肌に触れるシーツの温もりが心地良く、その温もりに包まれて、
昨日までどうしようもなく澱んで流れの悪かった血液が
体中をさらさらと軽やかに流れて、心にも体にも積もった疲れをどこかへ
浚っていき、却ってサンジの眠りは深くなった。
船室に差し込む朝の光りも、目を醒ます為に鳴った時計も、サンジの瞼を
無理にこじあけようとはしない。光りはそっと遠慮がちに薄いカーテンの隙間から
少し冷たい風ととともにサンジの頬を撫でただけで、時計は一度だけベルを鳴らして、
大きな手でその音を止められた。

「おはよう」とドアの外で、潜めた声と小さなノックがする。
ゾロはそっと気配を殺して、ドアを開けた。
外には、もうきちんと着替えた格好でジュニアが立っている。
きっと、いつもはもっと大きな声で乱暴にドアをノックして、サンジを起こすのだろうが、朝までゾロが帰って来なかった事でまだサンジが眠っていると察したのか、
とても眠っている人間を起こすつもりとは思えない程、小さく、優しいノックだった。

「起こしてもいい?」とジュニアはゾロに尋ねる。
多分、このままサンジを寝かしておけば、サンジは、
「ジュニアが起こさなかったから、寝坊をした」と後でジュニアをこっぴどく叱る。
ジュニアがサンジを労わる気持ちで起こさなかったと言うのは、きっとサンジには
通用しない。どんな理由であれ、「オーナーを起こす」と言う仕事の責任を果たさなかった、としか言わないに違いない。そんなジュニアの気持ちを判っていても、そう言って
ジュニアを叱らなければ、ジュニアの優しさに甘えてしまう。
育て上げた子供の優しさに甘えるほど、まだ老いていないし、そんな事を
甘んじて受け入れる性質なら、最初からこんな苦労はしない。
サンジがジュニアを叱る理由もゾロには判るし、ジュニアも承知しているけれど、
やはり、捻くれた言葉を投げつけられるのは、あまり気持ちのいいものではない。
いくらジュニアが思いやりのある少年でも、余り酷い暴言を吐かれると気が滅入る事も
あるだろう。
「寝かせとけ」ゾロは軽くそう答えてやる。そうする事で、ジュニアの責任はゾロに
転嫁された。ジュニアは起こしに来たが、ゾロがそれを止めた。
そんな形にしておけば、サンジはジュニアを叱る理由がなくなる。
「判った」「今日から三日、休みだ。皆、骨休みしろってあいつが言ってたって言え」
頷くジュニアにゾロは間髪いれずにそう行った。
ジュニアは一瞬、唖然としたが、すぐにニコリと笑って、もう一度、「判った」と
頷き、「後で二人分の朝ご飯持って来るから」と言って、狭い軍船の廊下を
足音も立てずに駆け出した。
ゾロはその身のこなしを目で追いかける。自然と頬に笑みが滲んだ。
(ホントにもうすぐだな)サンジがバラティエを出て、自分達の仲間になったのは
確か、18歳の時だ。さすがにジュニアがその歳を迎えたら、サンジももっと
ジュニアの成長ぶりを冷静に見つめる気になる。今だって、もう少し頼りにして、
もう少し、大人になった部分を見付け出してやってもいいのに、と思いながら、
ゾロはまたサンジの部屋に戻った。

そして。
「なんで起こさなかったんだ!」とやはり起きた途端、サンジは怒り出した。
「しかも、休みだなんて勝手に決めるな!」とゾロに怒鳴ったが、
ゾロは平然とジュニアが運んで来た朝食をほおぼりながら、聞き流す。
「聞いてるのか、おい!」と目の前でサンジに詰め寄られても、
「うるせえな、メシが不味くなるから喚くな」
「喚くなら、メシが終わってからにしろ」と軽くバカにしたような口調で言って、
サンジの分の食事を指し示した。
「腹立ち紛れに食うと不味くなるぜ、よく噛んで味わえよ」
「余計なお世話だ!」普段、サンジが言う言葉を真似てゾロがからかうとサンジは
面映そうな顔で怒りながらも食事をはじめた。

腹が膨れて、サンジが落ち着いて2杯目のコーヒーを啜っているのを見てから、
「疲れてるのはお前だけじゃねえだろ」
「お前の下にいるやつらにだって休息は必要だ」
「お前が休まなきゃ、他のヤツらは休めネエだろ」
「全員、共倒れになりたきゃぶっ倒れるまで働けばいいだろうが」
「早く、ここを元に戻してえならちょっとは周りのヤツらの事も考えろ」
とあまり真剣とは思えない、興味のない他人事を話題にしているくらいの
軽い口調で、そう言い、サンジが面白く無さそうな顔で、
何かを言い返そうと口を開きかけたのを、見てすぐに
「・・・と、もし、バラティエのオーナーが生きてたらそう言うかもな」
とその言葉を遮った。
「ふん」サンジは正論を突かれて言い返す事も出来ず、悔しそうにそう鼻を
鳴らす。

どこへ行って、何をする、といちいち言う必要はない。
休みの日、と言うのは好きな事をする日だ。
三ヶ月以上、料理を作る事から遠ざかってきたコック達の中には、
自分達が使っている軍船の厨房を使って、海軍の兵士相手に料理を作って
届けようとする者がいたり、自分で弁当を作って釣りに出掛けたり、
書き溜めたレシピを清書したり、と殆どの者が料理についてなにがしかの
時間を潰している。その中で、ジュニアは二人分の弁当を作って
部屋に持ってきた。「良い天気だから出掛けてきたら?」と言われて、
ゾロは「お前は?」と聞き返した。
「僕は友達とか父さんに手紙を書くから」とあっさりと断わられる。
ここに来たばかりで、昨夜から今朝の事にかけて、ジュニアに色々話したい事が
あったのに、肩透かしを食ったようでゾロは何か物足りなくなる。
「いつまでもガキじゃねえんだから、一緒について来る訳ねえだろ」とサンジは
そんなゾロをバカにしたようにそう言った。

「来たばかりでどんな有様なのか、わからねえだろ」
そう言って、サンジは船を降りて歩き出した。ゾロはその後を歩く。
島の形は変わっていないのに、サンジが考えて作り出した桟橋も、店にしていた船も
見当たらない。その桟橋から続いていた道の先にあったサンジの家へと歩いている
様だが、風景が変わっている所為か、ゾロには自分がこの島のどのあたりにいるのか
良く判らなかった。

激しい風雨にへし折られた樹木が無数に目に飛び込んでくる。
緑が青々として美しかった島の森も、立ち枯れた樹木のように樹の肌が剥き出しに
なっているような、痛々しい傷跡があちこちに残っていた。
傷付いた樹木の痛みを大地が受け、それを踏みしめるゾロへと痛みが伝わるのか、
その風景を見つめているだけで胸が痛む。
太陽の光りは温かく、風は爽やかでも目に映る風景はゾロが想像していたよりも
ずっと酷い状態だった。
ゾロでさえ、こんなに胸が苦しくなるのだから、サンジはきっとそれ以上に
痛みを感じている筈だ。それを思えば、「酷い有様だな」などと、思ったままの
感想はもちろん、「すぐに元に戻せるさ」などと言う無責任な気休めも、とても
口には出来ない。
「判るか?あそこだ」
サンジは自分達の進行方向をまっすぐに指し示す。
ゾロは真っ直ぐにその指先を視線でなぞった。
オールブルーをサンジが見つけて、それ以来、サンジの家でもあり、
ゾロの故郷となっていた家を包んでいた風景は、ほつれて、引き千切られた
絵の中にある様な気がした。心が一瞬で凍てつく。

数々の思い出のある家だった。
時には、家政婦が育てた花が庭に咲き乱れていて、家族のように優しい笑い声が
耐えなかった日もあった。
時には、どこを見ても真っ白な雪の中に埋もれて、
誰もいない部屋で目が覚めるまで抱き合って、会えない時間の寂しさを
温め合った日もあった。
夢を叶えて、それでも立ち止まらずに生きて来た二人の、
一番幸せな思い出と一番辛い思い出の、全てがそこにあった。

「まさか、こんな・・・」ゾロは思わず、その家の。
家だった、残骸の前で立ち尽くす。

オレンジ色の瓦を乗せて、なだらかな傾斜を描いていた屋根は大きく陥没し、
わずかにへばりつくようにして屋根に残っているどの瓦にも大きなヒビが入っている。
殆どが崩れ落ち、地面に散らばって木っ端微塵になっていた。
信じられないほど広範囲にその瓦や屋根の瓦礫は散らばっていて、庭だった空き地を
埋め尽くしている。窓のガラスも小さな砂ぼこりが降り積もったまま、全て割れている。

一階のワインを保管していた倉庫のドアは傾き、
泥だらけの割れたビンが塩水にふやけて褪せたラベルをつけたまま
地面に転がっていた。

明るい太陽が却ってその惨い光景を余す事無くゾロに晒す。
「波がここまで来たんだ。信じられねえだろ」とサンジはそう言った。
淡々とした口調には、なんの感情も篭っていないように聞こえるが、
ゾロには今目に映っている現実の風景はそのまま、サンジの心の中のように思えた。

「二階は泥だらけで家具も全部潮水に浸かって台無しだ」
「使えるモノなんかなんにも残ってねえ」

そんなサンジの言葉を聞きながら、
どう言えば、サンジを慰める事が出来るのかをゾロは考える。
けれど、サンジの家だった、今は廃墟にしか見えない建物を見れば見るほど、
ゾロの心はどんどん重たくなるだけだ。
どれだけ酷い嵐だったのかは、もう充分判り過ぎる程わかった。
その嵐の中でサンジは一番守りたい者を選んで、この場所を捨てた。
その事をサンジは後悔していないし、ゾロも想い出のたくさん詰まったこの家の
見るに耐えない姿になってしまった事で胸が痛むのではない。

どうすれば、この場にいるだけで泣きたくなるような空気を吹き飛ばす事が
出来るのか、
どうすれば、今、自分が感じているいい様のない喪失感を拭う事が出来るのか、
それが判らない事が苦しい。

「お前が来てくれたから、決心がついた」
「どうしても、ここだけは取り壊してしまう決心がつかなかったんだ」

一言も何も言わずに、泥だらけの家を呆然と見つめていたゾロにサンジは
穏やかな声でそう言った。
何故、という質問は必要ない。サンジにも、ゾロと同じに二人で重ねてきた思い出を
惜しむ気持ちがあったからだ。
「再建するか、もうこのオールブルーでレストランを営む事を諦めるか、
そんなふらついた気持ちのままでこの場所を壊せば、自分の気持ちがどう変わるか、
俺自身、判らなくて壊せなかった」
「自分の作った船を自分で沈めてしまう様な気がして」

そう言って、サンジはゾロの真横に立った。
二人で親しい友を見送るような気持ちを眼差しに篭めて、もう一度、
今にも崩れそうな家を見上げる。

「やっと、新しい船を作る気になれた」
「形が無くなっても、想い出が無くなる訳じゃない」
「その土台の上に新しく積み重ねるだけだ」
「そうだよな?」ゾロに語り掛け、そしてサンジは自分にもそう語り掛けている。
ゾロはそんな気がして、じっとサンジの横顔を見つめ、静かに頷いた。
「この家は俺にとっちゃ自分の人生の海を行く為の船だ」とサンジが呟く。
「俺にとっては世界でたった一つ、地図が無くても帰ってこれる特別な
場所だ」サンジの呟きに答えてゾロもそう呟いた。
今度は二人で二人の船、二人の故郷を築こう。
言葉ではなく、自然に寄り添って触れあった温もりでそんな気持ちを伝え合う。

戻る    (続く)