金木犀の風
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幾年、春が来て、夏が訪れ、秋が去って、冬を迎えた事だろう。

穏やかな人、「今」と「過去」を重んじ、それを積み重ねる事で「未来」を
ゆっくりと迎えてきた小さな島で、「彼」は「想い」を胸に抱き続けて、
そこから立ち去る事も消え去る事も出来ずにいた。

今は水も枯れ果て、そそり立つ壁もびっしりと枯れたツタで覆われた、かつて
井戸だった「穴」の底で「彼」は久しく聞いていなかった人の足音を聞いた。

「こっちの方から匂いがするんだが」
「俺にはサッパリわからねえが」

足音は二人、声も二人分が聞こえた。両方とも男だ。
足音はだんだんと近付いてくる。
ずっとこの底へ挿し込んでいた、ほんの少し金色を帯びたような優しい陽光が
一旦、途切れた。「彼」はふと、怪訝に思って空を見上げる。

二人の男が自分がいる底を見下ろしていた。
逆光で顔立ちがよく見えない。ただ、光りに縁取られている髪の色が、
一人は緑色、もう一人は銀杏のような色あいだった。

「こんな穴の中に生えるキノコなんかあるのか」
「お前にキノコの何がわかる」

緑の髪の男が面倒臭そうに言っても、金色の髪の男はバカにしたようにあしらって、
ぐっと底を覗き込むように身を乗り出して来た。

(ここから出してくれ)と「彼」は叫んだ。
だが、彼らはまるで、見えていないし、聞こえてもいないかのようで、
顔色一つ変えない。「彼」はそれでも、構わずに怒鳴り続けた。

(ここから出してくれ、出してくれ)この男達を黙って行かせてしまったら、
ここから出る機会は2度と来ないかも知れない。そう思って「彼」は必死で、
手を伸ばした。

届く筈も無い手は、金色の髪の男の、その髪を鷲掴みにした。
「彼」は確かにその感触を感じた。指の間に絹糸の束を握って、それを力任せに
引っ張ったら、「ドスン」と金色の髪の男の体が自分の目の前に落ちて来た。

(しまった)助けてもらうつもりだったのに、と「彼」は慌てた。
緑の髪の男が自分の頭の上で「おい!大丈夫か!」と怒鳴っている。
だが、金色の髪の男は頭からまっ逆さまに落ちてきて、石を敷き詰めた底に打ち付けたらしく、わずかに降り積もっていた今年の枯葉が じんわりと頭から流れた血で
少しづつ、湿って行く。

(いかん)「彼」はその金色の髪の男の体から何か、ボウっと光る小さな珠が
空へ向かってユラユラと昇って行くのを見て、慌てた。
この「珠」が体の中に入っていないと「体」は「骸」になってしまう。
そんなつもりで金色の髪の男に手を伸ばしたのではなく、ただ、ただ、助け出してほしかっただけなのだ。

「彼」はその珠を両手で掴んで、血まみれながらまだ金色がはっきりとわかる、
大人にしては小さめの頭に押し付けた。すると。

(よし)珠は砂に水が沁み込むように、金色の頭に吸い込まれて行く。
だが、いい按配になった、と珠から手が離そうとしたのに、「彼」の手は
いや、「彼」自体が金色の髪の男の頭の中にどんどん吸い込まれて行く。

嫌も応もなかった。

「おい!おい!」と揺さ振られて、眼を開ける。
緑色の髪の男、目の色も緑色だった。

「ここは」と「彼」は声を出して見た。
そして、(私の声ではない)と驚いた。

「枯れ井戸に落ちたんだ。キノコ取る為に死ぬトコだったんだぞ」と自分を怒鳴っている男の形相は凄まじい。

「ちょっと、待ってくれ。」
「なんか変だ。」

(そうだ、説明してくれ)「彼」は勝手に喋り始めた体の主に、占有権を譲った。

「どうも、゛命を拾って貰った"らしい」
「何?」サンジの不可思議な言葉にゾロは首をに捻った。

「多分、同じ歳の頃だと思う。この井戸の中で死んだ男で、」
「井戸から出たくて、俺を引っ張ったら掴みどころが悪くて、
「俺を落しちまったみてえだ」

一旦、体から飛び出しそうになった「珠」はかなり消耗する。
冬眠の様な深い眠りを貪らないとまた、体からフワフワと飛出しかねない代物の様で、
「後はわからねえ。そいつが起きててくれねえと俺の体、死ぬっぽいから」
「俺が寝てる間、仲良くしてやってくれ」とだけ言うと、
ゾロの腕の中で抱き起こされていたサンジの体からはぐったりと力が抜け、瞼が塞がれた。

「意味がわからねえぞ、おい!」
「おい!」とゾロはしぶとく、サンジの体を揺すった。

(死ぬっぽい、)と自分の体の事を無責任に言うだけ言って、昏睡してしまっては、
本当にどうしていいのか分からない。

「おい、サンジ!」と珍しく名前をわめく様に叫んだ途端、瞼がピクっと
痙攣する様に動いて、ゆっくりと目が開く。

「申し訳無い、こんな事になるとは思わなかったモノだから」と
言ったサンジの声はサンジの声だったが、口調が全く違った。

「お前、」サンジではない、とゾロは思わず、腕を離した。
離したけれども、サンジは倒れる事も無く、ゾロを申し訳なさそうに
ゾロを見ている。

色々な偶然が重なって、「彼」はサンジの体に留まらねばならない運命に巡り合せた。
「彼」は、名前を「ヨシ」と名乗った。この島きっての「剣士」だったと言う。

「どれくらいの腕前だったんだ。」「剣士」と聞いて、ゾロは少し、「ヨシ」に
興味を持った。
「さして、強くも無い。」
「山賊にだまし討ちされて、井戸に投げ込まれて死んだくらいだから」と「ヨシ」は
落ちついた口調で答えた。

その落ちついた、奢らない佇まいに「ヨシ」の腕がいかほどか、ゾロは察しがつく。
眼差しやサンジとははっきりと違う仕草の一つ一つを取っても、「ヨシ」が
(相当な技量を持つ剣士だったに違いねえ)と、同じ剣士だからこそ、ゾロには判る。

「俺達、山賊のお宝を奪う為にここへ来た、海賊なんだ。」とゾロは話題を変えた。
出来る事なら「ヨシ」の技量を、
「サンジ」の身体能力を、
「サンジ」がもしも、「足技」でなく、「剣技」を覚えたらどれほどの強さになるのかを、

ゾロは見たいと思った。

「あいつの体、貸してやってるんだ。ちょっと俺達の用事にも付合ってもらおうか」
「山賊?」ゾロの言葉を聞いて、「ヨシ」の表情が変わった。
言い出しにくかった事を先に言われてあり難い、と言う感情がサンジの顔に
染み出てくる。
顔だけをじっと見ていると、「ヨシ」と「サンジ」の違いがゾロでもさえ、
とても見分けにくい。

「ちょうどいい。私も山賊に用がある」
「ヨシ」と「ゾロ」は山賊の根城である隠れ里へ向かった。

「私は、将来を約束した恋人がいて、結婚を申し込みに行く途中で」
「山賊に襲われて、恋人に渡す筈の「カンザシ」を山賊に奪われたんだ」

その道すがら、「ヨシ」はゾロに自分が死んだ経緯や、自分の素性を、
ゾロの質問に答える、と言う形でボソリ、ボソリとした口調で答える。

「約束の日、約束の場所に行けなかったのか」とゾロは聞いた。
「そうだ」と「ヨシ」はサンジの声で答える。
その顔の一番美しい眼には、その恋人へ想いを馳せる「ヨシ」の感情が滲んでいて、
切なげに見えるその表情はゾロが初めて見る「サンジの顔」、その曖昧な眼差しに
ゾロは一瞬、見惚れて、息を飲んだ。
サンジなら、こんな顔はしない。
判っているけれど、優しく、切ない表情のサンジの顔は新鮮で美しいと
感じないではいられなかった。

(それが心残りで、ずっとあの空井戸の中で)ゾロは「ヨシ」があの井戸の中で
澱んでいた理由をそう推測した。

「あの、田んぼの端で咲いている花があるだろう」と「ヨシ」は山の中の
稲穂が垂れた棚田の側を歩きながら、ゾロに群生して咲く、紅色の鮮やかな花を
指差した。

「彼岸花、曼珠朱華、とも言うな」とゾロは「ヨシ」の差した花の呼び名を
呟くような声で答えた。
「知ってるのか」と「ヨシ」は意外そうにゾロを振り向く。
「ああ、俺の故郷でも咲くからな」

「今日が何月何日かはわからないが、私の恋人の誕生日はこの花が咲く時期だ」
「だから、その誕生日に結婚を申し込もうと思って手に入れたカンザシだ」
「それを取り返したい」と「ヨシ」は「山賊に用がある」と言った理由を
ゾロに話した。

「その山賊が今もそのカンザシを持っているか判らねえだろ」とゾロは思った事を
そのまま口にした。何故なのかは判らない。
「ヨシ」が恋人の事を話せば、話すほど、同情もするのに、心の中には説明の出来ない
曇りが沸いてきて、不愉快だった。

「いや、山賊の頭の娘に騙し取られたんだ。絶対にまだ、その娘が持っている筈」
と「ヨシ」はそんなゾロの気持ちを察する事無く、きっぱりと答える。

「それを取り戻して、どうするんだ」
「あんたはもう、死んでるんだぜ」とゾロは立ち止まって、前を歩く「ヨシ」に
サンジの背中に問い掛けた。

「判らない。」と「ヨシ」は振りかえった。
「確かに体は死んだ。でも、私の愛は生きている。」
「それを伝える事が出来たなら、何も思い残す事はなくなって、安心してあの世に行ける」と「ヨシ」はサンジの声で答える。

真っ直ぐにゾロを見る目はサンジの眼だけれど、サンジの眼差しではなかった。
ゾロの知らない、ゾロが見たこともない、真剣でひたむきな「愛」を
知っている男の眼差しだった。
その眼差しをゾロは直視出来ない。
自分とサンジを繋いでいるものと、「ヨシ」の中にある
意地も競争心もない、止めど無く溢れる、ただ、ただ、愛しい者への想いと比べて、
なんと拙くて、不器用で、危なっかしいものかを思い知らされる。
それを羨ましいと思う自分の浅ましさに気がついて、ゾロは「ヨシ」から目を逸らす。

「山賊はどうやって?そいつの体でヤリあえるか?」とゾロは話題を変えた。
「さあ。なにしろ、肩幅も腰周りも腕の太さも半分くらいしかないからな」と
「ヨシ」は淡々と答える。

それから1時間ほど山の中を歩いて、山賊の根城に辿り着いた。

「適当な刀を手に入れたら、助太刀頼む」とゾロはまだ、簒奪者の侵入に
気付かない、山賊の根城となっている古い大きな木造の屋敷を物陰に身を隠しつつ伺って、「ヨシ」にそう言った。

「助太刀など必要ないだろう」と「ヨシ」は小さく笑った。
「この、「サンジ」の体でどんな剣を奮うのか、が見たいのだろう?」

それを聞いて、ゾロは黙って苦笑いを浮かべた。
「くれぐれも、傷をつけねえでくれよ」
「俺に取っちゃ、あんたのカンザシに匹敵するヤツなんだからな」

カンザシを贈る筈の恋人に対する想いと同等なくらいに大事な者なのだ、と言う
言葉をゾロは至極簡単に口にして、ゆっくりと刀を引き抜いた。

「そうだ。もし、あんたがあの世ってヤツに行ったら頼みてえ事がある。」
ゾロはふと、和道一文字を握ってくいなの事を思い出した。
「なんだ」と「ヨシ」は身を屈めて、気配を殺しつつ、ゾロを見上げる。
「お互い、用が済んでからでいい。」とゾロは答えて、刀をいつもどおりに構えた。


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