされた見渡す限りの大輪の花を。

それを目にした時、ゾロは思う。

サンジは、どんな顔で笑うのか、その笑顔が傍らにあったなら、
側にいてずっと見つめていたい。そしてそう思う事と引き換えに常に
側にいるのは、拭えない寂しさだけだった。

それでも、ゾロは生き方を変えるつもりはない。
けれど、サンジが生き方を変えるのを待つ事は出来る。

その時が来たら、時が止まった様な白い風景だけではなく、
鮮やかな色彩の中にサンジを連れ出し、太陽の光を体中に受けて
いつも、サンジの瞳の中には自分だけが住んでいる様な、そんな旅をゾロは夢見ている。

もうすぐ、夜が明ける。
新しい1日が始れば、またサンジは世界一美しい海を取り戻す為に
がむしゃらに前だけを向いて、突っ走って行くのだろう。
いつもなら、前だけを見据える瞳にはゾロの姿はない。

だが、今、自分の価値に迷ってサンジの許へと帰ってきたゾロがいて、その姿は
はっきりとサンジの目に映っている。手を伸ばせばその手はいつでもサンジに届く。

その場所でゾロは、覚えいられる限りのサンジの笑顔を目に焼き付けておきたい。
窓から差し込んで来た朝陽が作った小さな陽だまりがサンジを優しく照らすのを
見つめながら、そう思った。

(終わり)   続く