男をどうにか、今彼が棲家としている家へと運んだ。
チョッパーが男の匂いを嗅ぎ、それを辿る。
うらびれた竹林の中の細い道を月明かりに照らされたおぼろげな光りを頼りに
歩いた。
サンジは一言もゾロと口を利こうとはしない。目も合さない。
ゾロに対し、敵意さえ抱きそうな程、腹が立っていた。
その男の息子は、表情がとても希薄な少年だった。
まだ、6歳にも満たないくらいに幼い。大きな黒目がちの瞳にはまるで
たくさんの子供らしい感情がギュっと凝縮され、そのまま固まってしまったかの
様だ。
傷付いた自分の父の姿を目の当たりにしても、泣きもしない。
ただ、黙って痛みに唸る父親の枕もとにじっと座っているだけだが、それが
却って痛々しい。
「ボウズ、腹は減ってないか?」
チョッパーの手伝いをしながら、サンジはその少年を気遣うように話し掛ける。
きっと、父親の帰りをじっと待っていて、長い時間なにも食べていないだろう。
もう、こんなに幼い子供はとっくに温かな寝床でぐっすりと無邪気な夢を見て
眠っている頃なのに、その子は身じろぎ一つせず、じっと血まみれの父親を
見つめていた。
サンジの声に、小さくただ、首を振る。
それでも、サンジは立ち上がった。
せめて、甘く温かい飲みものでも作ってやろう、と思ったからだ。
ゾロの目の前を通りすぎる時、目を合すこともないままで
「てめえはなんでここへ来た」
「あの子の前によく面を出せたな」と言い吐いた。
「俺は別にあのガキに羞じる事はしてねえ」とゾロはサンジの背中に向かって
言い返す。目と目を合わせて言葉を投げ合ってもどうせ、今のサンジには
ゾロの気持ちなど何一つ受け入れる事など出来無いと判っているから、
ゾロも、真っ直ぐに前だけを見て、サンジを見ようとはしなかった。
「父親の腕、ぶった切ってか」とサンジは吐き捨てる様に背中を向けたまま
呟く。
「てめえにはわからねえ」
ゾロはそんな言葉しか言わない。それがますますサンジの神経を逆撫でする。
言い訳も弁解もしない、自分のした事は全て正しいのだと思って微動だにせず、
傲慢にも見えるゾロの態度にともすれば、気を飲まれてしまいそうになり、
サンジはそれが腹立たしくて仕方なかった。
男は、夜が最も深まり、徐々に明けて行く頃合に意識を取り戻した。
息子はサンジが飲ませた温かな飲み物で腹が膨れたのか、父親の枕もとで、
サンジの上着に包って小さな寝息を立てている。
チョッパーは、もう命がどうこうする様な事も無い、と壁に凭れてまどろんでいた。
「・・・オッサン」
「あんたか。傷はどうだ」
サンジが男を覗きこむと、数秒、ぼんやりした顔付きをしていたが、
すぐに自分に声をかけたのが、サンジだと認識した様で、
はっきりとした言葉を返してきた。「俺の傷の心配をしてる場合じゃねえよ」
思わず、サンジは呆れて溜息を付く。
(つくづく、剣士ってヤツらは理解できねえ)とまた思った。
さっき、自分を殺そうとした癖に、つい今しがたまで自分が死の淵をさ迷っていた癖に、
その相手の傷を気遣うなどと、普通の人間の常識や価値観では到底
理解出来る物では無い。
「医者を呼んでくれたのか」少しだけ首をもたげて、自分の状況を悟った男が
そう言い、それに
「海賊の医者だけどな。傷を縫うんなら、町の医者よりずっと腕は確かだ」
とサンジは答える。
「あんたの仲間か」
「そうだ」男の質問にサンジがそう答えると、男は弱々しい笑みを不精髭だらけの
口元に浮べた。
「惨めで、筋違いなのを承知で、あんたに頼めばこんな事にはならなかったんだな」
「あんたに医者の仲間がいたって知ってれば・・・」
そう言い掛けて、男はサンジに向けていた眼を一度伏せ、自分の息子へと視線を
移しながら横を向いた。愛しげに目を細めて、男は静かに眠る我が子を見つめて
「事情を話していれば、腕を失う事もなかったか・・・」と呟いた。
「事情?」あまり長く話しては体力を失うと思ったけれどもサンジは聞かずには
おれず、つい、聞き返す。
男は、熱を孕んだ息を吐きながら
「医者に見せ、療をしなければ じきにこの子の目は見えなくなると言われて」
「その治療代欲しさにある人から、依頼を受けたのだ」
「麦わらの一味が、「海の雫」を持っている、それを奪え、と」
「そしてその持ち主を殺せば、目の病が完治するまでに必要な金は全て」
「面倒を見てやると言われて・・・」と言って、苦悶するかのように、眉根を寄せた。
「身勝手な理由だな」とサンジは軽い口調を装ってそう答える。
この男が剣士として生きて行くには抱えているものが重過ぎる。ふと、そう思った。
人から見れば、確かに身勝手な理由だと思う。
ゾロの剣が夢を掴む為のものだとするなら、男の剣は愛する者を守る為のものだ。
どちらが正しく、どちらが邪だと誰も判断出来ない。
自分が正しいと思えば、剣士にとって多分、それが正義とか、仁義とか、
サンジには理解出来ない、独特の価値感になるのかもしれない。
「私を斬った男を許してやって欲しい」
サンジが黙り込んでいると、男が落ちついた声でそう言った。
ゾロは何時の間にか、外に出たらしく、側にはいない。
「そんな事・・・」オッサンに言われなくても、と言う言葉をサンジは飲みこむ。
許す、と言う言葉は相応しく無いと思ったからだ。
許す、許さないが問題なのではない。理解出来るか、出来無いかが、サンジにとっては
問題だからだ。
「何もかもを知った上で、あの男は私の剣の道を断ち切ったんだ」
「え・・?」思い掛けない男の言葉にサンジは唖然と言葉を無くした。
(初対面で殆ど何もしゃべってなかったのに、なにを知ったって言うんだ)と
男に尋ねようと口を開きかけたが、男が話し始めるほうが早かった。
「剣を奮う事以外、私が出来る事は何一つ無いと思っていた」
「だから、息子を守り、育てるのも剣さえあれば、剣さえ極めれば生きて行けると」
「思っていた」
「だが、あんたの仲間の剣士・・・ロロノア・ゾロは私に言ったんだ」
「言葉ではなく、突き合せた真剣の切っ先で」
「愛する者を守りたいなら、剣を捨てろ、と」
サンジはその言葉を聞いて、ゾロとその男が戦っていた映像を脳裏に
蘇らせる。そんな会話は一切、成されていなかった。この男とゾロは禄に
口を利いていない筈だ。そう思い返した時、サンジは得体の知れない衝撃で
胸が震えた。
「剣を交えた時にあいつとオッサンが会話したって言うのか」
「会話じゃないな・・・以心伝心とも違う」
驚きを隠せないサンジの声を聞いて、男は笑ってそう言った。
「真っ直ぐな心で向き合う者同士、おのずと伝わってくるモノがあるんだよ」
「剣士の心をその剣士の刀が語ってくれる様な・・・」
自分の感覚を的確に言い表す言葉が見つからないのか男は少し口篭もった。
そして、どんな言葉を使ってもサンジには上手く伝えられないと諦めたのか、
急に口調を明確になった。
「剣士じゃないあんたには判らない事だと思う」
「判らないから、理解出来ないと思うのは当然だ」
「だが、これから先、どんな事があってもあの男は迷わない、間違えない」
「どんな時でも、真実で、誠実で、堅固で、決して汚れない」
「理解出来なくてもいい」
「ただ、あの男を信じぬいて、なにがあっても全てを受け入れてやって欲しい」
「私も腕を失って、決心がついた」
「剣を置いて、息子とともに平穏に穏やかに生きよう」
再び眠りに落ちる前、男はそう言った。
理解しなくてもいい。
ゾロを信じ抜いて、全てを受け入れる。
サンジは男の言葉を何度も頭の中で繰り返した。そうすると、不思議に
胸の中にわだかまっていたどす黒い怒りが消えて行く。
鬱蒼と繁った竹が月あかりに薄い影を無数に地面に落としている外へと出、
サンジはゾロの姿を探した。
ゾロは一番月の明かりを受ける方角の壁に凭れて、月を見上げて地面に
腰を下ろしていた。
サンジは黙ってその隣に腰を下ろす。
「刀って話すのか」長い長い沈黙に耐えきれず、サンジがうめくような声で
そう尋ねると、ゾロは黙って白い鞘、白い柄、下げ緒も白い刀を目の前に横一文字に
捧げ持ち、ゆっくりと鞘から引き抜いた。
月の白い光りを受け止めて、その抜き身の刀が銀色に輝く。
「持って見ろ」そう言ってゾロはサンジにその刀を手渡した。
刀の持ち方などサンジには判らない。
ゾロの持ち方に倣って、切っ先を天へと向けて握って見た。
たくさんの血を吸った筈の刃。
それでも、息を飲むほどに潔く、美しい。
この刀を打った刀工の血の滲むような思い、この刀に託されたゾロの幼友達の夢。
ゾロがこの刀に寄せる愛着の深さ、その理由。
言葉ではなく、夢なのか、想像なのか、それとも刀が訴え掛ける
「言葉」なのか判らない数々の想いがサンジの心の中に流れ込んで来る。
「誰もが判るってもんじゃねえ」とゾロは静かにそう言った。
まるで、刀がサンジに話しかけて、それにサンジがじっと耳を傾ける事を見越していたかの様に。
目先の行動に惑わされて、ゾロを理解出来る、出来無いと動揺していた自分の
弱さを今、奇蹟の様に美しい刀が綺麗に消し去っていくのをサンジは確かに
感じていた。
信じ抜いて、全てを受け入れる。
ゾロがどんな行動を取っても、その根底にあるゾロの価値観はたった一つだけ、
心身ともに世界最強の誇り高き剣士になる事だ。
何があっても、それだけは変わらない。
その揺るぎ無い価値観だけを信じていれば、なにがあろうと、
例え、それがどんなに理不尽で理解出来ない行動だったとしても
今、目の前に翳している刀が穢れない限り、どんな時でもゾロを信じられる。
そう思えた。
「なんにもわからねえぞ」それでも、サンジは素直にゾロに自分が思ったままに
ぶつけた暴言を素直に謝る気にはなれずに、そう憎まれ口を利く。
「嘘つけ。てめえの顔みりゃわかる」とゾロはサンジの腹の中、
何もかもを知っている様な口振りでそう言ってニヤリと笑った。
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